花、落つる

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 遠く低く、さざなみのようにひぐらしの合唱が聞こえてくる。

 夕暮れである。離れの脇には竹林があって、そこを通る風は夏でも爽やかで、百合ゆりのささくれ立った気持ちを和らげる。

 たった一刻ほど前まで、この六畳間には病人が寝ていた。竹林からの風が、染み付いた薬の匂いを攫っていく。

「はあ…」

 百合は身体に力が入らない。布団を上げて間もない畳に、ただぺたんと座り込んでいる。

 行かなければならない。分かっている、けれど、ただ恐ろしい。何が怖いのかは、よく分からなかった。

「はあ…」

 百合はもう一度、ため息をついた。同時に涙が零れる。

 離れの外では、気の早い秋の虫が鳴きはじめている。



***



 小村おむら花三郎かさぶろうという男がいる。歳は二十三、百合より五つ上だ。家は物頭百石ひゃっこく、藩内では中の上といったところか。彼は小村家の三男である。

 武家の三男とは、年頃になればせっせと婿入り先を探し、家を出なければならない身だ。歳がいっては婿入り先の条件が落ちる。当然、家取りでない男達は必死で良い縁を探す。

 だが、花三郎は違う。ただ淡々と日々を過ごす。真面目に城に勤め、道場に寄り、今は長兄が継いだ家の離れでくつろぐ。友は少ない。少々句を読むらしかったが、それを誰かに披露することはなかった。

 要は、人付き合いが下手な男なのである。これが百合の縁談の相手であった。花三郎は声が小さなたちで、『蚊の鳴くような声の花三郎』を略して、蚊三郎、と言われた。音は名のとおりであったので、その渾名あだなを本人は気にしてはいなかった。

 百合の父は、蚊三郎の通う道場主であり、父は年頃を迎えた娘の婿を選ぶため、酔狂にも内輪の剣術試合をひらくと言った。優勝者に娘と道場を譲る、というのである。

「なぜ、そのような」

 この話を聞いたとき、百合は父に詰め寄った。このとき百合には好いた男がいたわけではない。百合は年頃の娘らしく好いた男と添えたら…と夢見てはいたが、そんなことは稀だと知っている。それでも、こんな賞品のような扱われ方には納得がいくはずもない。

「百合、すまぬ。だが、わが道場のものたちは、みな私の教えを継いだ立派な男だ。誰が婿になっても、きっと幸せにしてくれるぞ」

 父は娘に詰め寄られて、呑気にそう返す。ときは初夏。開け放たれた縁側から見える空には、入道雲がもくもくと湧きたっていた。

「父上、本当のことを白状なさいませ。先日の稽古後に街に出て」

 百合は上座の父に膝が付くほどに寄る。父が思わず仰け反って座布団がずれる。自慢の髭が、ひくひくと動いている。

「飲みすぎ、ましたね?」

 娘のきつい眼差しに、父は渋々頷いた。藩内随一といわれる剣の使い手とは思えない情けなさで、身を縮める。百合は脱力する。

「父上は、御酒の癖が良くないのですから、あれほどお気をつけてと言っていますのに。これでは、亡き母上に申し訳が立ちません」

 父は酔うと大風呂敷を広げてしまう癖があった。そうやって、何度周囲が迷惑をこうむったか。近頃落ち着いていると思って油断したのが悪かった。

 情けない、と首を振る娘には言えないが、父はこれはこれで悪くないと思っている。親の欲目を差し引いても百合は美しい娘で、本人の知らないところで縁談は降るようにあった。良く知らない男と添わせるより、自分の弟子の誰かに貰ってもらうほうが、安心である。酔った自分に感謝さえしていた。

 さらに娘の愚痴が続きそうなのを父は咳払いで遮り、立ち上がる。

「まあとにかく、試合は明々後日しあさってだ。お前のような口煩い娘を貰おうなどと言う奇特な男は居ないかも知れぬ。噛み付くのはその時でも遅くはないだろう」

 そう言って、父は近所の碁敵のところに逃げた。百合は頬を膨らませ、この怒りを掃除に向けることにする…。



***



 そうして、三日後。百合の怒り任せの掃除によって磨き上げられた道場にやって来た男は、四人。いずれも父の高弟たちである。朝から照りつける夏の太陽を背に、門の前に並んだ四人の若武者たちは、出迎えた師匠と百合の前で深々と頭を下げた。

「は、は。お前たちなら娘をやっても悔いはない。存分に仕合うがよい」

 父は満足気に高弟たちを道場に向かえ入れた。百合はぽかんと口を開いて事の成り行きを見守るしかない。

 百合は普通の娘だ。剣には全く興味が無い。稽古中の道場に足を運んだのも、随分と久しぶりだった。

 百合が掃除した道場は、床板の節目までが窓からの日差しに輝くようだ。

「や、これは我らも戦いがいがあります。…百合どの」

 身支度を整えながら、父の隣に座った百合に笑いかけた男がいる。秀麗で立ち姿が凛々しい。自ら片平かたひら采女うねめ、と名乗る。そつがない笑みを、百合は好きになれなかった。

 片平さまも他のお三方も、どうせ道場目当て。私のことなど、知りもしないだろうに。

 百合は自身に対する周囲の評価を知らない。それゆえに少々ひねくれた気持ちで男達を見遣る。采女以外の三人のうち、二人は百合をちらちらとうかがい、目が合うと照れたように頭を掻いたが、ひとり、道場の片隅で黙々と竹刀の手入れをする男が居る。

 父は他の男達も順に紹介した。ほかの男の名は聞いた瞬間に忘れたのに、隅の男だけ、百合の心に残る。

「蚊三郎、百合に挨拶せずともよいのか?」

 小村花三郎と言うのだ、と百合に言う父の声とともに、隅の男が立ち上がる。

 百合と目があった。細い柔和な目が、微かに笑ったように見える。

「……」

 蚊三郎の声は百合まで届かない。外からの蝉の声のほうが大きいほどだ。ぺこん、と頭を下げる。采女が笑った。

「小村、肝心な時ぐらい『蚊三郎』を封印したらどうか。蚊の鳴くような声では、百合どのに想いは届かぬぞ」

 蚊三郎は、す、と百合から目を逸らす。百合に背を向ける瞬間、蚊三郎の目尻の辺りが朱に染まっていることに、百合は気づいた。

 その時、百合には分かった。この声の小さい男が、道場云々でなく、純粋に自分を好いていることを。

 しばし各々身体をほぐしたあと、いよいよ試合となる。百合が名を覚えなかった二人と、それぞれ采女、蚊三郎の組み合わせとなった。

 父の道場は藩一と言われているし、その中でも高弟同士の試合は、剣など全く分からない百合から見ても、迫力のあるものであった。繰り出される竹刀とともに放たれる気合の声に、腰が抜けそうになる。父は隣で悠々と団扇うちわを揺らしているが、百合は正座の姿勢を崩さないだけで精一杯だった。

 采女と蚊三郎の二人は、明らかにほかの二人の上をいく。同じ師から学んだというのに、剣筋が違って見えるのは、百合の気のせいだろうか。目線は試合に向けたまま、そのことを呑気な父に尋ねると、父は感心したように頷いた。

「さすが、私の娘だ。いかにも、流儀は同じでも、剣の動きには違いが出る。それは使い手の性質というものだ。達人になればなるほど顕著になるから、面白いものよ」

 父の声は言葉どおり楽しげで、娘の縁談をなんだと思っているのかと、百合は文句をいってやろうと父を見た。父の目は少年のように輝いている。

「剣術馬鹿…」

「ん?なにか言ったか?」

「いえ、何も」

 文句は諦めて、百合は再び観戦する。一組目、二組目は力量の差どおりあっさり決着がつき、最後に采女と蚊三郎の試合となった。二人は初戦で流した汗を拭い、師匠親子に頭を下げる。このときも、蚊三郎の目尻が赤い。道場の中は熱気で外よりも暑かったが、蚊三郎の赤さはそのせいではないと思うのは、百合の自惚うぬぼれだろうか。

 何故だろう、采女のほうが整った顔をしているのに、百合は蚊三郎ばかりを目で追っている。蚊三郎が額から落ちる汗を袖で無造作に拭う。あら、手首に大きなあざがある…。

「始めっ」

 父の声に、百合は我に返る。采女と蚊三郎は、だん、と音をたてて跳び下がり、竹刀を正眼に構える。

 仕掛けたのは、采女だ。はかま裾捌すそさばきまで美しい。気合の声が小気味よく道場に響く。

 対する蚊三郎は、不自然なほど声をたてない。采女の攻撃を跳ね除け、即座に攻撃に転じるときも、風が鳴りそうなほど速い突きを繰り出すときさえ、ただ眉と口元に力を入れて、黙々と剣を放つ。

 剣に性格が出るというのは、本当のようだ。采女の剣は動作が大きく派手だ。蚊三郎の剣は動作が少ない。

 二人の男の床を踏む音は、四半刻ほど続いた。滴る汗は尋常でなく、二人とも肩で息をしている。百合も額に浮き出る汗を拭いながらの観戦だ。団扇など何の役にもたたないだろうに、隣の父はあおぐ手を止めない。

 何度目かの激しい打ち合いのあと、利き足を思い切り後ろにひいた蚊三郎が、自身の汗で滑った。態勢を崩す相手に、采女は容赦なく竹刀を振り上げ、踏み込む。

「あ!」

 叫んだのは態勢を崩した蚊三郎でも、勝利目前の采女でもない。百合であった。百合は両手で口を覆い、思わず声を出した。

 二人の男達は、突然にあがった声に気を乱されることはなかった。唸る采女の竹刀に、蚊三郎は思い切り身を沈め、上体を捻る。僅かに頭を掠めた竹刀に顔をしかめたあと、即座に態勢を立て直し、振り向きざま采女の胴を打った。

「そこまで!勝者、小村!」

 父が団扇を持った手を高々と上げ、立ち上がる。百合も無意識にそれに続いた。戦い終えた男達は、乱れた息を整えつつ父娘の前で頭を下げた。

「…小村、俺の負けだ。道場と百合どのを頼む」

 采女が差し出した手を、蚊三郎が握る。采女は手を離すと、百合に白い歯をみせた。

「貴女はご存じないだろうが、この試合の話は、門弟達の間でずっとあったことだ。美しい貴女とともに、この道場を継げるならと何度先生に酒を飲ませても、首を縦に振らなかったのを、やっと頷かせたというのに…。やはり、蚊三郎の一途さには、かなわなかった」

「や、片平、止してくれ」

「なに、最後に嫌がらせくらいさせろ。俺はお前と長く友人をやっているから知っている。…百合どの、蚊三郎は、この道場に入門した少年のころから、ずっと貴女だけを見てきた男です。道場に寄り付かない貴女の姿は、十度稽古に通って一度見られれば良いほうであったが、この蚊三郎はその一度のために毎日ここに通った男ですよ。先生、この二人が夫婦になっても、すぐに道場は譲らぬほうが賢明です。可愛い妻に骨抜きにされている内に隠居なさると、蚊三郎に潰されてしまう」

 闊達に笑ったあと、真っ赤になった蚊三郎の肩を強く叩いて、采女は道場を出て行った。

 最初の印象ほど、采女は悪い男ではないらしい。この試合に反発する気持ちが薄らいだ今は、采女と先に辞したの二人の男に申し訳ないと思う。四人の真剣さを目の当たりにして、百合の気持ちは随分といでいた。

「えー、さて。汗まみれで何とも風情のないことだが」

 父が間抜けな声を出す。百合は目の前に立つ蚊三郎を見上げる。蚊三郎が笑む。百合の心臓が高鳴った。

「少し、話してみるか?未来の夫殿と」

 そう、父がいったとき、突然なんの前触れもなく、蚊三郎が倒れた。すっと、百合の視界から消えるように。

 以来、蚊三郎は昏々と眠りについたままだ。目蓋はぴくりとも動かない。



***



「花三郎さま…」

 あれから一月半たった今、百合は自宅の離れで涙を流す。本当なら、そろそろ結納の日取りでもと、父と蚊三郎と笑っていただろうに。

 蚊三郎が倒れたとき、百合は一呼吸の間のあと、叫び声をあげた。何事かと家人が集まりだし、父は蚊三郎に駆け寄り脈を診ると、騒ぎに戻ってきた采女に医者を頼んだ。

 それからのことを百合は、途切れ途切れにしか覚えていない。覚えているのは仰向けに倒れている蚊三郎を揺り動かそうとしたときの父の「触るな!」という厳しい声。それと、駆けつけた医者の見立ての台詞。

「…こりゃー、頭の病だ。あまり動かさなかったのは賢明だったが…こうなると、どれくらいで目覚めるか分からん。目覚めるかどうかも。ともかく涼しいところで寝かせて、滋養のある柔らかいものを食べさせて、様子をみることだ」

 ま、それも食べられなければ終わりなのだがな、と医者は最後に付け加えた。

 百合はそれを聞いて倒れた。倒れて意識を失う瞬間に、蚊三郎を好きになり始めていると気づいた。

 あまり動かさないほうがよい、との医者の言葉どおり、蚊三郎は小村の家には帰されず、百合の家で面倒を看た。百合がいま座っているこの部屋である。

「あんなに看病したのに…」

 会ったばかりの男に、何故そこまでと周囲に言われるほど、百合は懸命に看病した。小村の実家から応援が来たが、百合はそれを早々に帰し、女中の手を借りながら、ほぼ独りで蚊三郎の面倒を看た。  

 食べられなかったらどうしよう、と百合は最初気を揉んだが、不思議と蚊三郎は飲み込むことはできた。それでも、重湯を口に流し飲み込ませるだけでも大変な苦労だった。汗をかけば着替えさせ、団扇であおぎ、疲れると自分の事を語って聞かせた。幼い頃のこと、亡き母のこと、父娘の掛け合いのような会話のこと。百合の独り言のような話を聴いているとき、心なしか蚊三郎の口元が緩んで見えたのは、気のせいだろうか。

 二、三日に一度、采女が新鮮な果物などもって見舞いに訪れるほかは訪れる人もなく、百合はもうずっと前からこんな生活をしているような、奇妙な穏やかさに包まれていた。采女は百合を励ますように、楽しい話ばかりする。『蚊三郎』の渾名は、このとき知った。

 目覚めなければもって半月、と言われた蚊三郎だが、あれから一月半、蚊三郎は細々と生きている。見る影も無く痩せて、顔色も悪かったが、確かに生きているのに。

「…忘れろ、だなんて。父上」

 最期のときが近い、と医者に言われ、蚊三郎は実家に返された。小村の家で看取りたいと、年老いた母に言われては仕方が無かった。迎えが来たとき、蚊三郎の母は百合の手を握り、しきりと礼を述べて帰っていった。そして涙を流す百合に、父は、

「蚊三郎のことは、忘れろ」

 と言ったのだ。

 何故そのような、と言いたい。だが、父の気持ちも分かる。娘と蚊三郎を憐れと思うから、ここまで黙って見守っていたのだ。それは蚊三郎の母も同じだ。先が無いなら、好いた娘の側にと思い遣ってくれたのだ。

 百合は痩せた。可愛らしかった丸い頬はすっかり肉が落ちてしまった。それがかえって大人びた美しさとなったが、百合にはどうでもよいことだ。

「まだ、話したこともないのに」

 思い出されるのは、蚊三郎の目尻の赤み。ほわりと優しい、その色。

 離れの外は、いつの間にか暗くなっている。雷でも来そうな気配だ。湿った風がごうごうとふいた。百合は立ち上がり、障子を閉める。

 最期をむかえるとき、お側にいなければ。ずっとそう思っているのに、蚊三郎の身体から魂が抜けるさまを、見るのが怖い。

 雷が鳴る。雨は降らない。光が何度もひらめき、百合の気持ちをざわめかせる。

「やっぱり、行かないと」

 もう蚊三郎の時間は少ない…。怖い、でも、やっぱり側に居たい。

「一度くらい、話してみたかった」

 そう言って立ち上がりかけたとき、障子に人影が映る。雷の閃きに照らされた姿は、雷が連れてきたかのようだ。瞬きひとつの間に、忽然こつぜんとそこに現れた。

「百合どの、小村でござる」

 小さな声。百合は転げるようにして障子に寄り、一度の迷いも無く障子を開ける。

「花三郎さま…!」

 稲光いなびかりが明滅する縁側に、ちょこんと座ってこちらを見ているのは確かに蚊三郎で、細い目をさらに細くして、バツが悪そうに笑っている。

「百合どの、こんなことになってしまって、本当にすまない」

 『蚊の鳴くような』と言われるほど、蚊三郎の声は悪くない。低音で、柔らかい。聞きたかった声。蚊三郎の胸に、百合は飛び込んだ。蚊三郎は、試合のときの袴姿だ。身体はかさかさに乾いていて、薬の香りがした。

 蚊三郎は百合をぎゅっと抱き締める。それから、百合の顔を覗き込んだ。

「こんなに、痩せて」

「いいえ、花三郎さま。貴方が元気になってくださるなら、私など」

 蚊三郎は哀しげな顔をして、もう一度百合を抱き締めた。

「百合どの、お願いがある。俺の実家の…箪笥たんすに、句帳があるのだが…もし、家の者が持ってきても、どうか見ないで欲しい」

「随分と、変わった願いごとですね。分かりました」

 蚊三郎の胸に顔を埋めたまま、もごもごと言う百合。蚊三郎は、ほっと息をつく。

「片平に勝って、貴女の前に立てたとき、とても幸せだったのに。こんなことになって、すまないと思いながらも、貴女の世話を受け、貴女の話を聞き…居心地が良くて、離れ難くて…本当はもっと早くにあちらに行かなければならかったのだ…迷惑をかけた。短い間でも、俺は楽しかった。ありがとう」

 何を言っているのか分からず、百合は蚊三郎から離れる。蚊三郎は寂しげに笑って、百合の白い手をとった。袂から痩せた腕が覗いて、百合が試合のとき見つけた大きなあざが見える。その色は、蚊三郎が照れたときの、目尻の色。あざは痩せたために皺が寄って、まるで萎んで落ちる前の朝顔のように切なくしおれている。

「去りがたいが、これでさらばだ。俺は口下手で気の利いたことは言えぬが、最期に貴女と話せて、よかった」

「花三郎さま、何を仰って」

 元気になられたのに、と続けようとしたとき、空がまた光る。強い光が、百合の影を縁側の廊下に映す。百合の影だけを。

「…花三郎さま」

「こんなことを言うのはしゃくだが、片平は好い男だ。貴女を賭けての剣術試合も、片平が熱心に先生に言ったことで…百合どの、どうか幸せに。ずっと貴女を見ています」

 花三郎の手が滑る。百合の頬から、首筋をとおって、肩へ。名残惜しげに留まって、肘から、手へ…そして消える。あとには何も残らない。

 百合はさめざめと泣いた。呼応するように空も泣き出す。蚊が鳴くように小さな声は、もう二度と聞こえない。

 蚊三郎の悲報がもたらされたのは、その日の夜だ。

「百合の花を、多く詠んでいるので…可笑しいのですよ、冬でもなんでも、百合を詠んでいるのですから」

 葬儀のとき、蚊三郎の老母は丁寧に看護の礼を言い、泣き笑いの顔で息子の句帳を百合に手渡した。百合は迷った挙句にめくることなく、庭で燃やした。夏の終わりの蚊が、ぷうん、と百合を一回りして、煙とともに空へ上っていった。



***



 道場主夫妻は、「まるで雛のような」といわれる。見目もさることながら、夫婦仲も常に並んで座す内裏雛だいりびなのように穏やかで睦まじい。

 この夫婦、変わったところがある。夏、蚊を追う事はしてもけっして殺さない。運悪く刺されたときは、赤く腫れたところをさすりながら、懐かしそうに笑いあっている。



  (終)
 


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