遠くあの空のむこうに

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順風とは言えない旅路



 ゼオルの屋敷の南側に、温室風のテラスがある。

 この家の家令・ハンセは、本日届いた手紙を仕分け、車椅子のままテーブルにつくレサルドの前にうやうやしく置いた。

「ハンセ、ギリアムは無事旅立ったのかい?」

 交易に関する書類、取引に応じると言う隣国の商人からの手紙。…目の前の手紙を一つ一つ丁寧に読みながら、レサルドは傍で茶の用意をするハンセに聞く。
  
 この家に長く仕え、ゼオルより年上で白髪の家令は、歳に似合わず背筋はぴんとして若々しい。
無駄の無い動作で茶を淹れると、カップをレサルドの前に置いた。

「はい、昼前に出立されました。随分と軽装でございましたが…大丈夫でしょうか、ゼオル様」

 白く丸い石造りのテーブルの対面に、憮然とした表情のゼオルが居る。ハンセはもう一つのカップを彼の前に置いた。

「あの子の考えていることは、私には全く理解できない。レサルドに頼むべきだったかと後悔している」

 手紙に目を通し終え、カップに口をつけかけたレサルドは、空色の目を細めた。彼の外見は亡き母に似ていて、髪は明るめの茶色で癖がある。纏った穏やかさは、父似であった。

「僕はこの通りの足ですから…長旅には不向きです。それに、ギリアムが外に出るのですから、ジリオンの事は、案外何とかなるのではないでしょうか」

 ハンセの淹れた茶は、香りがよく、ミルクがたっぷりと入っていて、まろやかで甘い。レサルドは口に含んだ茶の甘さそのままのような、優しい笑みを浮かべた。

「そうだと良いが。…ゴドー将軍もついているから、滅多なことにはならないと思うのだが」

 燦々さんさんと降り注ぐ陽光は、少々暑いくらいだ。主人達が暑いと感じるより早く、ハンセはきびきびと歩いて大きなガラス窓を開け放った。

 心地よい風が、庭の花の香りを運んでくる。レサルドは顔にかかる髪を耳にかけた。

「ギリアムがきっとどうにかしてくれます。全ては良い方向に…でも、その過程はきっと『滅多なこと』だらけだと思いますよ。…父上、我々もある程度の覚悟と準備が必要でしょう」

 そう言って、レサルドは読み終えた手紙の中から一通を取り出し、ゼオルの前に置いた。

 白い封筒にはあて先も差出人も書かれていない。ただ、片隅にリンドウの花があしらわれていた。

 ギリアムの好きな花である。

「屋敷を出られるときに、ギリアム様がお二人に…大袈裟にならない様に渡すようにと。お小さい頃から筆まめな方でいらっしゃいます。ジリオン様とは随分遣り取りされておられました…短い間とはいえ、こうしてご家族と離れると、お寂しいのかもしれません」

 ハンセが微笑ましそうに言うが、何枚にも渡る手紙の文字を追うゼオルの表情は次第に厳しくなっていくのだった。

「あいつめ、この様なことを考えておったのか!全ては人の関わる事、うまくいくかどうかなど!」

 ゼオルは立ち上がり、手紙をレサルドに放る。レサルドはその手紙を丁寧に畳み封筒に戻すと、ハンセに手渡した。

「僕と父宛だけど、ハンセも読んでおいて。これから色々と大変になると思うから」

「ですが」

 躊躇ためらうハンセに、レサルドは笑う。

「ハンセは家族も同様。是非読んで。これから起こる全てのことを、一緒に乗り越えてもらわなくてはならない。…そして、読んだら必ず、燃やして」

 言い終えたときのレサルドの顔には、いつもの穏やかさは無かった。

「畏まりました」

 手紙を大事そうに懐に仕舞い、ハンセがテラスから出て行く。それを見送ってから父の方に振り返った時のレサルドは、もう元の穏やかなたたずまいに戻っている。

「父上、大丈夫ですよ。ギリアムのしていることは、確かに悪い面もある。けれど、良い面はより多くある。僕は弟のすることを支持しようと思います」

 ゼオルは座ったままで立つことの出来ない長男を見た。息子達は、自分の手を離れて自身の考えで生きようとしている。

 親は、それを応援してやるべきだ。ゼオルは息子達を信じることに決めた。

「…まずは、ジリオンに会うのが楽しみだよ。六歳の時に別れたきりだ。少しはお転婆も納まっているといいのだが」

「どうでしょうか?でも、相変わらずお転婆じゃないかな、きっと」

 再び対面に座り残った茶を飲むゼオルに、レサルドはそう返した。



***



 あかつき亭を出たゴドーは、先ず空を振り仰いだ。西の空はだいだい色に変わろうとしている。石畳に伸びた二人の影も、背の倍ほどの長さになっていた。

「ギリアム、出発の時間を間違えたな」

 じきに夜になる。王都は治安の良いところだが、王都の外へ出れば、夜歩くのは良い案とは言えない。この頃は夜盗や物乞いが、右肩上がりで増えている。度重なる理不尽な増税に耐えられなくなった者が、それだけ多いということだ。

 王都から、国境の州・キハンまでは二つの行程がある。一つは北の門から出て、四つの州とその間にある大きな湖を越える方法、もう一つは南の門から出て、南の国境に沿って流れる大河・フェニテ川を船で遡る方法だ。二つ目の行程の方が、日数は少なくて済む。今回は期限のある旅だから、なるべく早くキハンに着きたい。

 だが、夜出港の船は殆ど無い。出発していきなり宿を取るしかないかと、ゴドーは考えた。自分だけならどんな宿でも構わないが、この取り澄ました御曹司殿はそうはいかないだろう。

「ゴドー様、心配には及びません。父が船を用意しました。出港は日没とともにと言ってあります。急ぎましょう」

 ギリアムに促され、歩き出す。ゴドーはいつもの簡素な皮鎧に、ズボン、皮のブーツを履いて、使い慣れた長剣を腰に差し、簡素なマントを羽織っている。旅慣れた剣士風で、とても一国の将軍には見えない。
 背が高く逞しい剣士と、フードを目深に被った正体不明の人物は、夕暮れの道筋でもかなり人目を引いた。

「なあ、ギリアム。お前さん顔を見られたくなくてそんな格好をしているんだろうが…かえって目立ってるぞ」

「いいのです。顔を見せないことが重要なのですから」

 連れだって歩くギリアムの外套は長く、足に纏わり付く。そのせいか歩みは速くない。上質な生地なのは見てすぐに分かるが、実用的とは言い難かった。もっとも、着ている本人は特に気にしていないようだ。上品に歩く。

 こうも澄ましていられると、からかってやろうかという気持ちが、ゴドーの中でむくむくとわき上がるのだった。

「そんなにゆっくり歩いてたら間に合うモンも間に合わなくなっちまうぞっ…と!」

 悪戯っぽく言って、ゴドーは突然ギリアムを担ぎ上げた。腰の辺りを天辺てっぺんにして、ギリアムの上半身はうつ伏せにゴドーの広い背に落ちる。

「ちょっ…止めて下さい!余計に目立つじゃないですか!」

 流石に慌てたようで、声を荒げるギリアムに、ゴドーが笑う。妙に老成してると思ったが、可愛いところもあるじゃねえか。

「なあに、目立ちついでだ。それに早く王都を出て、お前さんの顔も拝みたいんでね」

 実際、顔の見えない相手と話すのは、結構疲れる。本人の意思に反してまで、そのフードを取ろうとは思わないが。

「ところでギリアム、お前軽すぎるぞ。もう少し太ったらどうだ?」

「余計なお世話です!」

 尚ももがくギリアムに構わず、ゴドーは走り出した。無駄なく筋肉に覆われた身体は、背負ったものの重さなど感じさせずに走る。
 風景は徐々に変わっていく。町並みを抜けてその先に門が見えてくる。門の両脇から延びる、石を無数に重ねた無骨な壁は、砂漠側を除いてぐるりと王都を囲っていた。北か、この南の門を除いては、王都に入る手段は無い。

 普段、門は夜閉じられる。閉門を知らせる鐘の音が、二人の耳に聞こえた。

 ゴドーは慌ててギリアムを抱えていないほうの腕を大きく振る。

「待ってくれ、今通る!」

 ギリアムはすっかり荷物扱いされていたが、大人しくゴドーの背でぶらぶらと揺れている。確かに早く港に着きそうだが、逆さまになっているせいか、少し気分が悪い。

「馬を用意しなかったのは、失敗でした…」

 ギリアムのぼやきは、懸命に走るゴドーの息遣いにかき消される。

「閉門、待て!」

 何度目かのゴドーの呼びかけに、見上げるほど大きな両開きの木戸に手を掛けていた鎧姿の兵士が振り返った。門の上は楼閣ろうかくになっていて、他の兵士達もゴドー達を見下ろしている。

「これはゴドー将軍、お役目は聞いております…。まさか徒歩で来られるとは思いませんでしたが」

 門の前まで来て、やっとギリアムを降ろしたゴドーに、門番の兵士が言った。どうやら彼は貴族の子弟のようで、しかも感情を隠すのは得手でないらしい。その言葉には棘があった。

「なに、港は近いからな。馬に乗るほどでもないさ」

 ゴドーがねぎらうように兵士の肩を叩くと、その兵士は明らかに嫌そうに表情を歪めた。

 背負われ揺れたせいで、微かにふらつきながらも兵士の横を通り過ぎようとしたギリアムが、ふと立ち止まる。

「…随分と躾けの悪い…近隣に類なしと言われた規律正しいリュート軍は、どうやら過去のお話のようですね」

「何を!貴様、我が軍を愚弄するか!」

 ギリアムのあからさまな嫌味に、兵士が気色ばんだ。兵士の手が腰の剣にかかるが、ギリアムは平然としている。

 先に行きかけたゴドーは、連れが来ないことに気付き、振り向く。

「階級を重んじない兵、か。さて、いざ戦となったら何の役に立つのでしょうね。好きに戦うなど、野犬以下ではないですか」

 ギリアムが言い終えるか言い終えないかのうちに、兵士が抜刀し、斬りかかる。が、剣が振り下ろされる前に、ゴドーの手が、その柄を正確に掴んだ。

「待て、無闇な殺生は剣を持つ者の恥だぞ」

 兵士に向けるゴドーの翡翠色の目は鋭い。怒りに任せて両手で剣を振り下ろしたというのに、片手で押さえられた兵士の剣は微動だにしなかった。

 ほんの一瞬だけ顕わになったゴドーの怒りに、兵士は目を逸らし、剣を収める。それから二度と、ゴドーと視線を合わせなかった。

 ゴドーも何も言わない。ギリアムの腕を強く掴むと、急ぎ足で門をくぐる。途端にふいてきた川風が二人の間を通り抜けて、門の中に吸い込まれていった。

「…何故、お怒りにならないのですか?軍において規律とは、何を置いても守らねばならぬものです。捨て置くのは、良いこととは思えません」

 川に向かってなだらかに下ってゆく道を、ゴドーに引っ張られてもつれるように歩きながら、ギリアムが言う。ゴドーの砂漠色の髪は、夕闇の紫色に照らされて、黒味を帯びて風に揺れた。

「俺は、傭兵の出だ。元々一所ひとところに留まって、誰かに仕えたりするのは、性に合わないのさ。執着がなきゃ、怒りも湧かない」

 質問をふったくせに、ギリアムはゴドーの返答にただ黙っている。ゴドーは更に続けた。

「名ばかり将軍は、本当のことだからな」

 ゴドーは死なないことだけを念頭において生きてきた。信条であった。それは諦めにも似ている。

「ゴドー様、貴方にしか出来ないことがあると、私は思います…病み始めたこの国には、必要な方だと」

 ギリアムの口調が熱を帯びている。意味が分からずに振り返ったとき、風が強くふいて、ギリアムのフードを揺らした。口元が、僅かに見えた。でもそれも、ほんの一瞬のことだ。

「…そうだといいがな」

 この仕事が終わったら、また傭兵に戻ろうかと、ゴドーは思っている。やはり将軍など、自分には向いていないのだ。

 それぞれの思惑をはらんで、風が次第に強くなる。

 運ばれてくるのは水の匂い。落ち切る直前の夕日を水面に映す大河、フェニテ川が見えてきた。川向こうの隣国は殆ど見えない。水平線に僅かに木の陰があるのが分かるくらいだ。春も初め、昼は汗ばむほどでも、この時間になると、少し肌寒い。

 フェニテ川は、色々な支流から水が集まって出来ていて、『嘆きの砂漠』に流れていく。その先はどうなっているのか誰も知らない…もしかしたら、ゴドーは知っているのかも知れなかった。けれど彼は、吟遊詩人の唄にあるほど、砂漠のことを語らない。

「ようやく王都を出られるな」

 先程の一件で重苦しくなった空気を振り払うように、ゴドーが陽気な顔でギリアムを見た。

 この港までが王都となる。昼は市が立ち、船乗りや買い物客で賑わうが、この時間になると、開いているのは宿屋と酒場だけだ。歩いているのは船乗り達と、見回りの兵士達くらいか。酒の入っている者が多く居る。

 船着場には帆船が大小あわせて十数隻停泊している。ギリアムはその中で一番大きく美しい帆船を見上げ、指差した。

「ゴドー様、こちらが我が家の商船です」

「ほー、やっぱり大したものだなあ!」

 ゴドーが感嘆の声を上げる中、ギリアムは傍に居た船長らしき人物に話しかけ、さっさと船と陸とに掛けられた板を渡っていく。

「そんなに大きな口を開けて上を向いていると、水鳥が飛び込みますよ…さっさと参りましょう、ゴドー様」

 先程の真摯で熱い口調ではない澄ました声が、船上から降ってくる。ゴドーは笑って砂漠色の短い髪をかき回した。

「いや、実はこういうきちんとした船に乗るのは初めてなんだ」

 子供のようにはしゃいだ様子を隠すつもりも無く、ゴドーは大股で船に乗り込む。また呆れた声が返ってくるのかと思いきや、ギリアムもフードの中で微かに笑った。

「奇遇ですね、私もです」
 
 流石、だてに引きこもっていない。ゴドーは噴き出した。

「ははは、ではお互い船酔いしないことを祈ろうか」

「そんな醜態は晒しません」

 軽口を叩きあったとき、出港を告げるかねが鳴り、夜気を震わす。

 冬の名残…西からの川風を帆に受けて、船が陸を離れる。ゴドーは船首に立ち、これから行く先を見つめ、翡翠色の目を細めた。

 行く先は東、まだ上り始めたばかりの三日月が宵闇にぷかりと浮かんでいた。月はいつも形を変える。気紛れな女のようだと、ゴドーは思う。

 …どのような姫なのだろう。

 ゴドーは始めて、王の妃と望まれた、ギリアムの異母妹を思う。名をジリオンと言ったか。不死の女と同じ名を持つ姫。漠然と細く儚げな姿が頭に浮かぶ。

歳は十八と聞いた。ゴドーとは十も違う。身分のある者として生まれたからには、好いた男と添うことは難しいだろうが、あの好色で阿呆な王に望まれるのは不憫だった。しかも、ゼオルを離さないための人質として嫁がねばならぬとは。

「何を考えているのですか?」

 物思いに沈むゴドーに、不意に後ろからギリアムの声がした。今まで聞いていた声よりずっと聞き取りやすくなっていることに、ゴドーは特に疑問を抱かずに振り返る。

「いや、これからのことを色々と…」

 ゴドーの口は、そこで動きを止めた。

「王都は出ましたから、窮屈な思いは仕舞いです」

 ギリアムが、フードを背に落としている。進路を照らすために多めに設えられたかがり火が、彼の顔を照らす。

 美人だ。それも、とびきりの。肌は白。髪は黒。肩ほどの長さの癖の無い髪は、火の色を映して紫色に輝く。始めて顔を晒した照れなのか、僅かに視線を下に向けた切れ長の目は群青。背格好から男と分かるが、顔だけを見れば、美女と言っても遜色無かった。正直、ゴドーにとって…。

「惜しい」

 思わず、声に出る。小さな呟きだったが、風下のギリアムの耳には入ったようで、形の良い眉はひそめられる。

「惜しい…とは、どう言う意味でしょう」

「いや、何でもない」

 咳払いで誤魔化して、ゴドーは川に視線をうつす。航行中の船は少ない。というより、この船と、こちらに向かってくる船…視界に入る船は二艘だけだった。航行する船が少ないのも当然のこと、視野の悪さを補うためのかがり火、腕のよい船員、賊に対する備え…それを用意できる財力が無くては、夜に航行できない。

 つまり、夜に動いている船には、ある人種にとって、危険も魅力もあるもの。

「ゴドー様、『惜しい』とは」

 尚も食い下がるギリアムを、ゴドーは手で制し、剣士の目で前方を見遣る。まだ遠い前方の船のすぐ横に、黒っぽい小船が幾艘か見えた。

「ギリアム、この船に戦える者はいるか?」

「居りますよ、ここに」

 と、ギリアムは問うた者の鼻先を指差す。ゴドーはため息をついた。こんなことなら、リンジーたちを連れてくれば良かった。少数ながらも頼れる部下たちは、今頃どの空の下だろうか。

 船同士が近づくにつれ、風に乗って悲鳴らしきものが耳に入ってくる。その声は女のものが多く、剣戟けんげきの響きが聞こえないのは、幸いと思っていいのか…ゴドーは異変を感じて近寄ってきた船員達を振り返った。

「今すぐ船を止めろ。…この船に、小船の備えはあるか?」

「き、緊急用の、数人乗れるものなら」

 船員の答えにゴドーは頷き、ギリアムを見た。

「俺が様子を見てくる。ギリアムはここで待て」

 順調に風を受けていた帆が畳まれ、錨が川面に投げ込まれる。俄かに慌しくなる雰囲気の中、ギリアムはゆるゆると頭を振った。

「私も一緒に参ります」

「…邪魔だ」

 急ぎ川面に降ろされた小船に、ゴドーは軽やかに飛び降りる。そのあとにギリアムが続いたが、上手く着地出来ずに、小船は大きく揺れ、落ちそうになるのを何とかこらえ、優雅に座り込む。

 …絶対、役に立たない。

「ギリアム、妹に会う前に死んじまうぞ。大人しく船に残れ」

「嫌です」

 言うことを聞きそうに無い。ゴドーは仕方なく手にした櫂をギリアムに押し付けると、マントと皮鎧を脱ぎ、腰の剣をベルトごど肩にかけ、背負う形にする。

「時間がねえ。俺は先に行く。ギリアム、来たけりゃ、自分で漕げ」

 言い捨てて、相手の返事も待たずに、飛び込む。水しぶきがあがる瞬間、ギリアムが何か言った気がしたが、構っていられない。

(水が冷てえな)

 両手で交互に水をかく。泳ぎには未だ早い季節だ。ぐずぐずしていると、体温が低下して戦うどころでは無くなってしまう。なるべく水音を立てないよう、足をあまり使わずに、ゴドーは問題の起きているらしい船に向かった。

 問題の船は、軌道を緩やかに失いつつあるように見える。一旦泳ぐ手を止めて、ゴドーは目の前に迫る船を観察した。

 随分と無駄に装飾の多い船だ。ギリアムの家の船も、大したものだと思ったが、遥かに派手でけばけばしい。船首には、何かをささげ持つ女神のような彫刻を施してある。よく見れば、女神がささげ持つのは、宝石を模した大きなランプ。その紋章は。

「…王家の船か」

 獅子と薔薇を抽象化した、やたらと華美な紋章。後方にある船室の窓には、無駄な金の縁取りが微かに見えた。金のかけ方が違うなあと、変なところで感心したとき、ゴドーの直ぐ横に、黒い小船が迫った。

「わっ!」

 思わず声が出て、ゴドーは慌てて潜り、小船をやり過ごす。当たりをつけて、小船の真横に頭を出し、そのまま小船に手を掛ける。少し軽率だったか、と思ったが、覗いてみると小船に人の姿は無い。ゴドーは勢いをつけて船に乗る。途端に吹き付ける川風に、半裸に近い上半身が冷えた。いつも逆立っている髪がしおれて、その先から水滴が落ちる。

「まったく、ギリアムのせいで」

 やっぱり、あいつとは気が合わない。と改めて確信しつつ、ゴドーはすぐ脇をゆっくりと航行中の派手な船を見上げる。小船から、何本か太い縄が、隣の船の甲板に向かって伸びていた。
 どうやら、賊達はとっくに暴れているらしい。それとも暴れ終えているのか、上からは何も聞こえてこなかった。

 大きな身体に似合わず俊敏に、ゴドーは腕の力だけで綱を上る。幾度か揺れに邪魔されながらも、素早く上り終え、そっと甲板に降り立った。

 ギリアムの船の明かりが、思ったより大きく見える。急がないと。賊達は欲張りだ、飛び火しないとは限らない。ゴドーは背の長剣をそっと抜き、下段に構え、腰を落とす。心地よい緊張感が、ゴドーを満たす。ゴドーは戦争は好まないが、戦うことは好きだった。

 傭兵として長く戦場を渡り歩いた彼の目は、闇でもよく利く。甲板のかがり火は、殆ど消されていたが、人の気配、動きはだいたい分かった。思ったとおり、敵はある程度仕事を終えて、油断している。漂う血の匂いは、殆どがこの船の乗員のものだろう。近くに転がっている死体をみれば、赤い軍服に、例の紋章があった。…ギリアムではないが、たかが賊に全滅とは、国軍も大したことは無いな、と他人事のように思う。

 人の気配は、どうやら船尾に集中しているようだ。明かりもそちらに多い。ゴドーは先ずはそこを避け、単体の気配を追う。

 ゴドーは背を低くしたまま、人の気配のほうに素早く移動する。マストの近くに人影を見つけた。酔っているらしい。その影は、ぐてんとマストに寄りかかり、まるで力が無い。

「随分と大漁だな、獲物はなんだ?」

 ゴドーは後ろから声をかける。男は振り返らず、酒瓶を振り上げた。

「何を今さら言ってやがる。バカ王の寵姫候補の娘達だ。…別嬪ぞろいだから、高く売れるだろうし…へへ、なんなら、『キハンのアスト』の土産にしてもいい」

 ゴドーの心臓が、ほんの一瞬だけ跳ねた。キハンとは、これから向かう地ではないか。

「キハンの、アスト」

 思わず復唱すると、泥酔した男は、げはは、と笑う。どうやら馬鹿にされているらしい。

「なんだおめえ、知らねえのか?最近売り出し中の盗賊団の頭じゃねえか。このところ、義賊を気取ってやがるが、大の女好きでな…まあ、俺らもそこに入れればってよ…」

 もう一度笑い、後ろを振り返ろうとする男の太い首に、ゴドーは素早く手刀を見舞う。男はゴドーの顔を見ないまま、その場に崩折れた。

「行く先に、暗雲あり、か」

 ゴドーは一度背を伸ばし、面倒そうに首を回すと、再び身を屈め、船尾に向かった。明かりに照らされないよう気を配り、近くの酒樽の陰に身を隠し、様子を伺う。

「…思ったより厄介だな」

 縄で縛られ一箇所に集められている女は、二十人程。これから正式にジリオンを迎えるというのに、お盛んなことで、と、ゴドーはげんなりする。女の周りを囲んでいる男は、見える範囲で十人強といったところか。先程の男のように、酒を飲み、女達に野次を飛ばしているものが殆どだが、一人、冷たい目をして腕を組んでいる男がいる。気をつけるとすれば、こいつくらいか。

 さて、と立ちかけた時、酔った男の一人が、一人の女の長い髪を引っ張り、押し倒した。
 高まる野次と、悲鳴。もう作戦も何もなかった。なるべく一人ずつ始末したかったが、仕方ない。

「おいおい、女はもっと優しく扱うもんだぜ、野暮だなあ」

 ゴドーは飛び出し、その呑気な口ぶりとは裏腹に、女の上に馬乗りになっていた男の腕に、素早く切りつける。見た目はかすり傷程度だが、筋に傷をつけた。もう、まともには動かない。男が悲鳴をあげて、甲板に転がる。

 その場の雰囲気が一変する。酔っていた男達は抜刀し、ゴドーを囲む。女たちが息を呑むのが分かった。

 ゴドーは胸元の顕わになった女を助け起こすと、背に庇う。左から一人、前から一人。同時に切りかかる賊たちの剣を屈んでかわし、隙だらけの二人の脇を、回転するように薙ぎ払った。薄闇に、血が飛ぶ。二人は同時に倒れ、絶命する。

「お前ら、この闇で手加減なんかできねえ。大人しくすれば、命は助けてやるぞ!」

 ゴドーは四方に叫んだ。庇う者が多過ぎる。時間を掛けたくはなかった。とにかく背にいる女に、集団の中に戻るよう目配せする。

 格段の腕の違いに賊達は怯み、ゴドーが気を付けねばと思った男を見る。黙って腕を組んでいた男が、ゆっくりと腰の刀を抜いた。
どうやら、交渉失敗らしい。ゴドーは軽く舌打する。

 賊達は数に任せて一斉に向かって来る。右から三人、左から一人、後ろから…ええい、面倒だ。

 ゴドーは剣をかわしながら先程身を隠した酒樽まで走り、追いかけてくる賊達に向かって投げつけた。まともに喰らったのは、二人。後ろにいた幾人かが巻き添えになる。ゴドーは酒樽のあとを追うように跳躍し、賊達の中心に着地し、三人の胴を払う。ゴドーの剣筋を止められるものはいない。声を上げる間もなく、倒れ伏す。血の匂いが濃くなる。

 残った一人が、ひいい、と声をあげ、ゴドーに背を向けた。だが、次の瞬間に、正面から刀を浴びて、崩れる。

 手を下したのは、腕組みしていた男だった。ゴドーは眉を寄せる。

「…仲間を切るのか。感心しねえな」

 対峙した男は、血糊のついた刀を一振りする。血が、ゴドーの前の床で跳ねた。

「うるせえ!仕事の邪魔しやがって、勝手なこと言ってんじゃねえ!」

 男はいきり立つ。太い眉の下の目は、怒りに燃えていた。その手に、一本の縄があることに、ゴドーは気付く。まずい、と思ったときには、縄は強く引かれていた。

 悲鳴をあげて、女達の中から、一人の女が引きずられるように男の前に出る。金の癖毛を長く伸ばした、肉感的な女だった。男は素早く動き、その女を抱えるようにして、後ろから小刀を細い首に当てる。女が小さくうめいた。

「気に入った女だけ手元に置こうと思ったが…まさか、こんな役に立つとは思わなかったぜ」

 男が笑い、女の首に強めに小刀を当てた。白い首筋に、細い糸のような赤い筋が流れる。

 ゴドーにはそんな脅しは障害とならない。こうなったら消耗戦だ。長く気を張っていることには慣れている。時間はかかるが、あとは相手に隙が出来るのを待てばいい。…少し時間が惜しくはあったが。

 その時だった。予想もしない方向から、落ち着き払った声がしたのは。

「まだ船には、残っているものがおりますよ…」

 そこにいる全員の目が、声の方を向く。マストの直ぐ近くに、外套に身を包み、目元だけを見せた人物が立っている。手に松明をかかげていた。

(ギリアム…)

 群青の瞳は、暗闇が勝っている中で黒く見える。意識的にそうしているのか、彼の声は中性的で、ゴドー以外には、男か女かも…むしろ女に見えるかもしれない。目元だけでも、その美しさは容易に想像がついた。

「女…どこに隠れていた?」

 女を人質にとった男は、腕の中の女とギリアムを見比べる。品定めをしているようだ。ギリアムの意図は上手くいったようで、男はギリアムを女と思っていた。

「さあ?…それより、貴方の手の中にいる方と…私。取り替える気はありませんか?末成り王の傍仕えなど真っ平です…貴方のほうが、余程…」

 ギリアムの仕草には、艶がある。殆ど顔を露出していないのに、その美しさは群を抜いていた。男の喉が鳴り、一瞬腕が緩んだ。ゴドーはその瞬間を逃さない。

 迷い無く一歩、大きく踏み切り、剣を持たない手で女の腕を引き、同時に剣を振り下ろす。
 男は、ギリアムが実は男だと永遠に知らないまま、後ろに倒れた。最後に心を動かされたのが男だと知ったら浮かばれねえな、とゴドーは息をつき、剣を収める。助けた女は、ゴドーの腕の中で震える。ゴドーはその背をなだめるように二、三度さすってやった。

 ギリアムが、ゴドーの横にくる。

「船を漕ぐのも、縄を上るのも初めての事で、難儀でしたが…少しはお役に立てたでしょうか?ゴドー様」

 その声には怒りがあった。ゴドーは苦笑する。腕の中の女の縄を切ってやり、小刀を渡す。
 女は一度頷いて、縛られたままの女達の縄を切りに走り出す。

「まあ、そう言うな。ギリアムのお陰で早く肩がついた、済まなかったな。…それにしても、お前の女っぷりには参ったよ、本当に。正直に言えば、俺の好みに近い…勿論、男は論外だが」

 だから、はじめてギリアムの顔をみたときに、『惜しい』と言ったのだ。
 
 何故かギリアムは嬉しそうな素振りをみせる。

「不本意ですが、よかった」

「なんだそりゃ」

「ゴドー様の好みにあった女性は、案外近くにいるという事ですよ」

「……ギリアム、お前…実は女か?」

 そうだとしても。…幾ら顔が好みでも、性格は絶対に合わない。だいたい、背負ったときに柔らかさなど全く感じなかった。
 
 ギリアムは静かに頭を振った。

「違います」

 全然意味が分からない。ゴドーは肩を竦めると、女達の縄を解き死者のとむらいをするために、近づいてくるギリアムの船に向かって手を振った。




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