青がとけるところ

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福は転じて禍をなすかも



 ハゾイは馬車を好まない。だからいつもひとり馬に乗る。

 が、今は珍しく馬車に揺られている。『空蝕』の翌朝、浄化された景色は鮮やかで輝くようだというのに、馬車の小窓には厚いカーテンが降りていた。ハゾイは腕組みし、ため息をつく。

「稀人が二人…か。厄介なことになったものだ」

 生真面目な騎士の膝を枕に、酔っ払いが気持ちよさそうに寝息をたてている。会ったときから寝てばかりだな、この娘は。

「いい気なものだ」

 ハゾイは恵真の顔に落ちかかる黒髪をそっと退けた。顔はまだ少し赤い。ハゾイの指がくすぐったいのか、くくっと短く笑う。

「本当に、いい気なものだな、エマ」

 ハゾイは苦笑する。

 馬車が速度を緩める。どうやら城に入ったようだ。ハゾイは恵真の頭を優しく座席に下ろすと、おもむろに大きな袋を広げ、恵真に被せた。

「大人しくしている分、酔っていて助かった」

 馬車の扉が従者によってひらかれた。ハゾイはいつもの厳しい顔をつくると、すっぽりと袋に収まった恵真を肩に抱え、馬車を降りた。世継ぎの姫の守り刀はいつも通り颯爽と、密やかな憧憬の視線を集めて入城する。



***



 世継ぎの姫の寝室に、朝を知らせるノックの音が響く。ミシュレイディアは丁度ベッドから身を起こしたときにその音を聴いた。朝陽は対外的には初夜を終えた二人の上に降り注ぐ。カーテンから漏れる光は、外の木々の揺れにあわせて光の模様を自在に変える。

「ミシュレイディアさま、お着替えのお時間でございます」

 言ったのは、女官長のアイーシャだ。こころなしかいつもより声が控え目で、ノックの後に入室してくるはずの彼女が、今日は扉を開けることはない。ミシュレイディアは隣の景貴を見る。景貴も身を起こし、枕元の眼鏡をかけるところだった。

「ミシュレイディアさま…」

「アイーシャ、少しお待ちなさい」

 遠慮がちに繰り返されるアイーシャの声を、ミシュレイディアは遮り、少し間を置いてから、声を落として言う。

「はじめての朝です、ほんの少し、時間をくださいませ」

 ミシュレイディアは声にほんのりと艶を加えた。扉の向こうの気配が、息を呑んだ。が、気配は動かない。ミシュレイディアは辛抱強く待った。政務に入る前に、景貴ともう少し話さねばならなかった。もうひとりの稀人について。できるなら、大事になる前に、もうひとりの稀人をここに連れてきたい。ハゾイに急使を出した、有能な守り刀はもう動いていることだろう。

「お姫さまそんなこと言って…僕ら誤解されるよ?」

「誤解などありませんわ。私が貴方を夫と宣言したからには、これは絶対ですもの」

 二人が艶っぽさからは程遠い会話をしたときだ、扉の向こうの気配が慌しくなったのは。靴音が近づいてくる。ミシュレイディアのよく知っている、規則正しく乱れのない音だ。

「恐れながら」

 靴音の主が言った。ミシュレイディアは毛糸のケープを羽織ると、ベッドを降りた。

「何でしょう、ハゾイ」

「は、ミシュレイディアさま、仔鹿を一頭、手に入れましてございます」

「まあ、元気な鹿だとよいのですが」

「少々事情があり、今は気をとばしておりますが、至極元気な鹿でございます」

「分かりました、いま行きます。アイーシャ、服を」

 ミシュレイディアがベッドから降りる。白い夜着が日の光の中で淡く揺れた。

「ケーキさま、喜んでくださいまし。鹿が見つかりましてよ」

「僕、鹿は嫌いじゃないけど、好きでもないよ」

 景貴の答えに、ミシュレイディアが悪戯っぽく笑うのと、女官長のアイーシャを筆頭に女たちが入室してきたのは同時だった。そこにいる全員の視線が、稀人たる景貴に集中する。

「ミシュレイディアさま、お着替えをお持ちしました」

 アイーシャの声を合図に、女官たちが衣類を差し出す。こちらの女官は踵の高い革靴を持ち、あちらの女官はビロードのような黒い生地に金の刺繍のある上着を持っている。

「とてもいいと思うけれど、お姫さまには地味じゃないかな」

 一通り見渡してから景貴が思わず言う。すかさずアイーシャが景貴に向かって腰を折る。

「いいえ、こちらは稀人さまのお召し物にございます」

「え、僕?」

「はい、お気に召されませんか?」

 景貴は顔が整っているという自覚があるが、とても和風の顔立ちだという自覚も同時に持っている。こんなにきらびやかな衣装は、遠慮したい…が、アイーシャは真剣だ。どうやって断ろうかと考えていると、妻(仮)が感嘆の声をあげた。

「黒はケーキさまの黒い瞳を、より引立たせますもの。さすがはアイーシャですわ!」

 ミシュレイディアの目はきらきらと輝いている。女官たちの目も控え目に輝いている。多勢に無勢、どうやらこれは逃げられない。

「これを、着ろと。…僕にはちょっと」

「ええ、私も着替えてまいります。なるべくお急ぎくださいませ、ケーキさま」

 念のため逆らってみたが、無駄な努力と悟った。



***



 こうして、世継ぎの姫とその守り刀、二人の稀人が一同に会した。ただし、そのうちのひとりは眠りこけている。気持ちよさそうな寝息をたてつつハゾイの腕に抱かれていた恵真は、景貴の目の前で、それは丁寧にソファの上に降ろされた。恵真の無事を確認できたのは良かった。が、意識を失っているとはいえ他の男に身を任せているのは、景貴の気に障る。

 ハゾイはそっと恵真にひざ掛けをかけてやると、主君を振り返り、完璧な辞儀をする。

「ミシュレイディアさま、黒い小鹿にございます。偶然にも昨夜、我が家に迷い込みまして」

「探す手間が省けて、良かったですわ。ハゾイ、こちらはケーキさま。もうひとりの稀人にして、わが夫です」

 ハゾイが姿勢を直し、驚いた藤色の目を景貴に向ける。景貴も真っ直ぐにハゾイを見返した。

 なんて綺麗な男なんだ。景貴の頭にまず浮かんだ台詞だ。ハゾイを構成する色素は、全体的に薄い。繊細そうな外見なのに、身体は鍛えられているのが分かる。腰には剣を差しているが、それを扱う姿は想像に容易たやすい。まるで武士のようだ。武士の知り合いなどいないが、景貴はそう思った。

「ハゾイさん、僕、ケイキ=クロカワです」

「…ハゾイ=アシュリードだ。クロカワ殿、ミシュレイディアさまの夫となられたというのは」

 ハゾイは早口にそこまで言って、景貴の答えを聞く前に、主君に向き直る。ミシュレイディアは普段どおり微笑んでいた。

「ミシュレイディアさま、お父上にお許しをいただく前に婚約とは」

「あら、婚約ではなくってよ、ハゾイ。私は夫を持ったのです。稀人さまであるケーキさまなら、お養父さまが反対するはずもありませんわ」

 ハゾイが固まった。二の句がけない。

「こ、こんな細く頼りなさそうなご夫君を」

「細くて悪かったですね」

「頼りなくなどありませんわ。私、まだケーキさまとは一夜しか過ごしておりませんが、とても頼りがいのあるかただと、確信いたしました」

 ハゾイの顔が赤くなり、青くなる。外では呑気に小鳥がさえずっている。景貴は隣の妻(仮)を横目で見た。ミシュレイディアはにこにこと笑っているだけだ。この人、やっぱりいい性格だ。

「い、一夜を共にされた、と」

「はい」

 ハゾイは頭を抱えた。景貴は流石に面白くない。そうですか、僕ではご不満ですか。

「と、とにかく、王にご報告しなければ…それと、エマの今後についても決めなければ」

 うんうんと頷いて、ハゾイは何とか立ち直った。そして景貴の肩をがしっと掴む。

「こうなったからにはクロカワ殿」

「景貴でいいですよ、ハゾイさん」景貴は微動だにしない。

「では、ケーキ、ミシュレイディアさまのことはともかく、そなたたち稀人のことを少し説明する」

 ハゾイはそこまで言って、景貴の肩から手を離して腕を組んだ。そういう仕草は随分と年寄りくさい。

「その話なら、から聞きました。稀人は異世界から来たひとで、ここでは特別視されてて、縁起ものなんでしょ?」

 景貴はわざと『妻』の発音に力を入れた。ハゾイが一瞬脱力する。景貴としては、恵真に馴れ馴れしくした軽いお返しである。

 景貴とハゾイが話す横で、ミシュレイディアは静々と歩き、熟睡している恵真の顔を覗き込んでいる。何を考えているのか、恵真の前髪を掻き揚げ、随分と真剣に恵真を観察していた。

「そうだ、縁起ものというか、稀人は空蝕と同じ効果をもたらす者、だ。分かるか?空蝕は、異世界と繋がることで、この世界を浄化する。稀人は、存在そのものが、周囲を浄化するのだ。つまり」

「つまり、運が良くなると」

 景貴は昨夜ミシュレイディアが言っていたことを思い出しながら呟いた。ハゾイが頷く。

「そうだがそれはあくまでも端的に言えば、だ。周囲に幸運をもたらすのはもちろん、異世界との繋がりが深まるから『空蝕』の間隔が短くなる。いいことずくめだ。……稀人は落ちてきた土地で世話するのが暗黙の了解だ。が、二人いるとなると…他国に知れれば、ひとり寄越せということになるかもしれない。下手をすると戦争だ」

 真剣に言うハゾイに、景貴は笑った。

「はは、まさか。たかが縁起もので」

「縁起ものって、お守り程度にケーキは思っているのかもしれないが、お守りの比ではないぞ。例えば稀人の住まう土地に凶作は無いといわれる。その効果がどれだけの範囲に及ぶのかは分からないが」

 なにしろ、およそ100年ぶりの稀人である。この国に稀人が居たのは、更にもっともっと前のことである。

為政者いせいしゃにとって、これ以上の幸運があるものか」

 詳細は不明だが、それだけは確かなことである。

「へえ」

「へえ、じゃないぞ、ケーキ。そなたたちひとりでその効果だ。ふたりいると、ひとりを争う結果になってもおかしくないだろうが」

 そういう意味で、景貴を夫としたミシュレイディアは賢い。外に出れば相変わらず命は狙われるだろうが、どのような危機も、稀人の運がきっと遠ざける。だが、どのような幸運も過ぎれば転じてわざわいとなることもあるのだ。恵真をこの国に置いてよいものか。

「では、エマの処遇はどうするか」

 ハゾイはエマを見る。このように呑気な娘、捨て置けるわけも無い。

「可愛らしい御方ですわ。ケーキさまが心を奪われるのも仕方が無いことかと」

 唐突にミシュレイディアが言って、ふたりの男を振りかえる。にこやかな顔に険があることに、ハゾイは気がついた。美しい笑顔は完璧だったので、まだ付き合いの浅い景貴はその険に気付かない。

「どうかされましたか?我が君」

「まあ、ハゾイ。おかしなことを聞きますわね。私、このとおり元気ですわ。新婚ホヤホヤですもの」

 ほほ、とミシュレイディアが笑う。乾いた笑いである。ハゾイは意味が分からない。景貴は興味深く成り行きを見守る。

「ハゾイも早く結婚なさいませ。貴方は元々、ご婦人がたに大変な人気なのですから」

「は、あ…?」

 ハゾイは今ほど主人の気持ちが分からなかったことはなかった。ミシュレイディアが光なら、自分は影。そう思って一身に心を砕いてきたのだが。なんだこの距離感は。

 微妙な空気の流れる中、恵真が目を開けた。うーんと伸びをしながら起き上がり、目を擦りながら周囲を見る。そして景貴の顔を見つけるなり、「あー!」と声を出した。

「景貴!よくもキスなんかしてくれたわねー!私のファーストキスだったのよ!どうしてくれるのよ!」

 いきなり怒りを爆発させて、恵真が景貴に詰め寄る。景貴は涼しい顔のままだ。

「無事でよかったよ。それに恵真、僕ら、キスははじめてじゃないよ。幼稚園の頃に、一度。覚えてないかなあ、恵真のほうからしてくれたのに」

 恵真の顔が真っ赤になった。

「そ、そんなことしてないもん。だいたい景貴は昔っから私に意地悪ばっかりするじゃないっ。カエルを触らせたり、スカートめくったり!」

「可愛いからだよ。好きな子は苛めたいんだよね」

「景貴のドS!」

 ハゾイはふたりの間に急いで仲裁に入る。こやつら、姫の御前で痴話げんかなど。失礼にもほどがある。しかし、『どえす』とは何だ?

「こら、いい加減にしなさい。これからのことを色々決めないといけないだろう」

 そこまで言って、恵真を見下ろす。顔は赤いままで、一体この娘は、昨日から今までの短い時間で、どれだけ表情が変わるのかと感心する。

「エマ、キスぐらいで大騒ぎするな。そもそもお前だって今朝、私にキスしただろう」

 エマの顔が固まり、ミシュレイディアと景貴の額がぴきっと音をたてたが、問題発言の主は気付いていない。部屋の空気の温度が下がった、確実に。

「ハゾイさん」

 まず口火を切ったのは景貴だ。景貴は眼鏡をくいっとあげた。眼鏡の奥の瞳は見えない。

「お姫さまと僕の突然の結婚にかなり驚いていたようだけど、自分はどうなのかな?」

「け、けっこんー!!景貴、何考えて…もがっ」

 恵真が大きな声を出す。話が余計にややこしくなることを見越して、ハゾイは恵真の口を咄嗟に塞いだ。

「ケーキ、言っている意味が分からないが」

 本気で思い当たるふしがないハゾイに、追い討ちをかけたのはミシュレイディアである。彼女は口元に手をあてて、綺麗な声で高らかに笑ってハゾイをびくっとさせたあと、ゆっくりと言った。

「ハゾイは堅物でご婦人がたを遠ざけると有名でしたけれど…それは私が知らなかっただけですのね。会ったばかりの女の子にキスをするなんて、隅におけませんわ」

 いつの間にか『ハゾイが恵真にキスをした』ことになっている。訂正しようと、ハゾイが口をひらきかけたとき、暴れていた恵真が急に涙ぐんだ。

「ハゾイ、ごめんなさい。私、(お酒を飲んだのが)初めてだったから…(酔って)気持ちよくなっちゃって、身体が熱くって、どうしていいかわからなくて。ハゾイは(突然現れた私に)とても優しくしてくれたのに」

 ( )内は全て省略されていて、それはつまり、事情を知らないものが聞いたらどう聞こえるかということだ。ミシュレイディアの髪の毛が、風もないのにゆらりと揺らめいた。蛇のように。

「ハゾイ…私、見損ないましてよ」

「エマ、周囲に誤解される言い方は止せ!」

 とは言っても、めそめそする恵真を放っておける訳もない。彼の中で恵真は『娘のような存在』と認識されている。ハゾイは俯く頭をそっと肩に抱き寄せた。

「とにかく泣くな。怒ってはいない」

 そうやって宥める姿が、にわか夫婦にどう思われるか、ハゾイは分かっていない。仕事以外では驚くほど鈍い男なんである。

 恵真はなんとか涙を堪え、赤い目でハゾイを見て、それから景貴を見た。今この場で相談できるとすれば景貴だ。苦手なところも確かにあるが、頼れる友人だとは思っている、一応。

「ハゾイ、私、少し景貴と相談したいことがあるんだ」

「そうか…なら、この部屋の続き部屋を使うといい。二人とも微妙な立場だ。くれぐれも他には行かないよう」

 恵真はごしごしと目を擦って、一度大きく息を吐き出すと、景貴を続き部屋へと押し込んだ。後ろ手でドアを閉める。


「落ち着きなよ、恵真。そりゃ、今起こっていることは馬鹿げた夢みたいだけど、間違いなく現実だし、この世界から帰れないなら、お姫さまやハゾイの言うことを聞くしかないんだよ」

「だからって結婚なの?そりゃ、凄い美人だけど!」

 部屋に入るなり冷静に諭す景貴に、恵真は噛み付く。恵真の語気は荒く、肩で息をするようにして話す。二人の居る小部屋は普段使われていないのか、厚いカーテンがおりていて、とても暗い。お互いに表情は見えないが、恵真は少し涙声を引きずっている。きっと八の字眉をしているに違いない。

「恵真、焼いてるの?大丈夫だよ、あくまでこれは生きる術さ。落ち着いたら恵真とのことは何とかするから」

「なんなのその自信!私は景貴のことなんか、なんとも思っていないもん!友達でしょ、ト・モ・ダ・チ!」

 友達と言い切られても、景貴はがっかりしなかった。どうせこの世界で通じ合うのはお互いだけ。恵真は同年代の女子に比べて少し幼い。恐らく恋など経験がない。…時間が幾らでもあるなら、いつかきっと恵真は誰かを好きになる。それは自分だという妙な自信があった。

「ハゾイのことが好きなの?」

 念のために、景貴が問う。即座に恵真がぶんぶんと首を振った。かび臭い空気が揺れる。

「ハゾイは好い人よ。ハゾイは一晩私と一緒に居てくれた。優しくて…お父さんみたい」

 お父さん、か。景貴は笑いを堪えた。あんな美形を目の前にして、お父さんと比喩できるのは恵真くらいだ。やっぱり少し幼い。でもそこが好きなところだ。

 景貴の考えなど知らない恵真は、今朝の夢を思い出す。死んだ父が夢に出てきた。きゅっと胸が締め付けられる。無性に帰りたかった。

「景貴、私、絶対に帰る!お母さん、私が居なかったらひとりになっちゃうもん」

「言うと思ったよ。恵真んとこは親子仲いいしね。でも、この世界への道は一方通行、帰り道はないんだよ、残念だけど」

「そんなことない!来たんだから帰れるよ、絶対に。私、探す!帰り道を。絶対に帰るから!」

 恵真は重くなる心に耐え切れないといったように、厚いカーテンを勢いよくひらいた。途端に差す陽の光に、細かいほこりがきらきらと光る。恵真は眩しさに一度強く目を瞑り、ゆっくりと開いた。

「わ、あ!きれい…!」

 その感嘆の声に「まったく女の子は大げさだなあ」と呟いて外を見た景貴も、思わず口を開ける。

「この世界の空は、ピンクなんだ!」

「メルヘンだな」

 二人が見上げる空は、薄い桃色。よく知っている夕焼けよりももっと淡く、桜よりはもっと濃い、美しい空だ。

「そうか、だからこっちに落ちたときの空が、紫だったんだ」

 この世界の空が、景貴と恵真の世界の空を映したのだ、と景貴は気付き、同時に帰ることは難しそうだと悟る。

 例え空蝕のおこる場所が分かったとしても。空中同士が繋がるのなら、この世界に空を飛ぶ手段がない限り、繋がる場所には行けない。

 恵真はまだうっとりと空を見上げている。その横顔にキスしたら、今度こそ口聞いてもらえないだろうな、と景貴は考えた。



***



 恵真と景貴が隣の部屋で話すあいだに、普段仲の良い主従の間には、ぎこちない空気が流れていた。ミシュレイディアは頬を押さえ何かを考え込んでいて、とても話しかけられる雰囲気ではない。

 仕方なく、ハゾイも考え事に没頭する。まずは戦地にいる王に急ぎ使いを出さねばなるまい。戦況が許すなら、王は一時ここに帰るはずだ。恐らくは。

 ミシュレイディアと景貴の結婚は、あくまでも仮初めのものだ。正式には王の許しを得なければならない。

 王はミシュレイディアさまの結婚に反対するだろうか。…否、それはないように思う。ならばハゾイには反対の権利などない。結婚が無事に終わるまで、ハゾイは全力でミシュレイディアを護る。つまりは今までどおりだ、なんの心配もない。

「となればやはり…」

 思わず呟いた。問題は恵真だ。どうしても話はそこに戻る。とにかく王に直に相談しなければ。それまで、もうひとりの稀人の存在は、けっして公にしてはならない。あれは争いのもとだ。

 ならば、なるべく見つからないところに恵真を置くしかあるまい。と考えて、ハゾイは軽く目を閉じる。しばらく考えても、安全と思われる場所がアシュリード家しか思い浮かばず、ハゾイは諦めのため息を洩らした。有能で老獪な執事の顔が頭に浮かぶ。

「メレインにはよく言っておかねばな」

 恵真は自分の妻に相応しい立場にないと。…メレインを納得させなくてはならない何時間後かの自分を思い浮かべて、ハゾイはまたため息をついた。



 そんな苦悩する守り刀を、主人はじっと見つめている。

 ずっと一緒だった。随分助けられた。自分のせいで幸せを逃して欲しくないと思っている。
恵真がさっき言った誤解をされそうな台詞は、もちろん誤解だということも分かっている。…でも、「ハゾイと恵真はキスをした」ということは本当なのだ。

 何故か面白くない。ミシュレイディアはほんの少し頬を膨らませた。ハゾイは気付かない。それも面白くない。

 ミシュレイディアは初めての感情に気付き、慌てた。懸命に考えて、一つの結論を出す。

 恵真は自分と同じ年頃だ。それが気に入らない。ハゾイに異性関係の話が出るとするなら、相手は落ち着いた大人の女と思っていた。それが、私よりも幼い印象の少女などと。

 そこまで考えて、ミシュレイディアはいつもの調子を取り戻す。自分の考えが不毛と気がついたからだ。ハゾイは恵真を『保護するべき者』としか認識していない。

「ハゾイ、エマのことですが」

「はい、心得ております。時がくるまで、私が責任を持って預かりましょう。それと、王に使いを急ぎ整えます。ケーキとの婚儀、恙無くつつがなく整いますよう、努めさせていただきます」

 ミシュレイディアのひとことで、ハゾイが全てを察する。二人の調子が戻った。ミシュレイディアは満足して「それでは食事にしましょうか」と奥の部屋のふたりを呼んだ。

 いつの間にか陽は高く昇っている。4人はそのまま部屋で朝とも昼ともつかぬ食事をとり、随分と打ち解けた。朝からの出来事は4人を疲れさせている。特にハゾイは気を配るべき人物がいることを、すっかり忘れていた。



 ミシュレイディアの思わぬ婚約に、自身の城でいじけている男が居る。馬鹿王子その一、ドージェスである。

「ミシュー、僕のミシュー」

 寝台の上、枕を抱き締める姿は、大変気持ちが悪い。3人兄弟でただ一人、ドージェスだけが本気でミシュレイディアの夫になりたいと思っていた。そんな彼にとって、今回の稀人騒ぎは、失恋に直結している。

「ドージェスさま、お父さまから手紙が来ていますが」

 うんざりした顔を隠そうともしない使用人が、寝台にうつ伏せる主人に声をかける。ドージェスは姿勢を変えずに首を振った。

「あとにしてくれないか。僕は傷付いているんだ、とても…ああ、お前、読んで内容を掻い摘んで話せ。僕の目は今、哀しむのに精一杯で、ものを見るのが難しいんだよ」

 悲劇の主人公になりきって鼻をすするドージェス。使用人は手紙をひらいた。

「怪我がよくなったら早く戦地に戻るようにとの、お叱りのお手紙でございますが」

 ドージェスの真っ赤に泣き腫らした目が、使用人に向けられる。もともとふっくらしている顔は、涙でさらに浮腫んでいた。

「父上は息子の気持ちなど知らないのだろうね。戦ばかりで、頭まで筋肉なんじゃないのか」

 そう悪態をついてみても、父王は怖い。ドージェスは仕方なく身を起こした。涙はまだとまらない。

「僕、戦は得意じゃないんだけど」

 みっともなく泣きじゃくる彼が、面倒な事件を引き起こすきっかけになろうとは、ミシュレイディアもハゾイも思っていなかった。


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