青がとけるところ

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甘い香りに誘われて




 甘い匂いがする。

 恵真えまは誰かの袖を握っている。自分の手がちいさいことに驚く。辺りは夜で、提灯ちょうちんの明かりと両側に並ぶ露店からのいい香りと。

「恵真、おいしいかい?」

 …お父さんだ。背がひょろりと高いお父さん。

 恵真の父は楽しそうに笑って、綿飴を頬張る娘を見る。父の手にはヨーヨーに塞がれている。だから恵真は父の浴衣ゆかたの袖をきゅっと握る。

 大好きなお父さん。大好きだけど、お父さんはあまり生き方が上手じゃない。天涯孤独のお父さんは、同じような境遇のお母さんと結婚した。

 もう少し考えて欲しい。天涯孤独ってことは、それだけ身内に縁が薄い…つまりは、長生きしづらい家系なのだと。

 大好きだった父も、母と恵真をのこして死んだ。

 甘い匂いは、父の思い出への呼び水になる。

「お父さん…」

 気を失ったまま、恵真は呟いた。

 泣きそうに歪んだ顔は、次の瞬間怒りマークがつく。

 おとーさん、あなたのムスメは、本日ファーストキスを奪われましたっ。

 あとの呟きは、寝言にありがちなことに意味不明の音にしかならなかったのだが。



 一方、言われたほう。

 ハゾイは自室の隣の部屋で、こんこんと眠る寝言の主を見ている。と、いうより寝台の脇に据えられた椅子でまどろんでいたが、恵真の声で起きた。うたた寝も当然のことで、何せハゾイは大変疲れている。

 誤解のないように言えば、歳のせい…ではない。断じて、ちがう。

 彼は世継ぎの姫の守り刀であり、この頃は姫の政務の補佐も兼ねる。心から休めるときは、ほとんどない。

 それにしても、と、ハゾイは髪をかきあげた。前髪がさらりと落ちて、藤色の目を一方だけ隠した。

「父と呟くか…よく見れば、まだいとけないではないか。何が婚約だ、メレインのやつめ」

 メレインと有能な使用人たちに寝所を整えられ、ハゾイが共に押し込められてからどれくらいたったか。豪奢な刺繍の入ったカーテンの向こうはまだ暗い。

 欠伸あくびを噛み殺して、ハゾイは蝋燭の火に照らされる稀人まれびとを見る。

 髪が短い。肌が少々日に焼けている。

 …心底無粋ぶすいな男の、彼女への感想はたったそれだけだった。もしこの印象のみで絵を描けと言われたら、さぞのっぺりとした肖像画ができるに違いない。恵真の世界で言う、こけしのような。

 ハゾイの見る限り、稀人の容態は安定している。寝息も規則正しいし、一人にしても大丈夫そうだ。ハゾイはそっと立ち上がろうとして、気付く。

 稀人は、ハゾイの袖をきつく握り締めていた。試しに軽く振ってみたが、離れない。手を添えて外そうとしたが、徒労に終わった。

 稀人が、ううん、と軽く言って身をよじる。その声が意外に大きくて、ハゾイは少し驚いた。

「…まったく、とんだ災難だな」

 ハゾイは再び腰を降ろし、足を組んだ。自然に腕を組もうとして、片手の拘束によりできないことを思い出す。起こすのも不憫ふびんだ。仕方あるまい。それにしても手持ち無沙汰だ。手近に本でもあればよいのだが、メレインもそこまでは気がまわらなかったらしい。

「メレインらしくもない。さすがに耄碌もうろくしたか」

 さらに辺りを見回せば、猫足の洒落た小机のうえに酒らしき用意がある。揃いのグラスに、琥珀色の液体が見える。

「気が回るのか回らないのか、よく分からない」

 ハゾイは一方のグラスを口に運んだ。随分甘ったるい酒だな、と思った。

 そうやって、30歳の誕生日の夜が深深しんしんと更けていくのであった。



 もう一方の稀人・黒川くろかわ景貴けいきは、まだ起きている。目は冴えていて、眠るどころの騒ぎではない。

 恵真と状況は似て非なる…というか、やたらと豪華な寝室に美女と二人きりだ。

 あらためて隣りを見る。隣の美女を『マリーアントワネットのような』と初見で思ったが、よくみるともう少し前の時代っぽい。美女を含め、先程景貴が落ちた部屋に集まった人々のイメージは、12世紀前半のイングランド。リチャード一世とかロビンフッドとか十字軍とか。…女性の有名な人物はだれだ?だが景貴の頭に適当な人物は浮かんでこない。だからとりあえず『マリーアントワネットより清楚で素朴なマリーアントワネット』にしておく。

 5人は余裕で眠れそうなベッドに美女と並んで腰を降ろしているのに、景貴は動揺しない。状況を見れば当然のことで、二人の周りには煌々こうこうと明かりが灯され、たくさんの書物が二人を取り囲んでいる。艶っぽい雰囲気は微塵もないのだった。

「…では、稀人さま」

「ねえ、その呼び方、止めてくれますか?僕、黒川景貴といいます…ケイキ=クロカワ」

 景貴は一応名前を最初にして言いなおす。

「まあ、ケーキさまと仰るのですね。甘そうで、素敵なお名前ですわ」

 ミシュレイディアは2冊の本を景貴の膝にひらいて乗せながら、にっこりと笑う。

「結婚を宣言しておきながら、名乗りもせずに失礼致しました。私の名は ミシュレイディア=レティシア=レフレイン。このワドバイル王国の世継ぎでございます。どうぞ末永く可愛がってくださいませ」

 しれっと言うミシュレイディアの表情に、景貴はふきだしそうになり、拳で軽く口元を押さえた。

「よろしく、お姫さま。でも、僕、君と結婚なんてするつもりはないよ。あなたは綺麗だし、求婚者はたくさんいそうだ。ほら、さっきのちょっと…」

 景貴の脳裏に、崩れた部屋からずるずると引きずられて退場した男が浮かぶ。王子のなりが恐ろしく似合わない太った青年は、ミシュレイディアの『結婚宣言』に泡を吹いて気を失ってしまっていた。とはいえ、あの扱いはちょっとだけ不憫でもある。

「あれはドージェスといいまして、我が国の第一王子ですわ、困ったことに」

 ミシュレイディアはそこで声をひそめ、景貴の耳元でささやく。

「…ここだけのお話ですが、私、この世にドージェスと二人きりになっても、彼と結婚などしません」

「分かる気がします」

 即座に返された景貴の答えに、ミシュレイディアは軽く頷く。

「このワドバイル王室、少々複雑な事情がありますの。それと貴方…ケーキさまのように異世界からやってくるかたを稀人というのですが、稀人はワドバイル…いえ、この世界に必要なかただということ。ああ、お話しなければならないことが沢山ありますわ。これからお話してまいります」

 ミシュレイディアは景貴の目線を、膝に広げた本に導く。景貴はさっと二冊の本に目を走らせ、怪訝けげんな表情をつくり、眼鏡をかけ直す。

「この世界は閉じられた世界。もうずっと、どれくらい前かも分からないほどの昔、まだケーキさまの世界と繋がることすらなかったこの世界は、瘴気しょうきに満ち、ちいさな部族がそれぞれの言葉を話し、意思の疎通も図るすべもなく、お互いが瘴気に当てられ悪意に満ちて、争いばかりを繰り返す焦土しょうどでございました」

 ミシュレイディアは一方の古い本を指した。がさがさの、素材が何かも分からない古紙には、景貴の知るところの古代壁画のような絵がある。醜く争い血を流すものたちが描かれていて、その下に見たこともない絵文字が並んでいた。

「これは、そのころの記録を残した現存する最古の本です。私たちには読めません。ただ、絵はお分かりでしょう?」

 景貴が頷くと、ミシュレイディアはもう一方の本を示す。実は景貴にはこちらのほうが驚きだった。羊皮紙の本を見るのも触るのもはじめてだが、そのいかにもファンタジーめいた本に、日本語の…羅列られつがあったからだ。

「あるとき、この世界の瘴気はいよいよ行き場をなくし、とうとう外に向かって噴出しました。そのとき、偶然に空が異世界…ケーキさまの住まう世界と繋がったのです。瘴気は晴れ、人々の目に光が戻り、そして、最初の稀人さまがこの世界に落ちてきました」

 描かれている人物は、風化してかすれていたが着物を着て刀を差しているようにも見える。表情はよく分からないが、焦りや不安より、楽しんでいるように、景貴には見えた。そう、ちょうど今の景貴のように。

「このかたは、大変つよく聡明なかたで、私たちに使いやすい文字と言葉を教えて広めたのです。…細かいことは省きますが、こうして、今の私たちがあります。以来、稀人さまはとても尊敬を集める方として大事にされているのですよ」

 ミシュレイディアの話は突飛とっぴ過ぎて、景貴は受け入れるのがやっとだ。でも、言うべきことは言っておかないと。

「稀人さまの特徴はほかにも…例えば」

「例えば?」

「そうですわね、運がよくなるとか」

 さらに他の本を持ってこようとするミシュレイディアを、景貴は止める。

「お姫さま、貴女の話は分かりやすくて、とてもよく分かったけど」

 つまりは、『縁起物えんぎもの』なんだと、景貴は理解した。最初の人が立派だったお陰で、景貴は今、こんな立場にいるのだと。『縁起物』との婚姻が、この美しい姫にとって得だということ。いつの世も、身分あるものの婚姻に愛情を介す事は少ないということ。

 だが、景貴は庶民だ。と、自分では思っている。

「僕、好きな子がいるから、結婚は無理かな」

 ミシュレイディアは気の毒そうに景貴の手をとった。

「ですが…とても言いづらいのですが、こちらに落ちてきて、元の世界に帰れた稀人さまは誰一人として居りませんわ」

 景貴はミシュレィディアの手を外し、片頬を撫でる。瓦礫がれきに当たったときよりも、あいつの平手の方が痛かったぞ、馬鹿力め。

「ここに落ちてくる途中に、一度振られたようですが、まだ諦めるつもりもないんです」

「…いま、何と仰いまして?ケーキさま」

「もうひとり、この近くに落ちた稀人ってやつがいるってことですよ、お姫さま」

 困ったことにね、と景貴は口の中で付け加えた。幼稚園からの想い、そうそう簡単に捨てられるほど、景貴は大人じゃないんである。困ったことに。

「まあ、恋敵登場ですわね。なんだか楽しくなってまいりましたわ。とにかくケーキさま、少し休むことにしましょう。幸いにも寝台は大変広いですから、どうぞゆっくりとお休みを」

 ミシュレイディアは花のように笑って、明かりをひとつひとつ消してから「おやすみなさいませ」と景貴のいないほうから寝台に入る。

 結構、いい性格のお姫さまだ。

「もうひとりの稀人が、危険な目に合うことはないの?」

「少なくともこのワドバイルではありえませんわ。ケーキさまの想うかたも、どこかで大事にもてなされているはずです」

「気は合いそうだな」

 美人だし、残念。

「…何か言いまして?」

「いえ何も、お休みなさい」

 疲れていた二人は、程なくして眠りに落ちた。物事に動じない、という点で、似ている二人ではある。



***



 ふたりの稀人の、異世界最初の夜は、しずかに明けようとしている。東の空は白み、鳥たちがさえずりだす。

 アシュリード家の古狸ふるだぬき…もとい家令・メレインの朝は早い。歳のせいではない。彼の朝は若いときからこの屋敷で一番早い。

 それでなくても彼、昨夜は興奮気味でよく眠れないでいた。大切な主人、ハゾイ=アシュリードが伴侶を迎えたのである。少々強引ではあったが、こうでもしなければ主人はいつまでもいつまでも一人に決まっている。

 …といってもこれは略式のことで、アシュリード家の当主たるもの、正式には王家に報告し許可を得なければなるまいが、メレインにとっては大差ないことだ。


 既成事実さえつくってしまえば。


「これは素晴らしい朝陽です。さすがに『空蝕』のあと、空気は大変澄んでいる。初めての朝を迎えられたお二人も、寄り添ってみておられるとよいのだが」

 メレインは実に清々しい気分で朝食の食器を磨きにかかった。…もちろん、二人分の。


 ………

 ハゾイはとても優秀で切れ者と評判の青年だが、育ちのよいものの常として、どこか抜けているところがある。

 ハゾイは鳥のさえずりで目を覚ました。どうやらいつの間にか眠っていたらしい。

「う…ん?」

 椅子に不自然な格好で眠っていたはずの身体は、背伸びをすれば骨の一つも鳴りそうなものなのに、一向にそんな年寄りくさい音は聞こえてこない。

 それどころか、身体はふわふわとしたものを胸に置いて暖かい。背伸びのために持ち上げた腕の片方に釣られて、暖かいものが動く。

 …なんだこの状況は。

 ハゾイは目を開けたくない。開けたくはないが、開けなければ。現実を受け入れて対処するのだ、ハゾイ=アシュリード。

 藤色の目をそっとひらくのと、胸の上にあった暖かい気配が動くのは同時だった。

 藤色の目と、黒い目が、はじめて出会う。

 ハゾイは寝台に仰向けで、恵真はハゾイの胸から半身を起こして。…これが、お互いに意識のある中の、はじめての出会いだった。

 とりあえず年長者のハゾイ、そろそろと身を起こす。恵真は何も理解できず、ハゾイの顔を凝視して固まったままだ。ハゾイが起き上がり終える。絵としては、恵真は見知らぬ男の膝にまたがっている状態になる。

 恵真は学校帰りだった。だから制服を着ていて、短めのスカートから出ている形のよい足が、カーテンから漏れる光に輝いている。

 女の子がそんなに足を出してはいけない、とハゾイはまず思ったが、いきなりそんなことを言うわけにもいかない。毛布を手繰り寄せ、そっと足に掛けた。毛布の感触に、恵真の肩が微かに揺れる。

 刺激してはいけない。さて、面倒なことにならないためにも、慎重に行動せねば。

 ぴいん…っと極限まで張り詰めた空気。ハゾイがそっと声をかけようとしたとき、外で鳥が羽ばたいた。一瞬で空気が乱れる。恵真の口がひらく。

「き」

 悲鳴の形になった恵真の口を、ハゾイの手が塞ぐ。夜中からずっとハゾイの袖を握っていた恵真の手がやっと離れ、振りあがる。ハゾイは難なくそれをいましめ…。

 気付くと、二人は起きたときの逆の体勢になっている。ハゾイが恵真を寝台に抑えている格好だ。二人は肩で息をする。

「…稀人、少し落ち着きなさい。私は昨夜落ちてきた君を助けた者だ」

 恵真は真上にある見たこともないほど秀麗な顔に一瞬見とれ、それからふるふると頭を振る。

 ハゾイは軽く息をついて、なるべく優しくゆっくりを心がけて、再度説得を試みる。

「訳が分からなくて当たり前だ。君は空から落ちてきた…思い出してみなさい、ゆっくりと」

 恵真は思い出す。そうだ、そうそう…自分の住む山あいの町。観光シーズンだけど、夕方のケーブルカーはとてもいている。ケーブルカーの終点には、平野を広く見渡せる視界のひらけた崖がある。

 学校の帰り。景貴との他愛のない話。景貴に誘われて、ケーブルカーに乗って、展望台で…。

 そう、お母さんネコが手すりの上を、子ネコをくわえて歩いてた。お母さんネコが私たちに驚いて、手すりの向こう…崖に落ちそうになるから、助けてあげて…。

わたひわたしが、おひひゃったおちちゃった

 恵真の目から、涙が落ちた。ハゾイは慌てて口と手の戒めを外し、指で涙をすくう。

「落ち着きなさい、稀人。普通落ちたら死ぬところ、こうして生きている。有り難いものだと思わねば。人生には思いもよらない様々さまざまなことが」

 美形が好くしてくれる(?)のは、いつ何時でも少し嬉しい。恵真はごしごしと目を拭いた。

「…言ってることが、年寄りくさいです。それと私、マレビトなんていう変な名前じゃないです、立花たちばな恵真えま

「そうか、言い返す元気があればよい…タチバナ。私はハゾイ=アシュリード。ハゾイと呼びなさい」

 ハゾイがあらためて自分の下の少女を見るに、歳は13、4くらいか。といっても彼の女性の基準は常に共にいるミシュレイディアであって、成熟した肢体をもつかの姫と比べられたら幼く見えるに決まっている。と、恵真のために言っておく。恵真は16だ。

「ハゾイ…って名前?」

「ああ、姓はアシュリードだ、タチバナ」

 言葉とともに、色素の薄い金の髪が流れて、恵真の頬にかかる。

「なら、私は恵真…です」

 と言って、恵真は笑う。ハゾイの細い髪がくすぐったい。恵真は身を縮めた。

「では、エマ。どこから話そうか…こら、なにを笑っている」

「え、だって」

 くすぐったいから、と恵真が続けようとしたときだった。軽いノックのあと、扉が開いたのは。

「お早うございます、ハゾイさま、奥方さま。昨夜はよくお眠りに………これはこれは、失礼致しました」

 メレインは慌てたような素振りで深々と腰を折る。そこでやっと、ハゾイは自分と恵真の体勢がどう見えるかに思い当たる。

「…メレイン、誤解だ。とにかくこれからの対処についてだな」

「ようございました。月満ちてお子様がお生まれあそばしましたら、このメレイン、誠心誠意、お世話させていただく所存です」

「だから、ずは話を聞けと言っているだろう。こら、食事は食堂でとる!ここに置いていくな!こら、メレイン!」

 メレインは喚く主人の言葉など全く耳に入らないふうで、「ご出仕しゅっしには間に合うよう、お知らせにまいります」とそっと言い置いて、扉の向こうに姿を消した。

 状況が飲み込めない恵真は、急に落ち込んでしまったハゾイを尻目に寝台から降り、細かい彫刻の施されている木のワゴンを覗く。磨き上げられた銀色の食器のうえには、美しく盛られた朝食がある。

「わあ、美味しそう!卵にベーコン、サラダとスープ。パンも色々ある!ねえ、ハゾイ、私おなかすいちゃった。ほら、飲み物も沢山…ジュースにミルクに…なんだろ、この瓶…お酒?」

 ハゾイは急に立ち直り、恵真の持ち上げた酒らしき瓶を取り上げた。

「朝からお酒って…すごいね、ハゾイの家」

 恵真の言葉に返事せずに、ハゾイは昨夜飲んで殻になったグラスを小机から取り上げ、中身を注ぐと昨夜のままのもう一方のグラスの隣に戻す。

「わあ…いい匂い。なんだろう、綿飴みたい…ハゾイも同じ匂いがする」

 くんくんと恵真がグラスを嗅いで、それからハゾイの服を嗅いだ。

「やめなさい、はしたない」

「えー、でも、いい匂い…なんだろう、懐かしくって」

「香りに酔うぞ」

 メレインめ。ハゾイはもう苦笑するしかない。酒は辛口が好きだ。主人の好みを熟知していて甘いものを出すから、何かあるとは思ったが。

 酒の銘を『蜜月』。恋人たちに好まれる、やや催淫効果のあるとされる酒である。

 そんな効果などただの迷信、と一蹴してしまう超堅物のハゾイには、髪の毛の先ほども効果のないものなのだが。

「これはいよいよ、見合いをしなければならないか…」

 古参の家令にそこまで心配されては、な。

 と思ったとき、後ろでグラスの割れる音がした。

「な、飲んだのか?エマ?」

「だって綿飴みたいで、きっと味も綿飴みたいなんだろーなって…。やっぱ綿飴みたいだった」

「エマ、いいか、得てして口当たりのいい酒というのは、それだけアルコール分が高いからそれを誤魔化すためにって…今度はなんだ!」

 ハゾイはもうすっかり娘に接する気持ちでいる。だから恵真が急にぷんぷんと怒り出し寝台に飛び乗って、さらにベストを脱いでもなんとも思わない…が。

 お父さんとしては、そんな行動は慎ませたい。

「肌を露出するのは、よくないと思うが」

「ハゾイ、私、思い出したの。昨日、落ちているとき、景貴ったら、私にキスした!アイツ、どーせ死ぬならって!そんな自棄やけな気持ちで、キスしたの!許せないでしょ!…ああ、怒ってたら暑い!」

 ぽいぽいと脱ぎだす恵真が、引っかかることを言った。恵真のブラウスがハゾイの頭に命中し、視界を覆う。

「エマ、ケーキとは誰だ?」

「景貴はですね、乙女のー唇をー、奪ったー、秀才でしゃらくさい幼馴染…かな」

 なんということだ。稀人がふたりいるのか!ハゾイはすぐにでも王城に向かい報告しなければならない。ブラウスを振り払い扉を向いたのと、控え目なノックが再び聞こえたのと…恵真が寝台からずり落ちたのは、同時だった。ハゾイにとって不幸なことに。

「ハゾイさま、大変申しわけありません。今、王城から急使が…」

 メレインはその光景に、さすがにちょっと眉をしかめた。

 辛うじて半裸の恵真が、床の上にハゾイを組み敷いて、さらにキスをしている。

「…俗に、幼妻は可愛くてならないものだ、と申しますが」

「違う、元はといえば全てお前の!」

「何にせよ、仲の良いことは良い事でございます。ですがミシュレイディアさまからの急使、急ぎお仕度を」

 無情にしまる扉に、ハゾイはなすすべも無い。

 恵真はむにゃむにゃとまた眠り込んでいる。吐く息が甘い。

「いい気なものだ」

 30歳とは厄年なのだろうかと、ハゾイは思わずにはいられないのであった。



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