青がとけるところ

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こんな出会いはアリですか?



 
 立花たちばな恵真えまはジェットコースターが大嫌いだ。

「あんなのに乗って、わざわざ寿命縮めるって、どんだけマゾなのって思うよね!」

 なんでその話題になったか恵真は覚えていない。たぶん、昨日の夜の『世界の絶叫マシーン』みたいなテレビ番組の話からだった。

 いつもの通学路、恵真はふくれっつらで小石を蹴った。

 ジェットコースターくらいで寿命縮むのは、恵真くらいのものだよ、と幼馴染の黒川くろかわ景貴けいきが穏やかに笑う。

 高校からの帰り道、毎日最高気温を更新し続ける暑い夏の、でもなんでもない日だった。


 …のはずだった……



 のに。



 
 繰り返しになるが、立花恵真はジェットコースターが嫌いだ。

 もっと言えば、落ちることが嫌いだ。身体の芯が無理矢理に抜かれて、恵真は力が入らなくなる。ディズニーランドのビッグサンダーマウンテンで腰が抜けて友人に笑われたのは、恵真の中の黒歴史である。「ちいさな子だって乗れるのに」って。

 とにかく、嫌なものは嫌なのに。

「ひいいいいい」

 恵真は十六歳の花も恥らう乙女だ。人間心から怖いことに遭遇すると、乙女だっておっさんだって、きっとこんな声が出る。

 だから恵真の悲鳴は、この場合正しい。

「死ぬ、死んじゃうっ!」

 ショートカットの髪は、乱れて空に舞う。ぎゅっとつむった目から恐怖で溢れる涙が、目尻から離れて悲鳴の名残なごりとともに空に吸い込まれていく。

 その空の色は、綺麗な紫色なのに、恵真は当然気付く余裕はない。

「不思議だと思わない?僕ら地面に向かってるはずなのに、いつの間にか空にいる。しかも紫色の空に」

「そんなの、知るかっ!もう、景貴っ、何とかしてよっ!あんた、しゅうしゃいでしょ!」

「舌、まわってないよ」

「うううう、うるしゃい!」

 恵真は景貴の胸にしがみつく。つかまるのは結構だが、ネクタイをぎゅうぎゅうと締めるのはやめて欲しい。落ちながら景貴は息をついた。秀才でしょって言われたって、こんな状況でどうしろっていうんだ。

 景貴は愛用の眼鏡を定位置に固定する。とりあえずこれがないと、なにも見えない。

 震えだした恵真を抱えて、景貴は落ちる方向を見た。風が鳴る向こうには、まだ空の色がひろがるばかりだ。

「確実に、死ぬな」

 景貴は腕の中の恵真を見て。

「…とりあえず、想いは遂げとくか」

 と、恵真のあごに手をかけた。




***



 ぽん、ぽん、と音がしたあとに、鮮やかな紫色の空に花火の煙が白く咲く。それはまるでハゾイの行く手をちょこまかとはばむ子供たちの手にある綿飴のように、のんきで柔らかい。

 今日は一年に一度の『空蝕くうしょく』である。この世界の空が、もう一つの世界と繋がって混じり合う、特別な日だ。このワドバイル王国だけでない。世界中のいたるところで、祭りだ。『空蝕』を見上げ、祝い、食べて、踊る。皆が一様に笑う日に、このハゾイだけは、ただでさえ凛々しい顔をさらにきりりとさせて、石畳を歩く。

「ハゾイ、そんなにしかめ面をしていると、『稀人』がやってきませんわ。もっとにこやかに、頬を緩めてくださいな」

 人込みの中でも優雅に歩く、ハゾイのあるじが振りかえる。目深のヴェールが風をはらんで、長い金の髪が肩から背へと、さらさらと流れた。大きな茶色の瞳が、ハゾイを映す。

「そうは仰いますが、ミシュレイディアさま。このような人込み、いつ何時お命を狙われるかわかりません」

 言いながら、ハゾイは背後に居た男に肘を喰らわせる。男がうめき身体を「く」の字に曲げた瞬間、すかさず額をもう一方の肘で突く。この素早い動作の間、ハゾイは生真面目そうな藤色の目を主に向けたままである。ついでに付け加えれば、一見平服のハゾイの肘には、硬い金属の肘あてがあったりする。彼の全身、似たようなもので覆われている。けれどハゾイは、若い娘なら十人が十人振り返るほどの貴公子だ。もちろん、無粋な金属音など、微塵もたてない。

 ミシュレイディアはハゾイの行動など全く知らないといったふうに、白いしなやかな手を口元にあててころころと笑った。

「ありがとう、私の守り刀まもりがたな。あなたのお陰で、私がこうして祭りを楽しめるのですね。まるで、普通の娘になったようですわ」

 幾百の鈴が鳴るような声が言葉を紡ぐあいだに、ハゾイは走り回る子供たちの手から綿飴をすっと奪い、ミシュレイディアの後ろに、射るように鋭く放つ。

 みるからに怪しい黒っぽい服装の男が、目をおさえてうずくまった。

「ハゾイ、小さな子を泣かせてはいけませんわ」

「失礼しました。その男がどうしても、目で綿飴を食べてみたいと私に訴えかけるものですから」

「まあ、そうでしたの。それでは仕方がありませんね。では、私が新しい綿飴を買って差し上げましょう」

 ミシュレイディアに促されて、べそをかきかけた子供が機嫌を直す。その後ろから、若い母親が何度も頭を下げた。

「ミシュレイディアさま、なんと恐れ多いことで」

 言いかける若い母親に、ハゾイは自身の唇に人差し指を当ててみせる。

「ご当人はあれでもお忍びのおつもりだ、声を鎮めるよう」

 こくこくと頷く母親の頬が赤いことに、ハゾイは気付きもしない。

 このお忍びは恒例行事である。世継ぎの姫のお出ましに、国民は慣れていた。

 だが、慣れるのと目を奪われるのは、また別問題なのである。ミシュレイディアとハゾイは周囲の視線を集めながら、露天を冷やかして歩く。

 ワドバイル王国の世継ぎの姫、ミシュレイディア=レティシア=レフレイン。波打つ金髪と愛らしい薄茶色の瞳をもつ美女である。その守り刀は、ハゾイ=アシュリード。ミシュレイディアが世継ぎと決まったときから常にかたわらにあり、彼女をまもる騎士。ハゾイは子供たちと手を繋いで歩くあるじをのあとを、きびきびと歩いた。周囲の目はすっかり主に集まっている。そろそろ城に戻らねば。城下は狙われやすい。ハゾイは刺客に遅れをとらない自信があるが、無用の騒ぎを起こすことは、ミシュレイディアの本意ではあるまい。

 ハゾイがミシュレイディアに声をかける前に、彼女が綿飴を差し出した。

「はい、これはハゾイに」

「私は勤務中でございますゆえ、飲食は」

 ミシュレイディアは自分の眉間を指差す。

「せっかくの祭りにそんな厳しい顔は不似合いですわ。ハゾイと綿飴…なかなか素敵な組み合わせでしてよ」

「…は、ですが」

「ハゾイ、受け取らねば、私、帰りません」

「ミシュレイディアさま、それでは有り難く頂戴いたします」

 二人はそれぞれ不器用に綿飴を頬張り、帰城の途をたどる。小さな舌で唇を舐めて、ミシュレイデシアがハゾイに笑いかけた。

「ハゾイ、お誕生日おめでとうございます。これはプレゼントの序章でしてよ」

「ありがとうございます。身に余る光栄でこざいます」

「ケーキの蝋燭は、もちろん歳の数。30本用意しました」

「…重ね重ね、ありがとうございます」

 そんなわけで、ハゾイは本日三十路の大台に入った。因みに独身である。

 美しい姫を護る凛々しい騎士は、度々絵に描かれた。

 名門の貴族に生まれ、騎士として数々の功績を讃えられながら、けっして驕らず、品行方正、泰然自若、高潔無比。

 …転じて『面白味の無い男』なのであるが。

 ハゾイは主の他愛のない話を聞きながら、降りかかろうとする危機を全て事も無げにはらう。城の中はハゾイが目を光らせているから比較的安全だ。だが、一歩城を出ればそうはいかない。王位継承権第一位のミシュレイディアを目ざわりとするものたちは、この機会をつねに待っていて、一斉に命を狙ってくる。

 ミシュレイディアは国王の養女だ。国王・クラトス=アウグスト=レフレインは50歳。武勇の人で、現在領土を広めるべく南の国境に長期遠征中である。正室をはやくに亡くしてはいたが、5人の側室と2人の隣国からの人質の姫とのあいだに、それぞれ一人ずつ、7人の子を生している。それも随分と器用に全員2歳と離れていなかった。しかも全員男である。王曰く、『時間が勿体無い』とのことらしいが、精力的としかいいようがなかった。

 …とにかく、歳の近い7人の王子は、母の身分もほぼ等しく、能力も同じほど。とくに劣るでもなく、秀でるでもない普通の青年に育った。厄介なことに権力欲はみな強く、王位継承を巡って醜い争いが近年まで続いた。7人の王子のうち、4人が不慮の事故で亡くなったが、果たして事故かどうか…全ては闇の中である。

 戦に明け暮れていた王は、これは流石にまずいと、一人で勝手に考え、勝手に答えを出し、勝手に王位継承者を国民の前で発表した。それが3年前の新年のこと、選ばれたのがミシュレイディア…王が遠征時に気まぐれに拾った出自の知れぬ戦災孤児である。

 ミシュレイディアは当時14歳。拾ったときから5年が経っていた。すでに人目をひく美しい少女であったから、王が拾ったとき、誰もが慰むためと思っていたのだが。

 王子たちの驚愕きょうがくと反対は凄まじく、この時ばかりは一致団結し全員で父王に噛み付いたが、王は一喝で息子達を振り払った。たじろぐ息子たちに、王は言った。

「ミシュレイディアの優しくつよい心の半分でも、おまえたちにあったなら、俺の気持ちも違ったろうがな。俺はこの国を強く豊かにする。次の代は俺のひろげた国を、慈しんで育てる王でなければならない。この娘にはその器量がある。俺は血にこだわらないが、必要ならミシュレイディアはたった今から我が娘だ。息子たちよ、次期女王に忠誠を誓うがよい」

 ワドバイルの王命は絶対で、なにものにも覆せない。王子たちは屈辱にまみれながら、王と妹になったばかりのミシュレイディアに膝を折った。たかが小娘、すぐにボロをだすと高をくくっていた部分もあった。

 だが王子たちの予想を裏切り、ミシュレイディアは乾いた土が水を吸うように知識を吸収し、春の陽のように優しく国民を愛し、朝露を抱く薔薇のように美しくたおやかに成長した。そして現在、臣民の敬愛を一身にうける世継ぎの姫となったのである。

 ミシュレイデイアは命を狙われている。狙うのは、王子たちと父王クラウスに侵略された国々に連なるもの。それでも彼女は安住の城を出ることを厭わない。国民に親しむことは義務、と大人びた表情で言うだけだ。それがお養父さまにできる恩返しだと。

 ハゾイはミシュレイディアがいたわしい。主はそろそろ結婚を考える時期だ。暗殺者の数よりも多く、近隣の王子、国内の貴族、あらゆる縁談があるが、ミシュレイディアは興味がないようだ。困ったことに、ここには一方で暗殺者かもしれない兄王子たちも含まれる。

「欲得なく、支えてくださるご伴侶に恵まれれば」

 ハゾイは壮麗というより堅牢の比喩が似合う城の裏門をくぐりながら、つい、呟いた。クラウス王とハゾイが取り仕切る城は、いつも緊張感に満ちていて、門を通り抜ける風までぴりりとしている。門兵が二人に見本のような敬礼をした。

「何か言いまして?」

「いえ、風の音でしょう」

 裏門をぬけると、石畳の小さな広場に出る。数人の兵が馬を連れて歩いてきた。馬は見事な白馬で、けばけばしい装具をつけている。誰の馬か気付いたハゾイはあからさまに眉をしかめた。兵が二人に敬礼する。

「ミシュレイディアさま、ドージェスさまが戦地からお戻りです」

 出たな馬鹿王子その一。ハゾイはどうにも抑えられないため息をやっと堪える。

「まあ、兄さまが?ですが今日はハゾイの誕生日。兄ぎみには少しお待ちいただくよう、お伝えなさい」

 ミシュレイディアの言葉に、兵は困ったような顔をした。

「じつは…ドージェスさまのお戻りの理由は、戦地にてお怪我を負われたからで…ドージェスさまはお怪我の手当てを受けながら、うわごとのようにミシュレイディアさまのお名前を呼んでいらっしゃいます」

 ハゾイは今度こそため息をついた。頭を抱えるのを堪えただけ自分を褒めたい。ミシュレイディアは両手で口元を覆い、即座に半歩後ろのハゾイを振り返った。

「ハゾイ、ごめんなさい。兄さまのところにまいります。誕生パーティはまた後日に…今日は家で、ゆっくりと休んでください。私からのせめてもの贈り物です」

「勿体無いお言葉、私のことはお気になさらず、どうかドージェスさまのところに」

 ハゾイが言い終わらないうちに、ミシュレイディアは兵の案内で城に入っていった。城に入れば、アイーシャがいる。アイーシャは有能で姫思いの初老の女官長で、ハゾイの茶のみ友だちである。

 ハゾイは、カッ、とかかとを小気味良く合わせ、遠ざかるミシュレイディアに深々と頭を下げた。

「それでは、今日はこれにて失礼致します、わが君」

 その声が届いたのか、小鹿のような軽やかな足音がして、ミシュレイディアが戻ってくる。

「ハゾイ、今日用意したケーキは、 アシュリード家に責任もって届けさせます。必ず食べてくださいね」

「…はい、ありがたく」

 ミシュレイディアのことだ、えらく愛らしい装飾のケーキに違いなく、三十路の男には似合わないだろうと思う。が、折角の主の厚意、甘んじていただくことにする。



***



 紫色の空は、この世界の空とどこぞの次元の空が繋がったしるしだ。年に一度起こるこの現象を、この世界では『空蝕くうしょく』という。人々の反応から分かるように、慶事である。

 なぜそ現象が起こるのか。それは誰にも分からないが、この世界の気を入れ替えるための自浄作用だといわれている。ミシュレイディアが住まうこの世界には果てがある。ガラス玉のなかに、世界があるようなものだ。

 美しいいろをした空も、その遥か上空で閉じている。果てのある世界。月も星も太陽も、ガラス玉の外にある。

 閉じられたものの常で、空気はじわじわとよどむ。川の澱みのように、静かに腐っていく。澱んだ空気を入れ替えるため、空が年にいちど、ひらくのだ。

「今年の『空蝕』も終わりますね…夕闇のいろは、いつものいろですわ」

 ミシュレイディアは頑丈な城らしく鉄格子がはまった小窓から、空を仰いだ。城下からはまだ賑わいの声が聞こえる。空のいろは、見慣れた色に戻りつつある。

 ワドバイルは小国である。というより、ミシュレイディアの知る限り、近隣からかなり離れたところまで、小国がひしめいている。とすれば、この言い方は正しくない。ワドバイルは比較的大きな国だ。肥沃ひよくな土地柄、裕福でもある。それでも父王は、満足することなくせっせと領土を増やしている。

 ミシュレイディアはそっと息をつく。他国からの恨みを買うのには慣れた。自分にはハゾイがいる。彼は優秀な守り刀、ずっと守ってくれるだろう。多分、生涯独り身で。

『でも、それでは、ハゾイが不憫ふびんですわ』

 口に出してはいないのに、その言葉をきっかけに、背後で気配が動く。衣擦きぬずれの音がした。

「そんなに窓のそばに居ては、身体が冷えてしまうよ、ミシュー。もう『空蝕』は終わり、おさなごでもあるまいに、まさか『稀人まれびと』を待っているわけでもないだろう?可愛いひと」

 猫撫で声に、ぞぞぞ、と悪寒が背中を駆け上る。ミシュレイディアは名を略されるのが嫌いだ。ハゾイはきちんと心得てくれているというのに、この義兄ときたら。

「ここ百年、『稀人』が落ちてきたという話はありません。この世界には彼らが必要だというのに。繋がった異なる世界から稀に落ちてくる人…逢ってみたいとは思いませんか?」

 ミシュレイディアはぐいぐいと頬を持ち上げ、努めて笑顔をつくると、振り返った。身体が触れる寸前に、兄・ドージェスがいる。ドージェスは収穫期をうっかり逃したキュウリのようだ。お腹のあたりがでっぷりと太っている。彼の愛馬は真っ白だが、こんなに白馬の似合わない王子様はいないのじゃないかしら?

 ドージェスは太い腕をこれ見よがしに包帯で吊っていた。実はかすり傷だと、女官長のアイーシャに聞いた。彼女はこの部屋のそとに控えているはずだ。

「僕は『稀人』よりも、君に逢えることのほうが喜ばしいよ」

「お怪我の加減はよろしいのですか?兄さま」

「兄さま、なんてつれない呼び方はしておくれ。その愛らしい声でドージェスと」

 不器用そうな指が頬に触れるまえに、ミシュレイディアは一歩窓側に下がった。大袈裟に首をかしげて、幼く振舞う。

「まあ、尊敬して止まない兄さまを、名で呼ぶなどと…私にはできませんわ」

「僕は一度も君を妹と思ったことはないよ。少女の頃から、僕の心を支配するのは君だけだ」

 酔ってる。ドージェスは自分の陳腐な言葉に酔ってる。

 …これだから、兄たちを城に入れるのはイヤなのだ。父王はこの城を世継ぎたるミシュレイディアのものとした。兄たちは近くにそれぞれ城を貰って住んでいる。形は兄妹だが、間違いがあってはとの配慮だが、実はハゾイが進言したことだ。父王とハゾイの過保護は、割と有名である。

 怪我、などと言い出さなければ、適当な理由をつけて追い出すのに…とミシュレイディアは舌打ちしたくなる。これでも市井しせい育ちだ。下品な行動は嫌いじゃない。

「好きだ、愛しているよ、ミシュー」

 この自信はどこから来るのか、いつか聞いてみたい。偉丈夫の父王クラウスとは似ても似つかない、蛙のような顔をして。

 ミシュレイディアの後ろはすでに冷たい石壁だ。虫唾むしずの走る言葉を並べ立てられ、すでに精神の限界が近い。暖炉の火かき棒で殴ろうか。

 ……それは流石によろしくない。では、(淑女らしく)平手を見舞おうか、部屋のそとから援軍を呼ぼうか。

 どうしようかと考えるミシュレイディアの耳に、ひゅるるる、と下手くそな笛のような音が入ってきたのは、そんなときであった。



***



 ハゾイは城に程近いところに屋敷があるが、それほど帰らない。城に与えられた部屋で遅くまで執務にいそしみ、気がついたら夜半ということがほとんどだ。

 仕事が忙しい、という理由をつけて、実は帰りたくない。ハゾイはアシュリード家の当主である。直系は彼ひとりきりで、両親はすでに他界している。ひろい屋敷には、数人の使用人だけという、寂しい状態となっている。

 この、使用人が問題だ。ハゾイは自宅の大きな門を見上げる。使用人の中に、古狸がいる。先代から仕える、家令の…。

「おかえりなさいませ、ハゾイさま。久しぶりのお戻り、うれしゅうございます」

 メレイン、である。白髪で痩身の老人は、門の真ん中で完璧な辞儀をする。何も言わない馬上のハゾイに、顔をあげたメレインがにこりと笑いかける。

「ハゾイさま、30のお誕生日、心よりお祝い申し上げます」

 数字に力がこもっていたのは、多分ハゾイの気のせいだ。…ということにしておく。ハゾイは「ああ」とだけ言って馬を降り、手綱をメレインに渡す。

「よく帰ってくるのが分かったな」

「ええ、歳のせいか、よく勘が働くようになりました」

「元気そうでなによりだ」

 ハゾイはさっさと会話を切り上げる。カツカツと素早く歩いて、さっさと屋敷に入る。メレインを振り返ることはない。面倒なことになるからだ。さっさと自室にこもってしまえ。

 メレインは近づいてきた馬丁に手綱を預け、見た目はゆっくりと、でもなぜか速度はすぐにハゾイに追いつく。そうは見えないが、実は追いかけっこだ。メレインの側にすっと使用人が近づいて、厚表紙の紙の束が渡されたのに、ハゾイは気づく。当主のハゾイが有能なせいか、この家に働くものは皆優れている。…厄介なことに。

「恐れながら、ハゾイさま」

「…なんだ?」

 次の展開は分かっているのに、ハゾイは自室の扉を開けたところでメレインに捕まった。振り向きたくない、振り向きたくないが仕方ない。

 メレインは邪気のない笑顔で、豪奢ごうしゃな装丁の紙束を、ハゾイに押し付けた。

「これはなんだ」

 聞かなくても分かっている。ひらいて中を見るつもりは微塵もない。

「ハゾイさまのお見合い相手の釣り書きでございますよ。このメレインが太鼓判を押しました、お嬢様がたでございます」

「5割り増しで描かれた肖像画に興味はない」

 言ってからしまったと思った。

「でしたら、直接お会いになったら」

「いや、いい…多忙なのでな」

 メレインは胸元からきっちりと畳まれた白いチーフを取り出し、おもむろに目に当てた。

「このメレイン、言いたくはありませんが、口惜しゅうございます。古くは王家一門が発祥の名門アシュリード家のご当主が、30歳のお誕生日に誰も祝うものがないなど。本来なら、奥方さまと、かわいらしいお子さまのお世話をするはずの老体が、寂しいお屋敷の管理だけ、とは」

 今度は明らかに数字に力が入っている。

 祝うものが無いわけではない。派手なことが嫌いだから、全て断ってしまっただけだ。ハゾイはそれができる立場にいる。流石にミシュレイディアの申し出だけは、断るわけにはいかなかったが。

「私だって考えてない訳ではないぞ、メレイン」

 メレインにはどうも弱い。というより、早く切り上げたくて、ハゾイは紙束を小脇に抱えて部屋に入る。窓際に、久しぶりの寝台がみえた。天蓋つきのひろい寝台は、ハゾイのお気に入りで、帰るとたっぷりと惰眠をむさぼる。

「どのようなお考えか、お聞かせ願いましょうか」

「今日はしつこいな」

「しつこくて結構でございます」

 ハゾイは再びメレインを振りかえる。口を開けるが、言葉は詰まる。当たり前だ、常にミシュレイディアのことに心を砕いているから、自分のこと、まして伴侶のことなど、どうでもいいのだ。

 …と、本音を言ったら、休めなそうだ。

 どうしようか、と思ったときだった。ひゅるるる、と調子外れの笛のような音がして…。

 ハゾイは音のするほうを見た。窓?いや外だ。メレインも主人の目線を追う。

「いや、天井か!」

 言うが早いかハゾイは何の未練もなく紙束を投げ捨て、メレインをかばって床に伏せた。

 ハゾイの部屋は、二階の角にある。まず、石造りの天井に何かが当たる音がした。それから、崩れる音と、木が裂ける音…すべてがいっしょくたに大きな音をたてて、残骸とともに振ってくる。床で硬い音をたてる。

「ハゾイさま、これは…」

「しっ」

 ハゾイは大きく開いたばかりの天井を見た。何か、いる。木枠に引っかかっていたそれは、重みでハゾイの寝台のうえにくったりと落ちた。もちろん、天蓋は破って。

「おお…おお…祖父に聞いたとおりだ。この世には存在しないはずの黒髪…」

 メレインがふらふらと立ち上がり、寝台を覗き込んで、それから嬉しそうにハゾイに向き直る。

「…流石は、ハゾイさま。稀人まれびとをご伴侶に迎えるとは」

「まて、メレイン。何の話だ」

 立ち上がったハゾイに、メレインが右手の指先をぴっと揃えて、寝台を指し示す。

「ハゾイさま、ご婚約おめでとうございます」


 

 そして、その頃。

 同じようなことが、ミシュレイディアのところにも起こっているのだった。ハゾイのところより派手に。

 城の一画が崩れる騒ぎに、衛兵、女官が部屋に集まる。そして、ドージェスが腰を抜かし怪我の腕で思いっきり後ろ手をつく向こうに。

「まあ、黒髪に黒い瞳…おまけに眼鏡まで黒縁で…」

 空から落ちてきた人・黒川景貴は、ハゾイのところに落ちたジェットコースター嫌いの人と違って、意識はある。いててて、と頭を押さえて瓦礫がれきの中から立ち上がった。眼鏡も確認する。よかった、割れてない。

「なんだここは…西洋の…」

 城みたいだ、と続けようとした景貴の目の前で、マリーアントワネットのような美女が、ドレスを摘まんで、優雅に頭を下げた。

「ようこそ、稀人さま。そして私の、夫になるかた」

「は?」

 ミシュレイディアは景貴の腕をとると、ドージェス以下、目を丸くする人々に笑いかけた。

「私、この方と結婚しますわ」

 しばしの間のあと、「えええ!」と間抜けな声があがり、その声は城下にまでとどろいたという。




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