遠くあの空のむこうに

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舞い落ちる花びらのように



 荒野の小高い丘に、五百人ほどの軍隊が整列している。その隊は、騎兵と歩兵だけで構成されていた。

 薔薇と獅子のリュート紋章の入った紫の旗が数本はためく先頭に、二騎の人馬が肩を並べている。

「ええい、忌々しい!あの馬鹿王の馬鹿振りは天井知らずか!」

 黒馬に乗った小柄な、しかし堂々とした老人は、たった今届けられた手紙を読み終え、躊躇ためらい無く破り捨てた。太い白眉が怒りに歪む。

 紙吹雪は隣に居る白馬の騎士に一度纏わりついて、青い空へと舞っていく。一片だけ兜に張り付いた紙片を、肩に停まっているカラスが咥えた。世にも珍しい白い鴉は、その手紙の内容が分かっているとでもいうように怒って紙を噛んで、思い切り吐き捨てる。

 騎士は肩の鴉をなだめるように撫でた。鴉は黒い目を細め、兜で表情の見えない主に寄り添う。騎士の細身の全身は完全に銀の鎧で覆われていて、それは隣の老人とは対照的な姿だった。老人は防具など一切着けず、普段の長衣に二本の長剣を両脇に差しているだけだ。

 銀鎧の騎士は、流れるような動作で腰の剣を抜き、前方にかかげた。きらりと光る切っ先を辿れば、同じような数の軍が小さく見える。違うのは、砂埃に舞う旗の色と軍の構成。前列は弓隊が占めているようだ。

 老人は銀鎧の騎士にもの言いたげな目を向けた。先程の苛烈さとは違う情愛が宿っている。が、それは一瞬で、老人は頭を振り、控える軍を振り返る。風はこちらに向かって吹いている。隣国カルハナの軍の弓が届く前に、指示を出さねばならなかった。

 老人は最初から全軍全速前進を命じた。王からの書簡によってもたらされた怒りと憤りに任せているわけではない。戦慣れした老人は、こうする事が最も効率よく勝てることを知っているのだ。矢が障害となるなら、こちらへ届く前に敵の懐に入ってしまえばよい。

 カルハナ軍の矢は放たれた。が、落ちた先にはリュート軍の殿しんがりが僅かに居ただけで、被害は殆ど無かった。指揮をとる先頭の二基は風のように馬を駆り、同じ頃カルハナ軍に到達し、剣を振るっている。二騎の強さは他の兵の比ではなく、次々と敵を薙ぐ。老人は豪胆であり、銀色の騎士は流麗であった。

 もう殆ど矢は飛んでこないことを確信した白い鴉が大空に飛ぶ。もっとも、この賢い鳥は敬愛するあるじが負けることはないと、最初から知っていたのだが。


 戦場を見下ろす崖に、盗賊の集団があった。粗野で屈強な男達はみな頭と口元を布で覆い、馬にまたがる。崖と言っても傾斜は緩やかで、馬で駆け下りようと思えばやれない事はない崖である。一番崖近くに居た青年が、手をかざし紅茶色の目を細め戦況を見遣った。

「…ちっとは俺にも見せ場を残してくれよ、セトじい。これじゃあ出番が無えじゃねえか」

 かざしていた手で頭と口を覆う布を下ろし呟くが、不満げな物言いとは裏腹に楽しそうに片方の口端をあげる。悪く言えば人を喰ったような、良く言えば少年のような笑みであった。全体的に精悍な顔は、少し下がり気味の目じりのせいで和らいで見えるから、『少年のような』雰囲気のほうが勝っているかもしれない。

「お頭、どうするんで?今出て行ってもかえって邪魔になるんじゃねえすかね?」
 
 自分より余程年上の手下に言われて、青年は心底つまらなそうに、肩のあたりで一まとめにしてある癖のある焦げ茶色の髪を背に弾き、後ろの男達を振り返る。

「分かってらあ。今回は止めとく…って言っても、折角こうやって出てきたんだ。一稼ぎしに行くとするか!丁度カルハナの奴らもセト爺達にのされてるしな、仕事もはかどるってもんだ」

 彼らはリュート国はキハン州都・鉱山の街エトツ近辺の廃坑を根城としているが、この国では一切仕事をしない。猟場は常にカルハナ国だ。カルハナの金持ちだけを狙い、極力殺しはしない。盗んだ金品が過分であれば、貧しいものに配った。『お頭』の趣味で、義賊を気取っているのである。ゆえに、近辺の住民との仲は、そう悪くない。州候セトですら、彼らの存在を黙認している状態だ。

 このところ仕事を怠けていたせいで、彼らの懐は寂しくなりつつあった。

 だから青年にそう提案されれば、当然『是』を唱える。場所が場所だけに歓声を、とまでは行かなかったが、男達は賛同の声をあげ、一斉に馬首を巡らす。

 青年はもう一度名残惜しげにカルハナとリュートの小競り合いを見下ろし、手下達に続こうと手綱を持つ手に力を込めた。その瞳は切なげで、場違いな恋の色をしている。予定では、リュート側に不利な戦況に颯爽と登場し、窮地を救うはずだったのだ。ある人の心を惹く為に。だが、流石は『国境の双璧』、そうそう簡単に見せ場は与えてくれない。

 その時、一騎の人馬が男達を掻き分けて現れた。馬上の人物は、今回は留守を頼んだ手下である。皆が帰ったときの酒を買って置けとは頼んだが、ここに来いとは勿論言ってない。

「なんだよ、てめえ。留守番もできねえのか」

 男達からそんな声が上がったが、駆けつけた男は構わずに青年に馬を寄せた。

「アストさん、一大事で」

「名で呼ぶんじゃねえって言ってるだろうが」

「す、済まねえ…お頭。と、とにかく一大事なんだ」

 息を切らす男は本当に慌てていて、アストは仕方なく先を促した。

「エトツの街に酒を買いに行ったんですが、酒場で噂話を聞いたんでさ」

「で、何だよその噂ってのは」

「王様が、その…ジリオン姫を寄越せと言ってきたらしいんで」

 アストは一瞬目を見開き、次いで背を向けたばかりの戦場を振り返った。そこはもう混戦状態で陣形も何もあったものではなかったが、リュート側が有利なのは、空を舞う白鴉しろがらすの存在が示してくれている。

「ふざけんな、クソッタレ王が!」

 アストは顔を歪めた。頭は混乱しているが、とにかく仕事は止めにして、詳しい情報を集めなければならない。

 ジリオンを、渡してなるものか。





 ………

 王の手紙が様々な人に何らかの禍根かこんを残し、キハン州都エトツの街に広がりつつあることを、やっと目的の地に着いたゴドーとギリアムは知る由も無い。

 当の二人は、キハン州都・エトツの酒場にいる。仕事を終えた鉱山の男達で満員の酒場には、くつろぎとは程遠い空気が満ちている。

「なあギリアム、気のせいかもしれないが、居辛いとは思わないか?」

「そうでしょうか?なかなか落ち着く良い店ではないですか」

 注文した蜜酒が乱暴に置かれ、テーブルに雫が飛ぶ。ギリアムは相変わらず酒には全く手をつけない。白状しないが、下戸げこなのだろうな…と思いながら、ゴドーは蜜酒を煽った。

 エトツに入ってまたフードを被ってしまったギリアムの前に、口に入れるものは何も無い。彼はただ淡々と、小さな紙を広げて小さな文字で何かを書きつけている。携帯用のペンと紙は常に常備しているらしい。リンシュルでミルレットの劇場を訪ねたときに、自身で『手紙が趣味』と言っていたのは伊達ではない。携帯ゆえの書き辛そうな羽ペンは一度たりとも止まらずに、滑らかに動く。目深のフードの奥にテーブルのランプの明かりが差し込んでいるが、その顔は全く見えなかった。

(そういえば、エトツの街に入ってからギリアムは飲まず喰わずだな…)

 どうやら好物らしい(これも本人は白状しないが)甘味でも頼んでやりたいところだが、この酒場、居心地が悪い。酒を酌み交わす男達は無口で、不躾ぶしつけな視線は二人の旅人に注がれている。余所者を嫌うとか、そんな可愛いものではなく、明らかな敵意を感じた。

 ギリアムは頓着しないでゴドーの対面に座っている。が、ゴドーは人並みの神経を持っているので、どうにも落ち着かない。落ち着かないとかえって酒がすすむから、手元の蜜酒は、直ぐに空になった。

「そろそろ宿を探すか。ここの上は確か宿になっていたな」

 街の入り口で聞いたところによると、キハン州候は隣国との諍いを収める為、軍を率いて城を空けているらしい。隣国カルハナとこの国は昔から仲が悪く、小さな諍いは国境の砦に常住する王軍が対応しているが、事が大きくなると、州候自らが自軍を率いて出陣する。カルハナの侵攻を抑えているのは、州候セトの力と言っても過言ではない。

 カルハナ国もセト老の強さは重々承知しているが、キハン州の山々には鉱山があり、潤沢な資源に恵まれている。故に、時々思い出したように、こうやって侵攻を繰り返しているのだ。セトが老いによって力を無くすことを期待しているのかもしれないが、残念ながら七十になった州候は、まだまだ元気なようだ。

 とにかく、州候が帰ってこなくては話にならない。二人はとりあえず城を訪ねるのは明日にしようと、ここで油を売っているわけだが。空腹を満たし一晩ゆっくり眠れば、旅の疲れも癒えると思っていたのに、物事はそう思うようにいかない。

 まだ手紙を綴るギリアムを置いて、ゴドーはとりあえずカウンターに寄る。グラスを磨いていた髭面の店主らしき男が、ギロリとゴドーをにらんだ。店内からの視線も相変わらず纏わり付いている。

「済まないが、部屋を用意して欲しい」

 この反感ばかりの雰囲気だから、断られるかもな…と半ば投げ遣りに聞いたが、意外なことに鍵が放られた。ゴドーは慌てて受け止める。

 店主は持っていた空のグラスを、どん、と大きな音をたててカウンターに置いた。元々そう五月蝿いとは言えなかった店内は、店主のたてた音で静まりかえった。

「金髪に緑の目…あんた、知ってるぜ。『傭兵将軍』だろ?」

 静寂の中、店主が凄む。この辺りの男達は鉱山で働くせいか、みな逞しい。店主も例外でなく、剥き出しの腕は立派な筋肉で覆われていた。

 ゴドーは少し考え、とりあえず素直に答えることにする。

「まあ、そう呼ぶ奴もいるが。名で呼んでくれると有難い」

 鍵を持っていないほうの手を差し出したが、店主がその手を握ることはなさそうだった。仕方なく、ゴドーは手を引っ込め、ギリアムの元に戻ろうと踵を返す。

「ケッ!弱いものの味方の『傭兵将軍』さんも、結局は王の犬か」

 店主がゴドーの後ろで吐き捨てるように言う。ゴドーは思わず振り返った。翡翠色の瞳に、僅かながら怒りが宿る。

「どういう意味だ」

「そのままの意味さ。ウチの大事な姫様を、あんな馬鹿に差し出そうってんだ。いいか、ウチの姫様はその辺の姫とは訳が違う。王の慰み者なんかにしていい姫じゃないんだ」

 店主の啖呵に、周囲の男達が同意の声をあげた。ゴドーは何も言えなかった。ジリオン姫の人気はとても高いらしい。こんなにも民に慕われている。

 姫を不憫だと、ちらりと思っただけでここまで来てしまったが、俺のやっていることは、いい事とは言い難い。

 先王の時代に身に余る『将軍』の地位を得た。しかし直ぐに現王の御世みよとなり、ゴドーは身分と役目の釣り合わないままに流れに逆らうことなく過ごしてきてしまった。そのことは、彼から行動する意思を緩慢に奪いつつある。 

 この仕事が終わったら、この国を出ようと思っていた。だが、少し判断を誤ったようだ。それに気付いても、生来生真面目なゴドーには、途中で任務を放り出すことは難しい。

 二十八年も生きて、俺はこんなにも未熟だ。己に憤り、知らぬうちに奥歯に力がこもる。

「皆様、そう怒らないで下さい。ゴドー様は、必ず民の側に立って物事を考える方。今回の事も、一見すると王の思うままになっているように見えるでしょう。ですが、皆様、少しだけゴドー様を信じてはいただけませんか?」

 沈黙を破ったのは、ギリアムだった。ギリアムはいつの間にかゴドーの横に立ち、ゆっくりと話す。

「お前、何者だ?ご大層に顔を隠しやがって!そんな得体の知れねえ奴の言う事を、まともに聞く奴が…」

 今度は店内の男たちから声が上がる。幾人かの者が立ち上がり、ギリアムをあからさまに非難し野次をとばした。ギリアムはフードの奥で、隣のゴドーにしか分からない程度の笑い声を立てる。

「信じるも信じないも、皆様の自由。ですが、これはジリオンの実の兄の言葉と、お留め置きください」

 ギリアムがフードを背に落とす。途端に、おお、と彼方此方から声が上がり、ギリアムがこの場を完全に支配する。

「似ている、ジリオン様に!」

「ああ、この人は間違いなく姫様の」

 不躾な視線を一身に受けて、ギリアムが再び口を開く。

「皆様、お忘れなく。妹を不幸にしたいと思う兄は居ないということを。そして、ゴドー様は真の勇者であるということを」

 ギリアムが深々と頭を下げる。一つ、拍手が聞こえ、それはいつの間にか大喝采となった。

「さあ、行きましょう。ゴドー様」

 ギリアムは深々と店内に頭を下げると、ゴドーを宿のある上階へ促した。黙り込んだままのゴドーの手から勝手に鍵を取り、部屋に引き取ろうとする。

「ギリアム、一つ、どうしても聞きたいことがある」

 閉まりかけた扉を、ゴドーは咄嗟とっさに押さえた。ギリアムがゴドーを見上げる。階下での出来事は、少なからずギリアムの感情を揺さぶったようだ。白い頬は僅かに上気している。

「何なりと、私にお答えできることならば」

「お前、俺に何をさせたいんだ?俺は無力で、何も無い男だ。間違っても勇者などではない。持って回った言い方で、俺を何に巻き込もうとしている?俺にはお前の妹を救う力など、ない。もし期待しているなら、止めてくれないか」

 ゴドーはギリアムを正面から見て、一息に言った。いっそ、もうこのままこの国を出てしまおうかと自棄になる。例え危険と隣り合わせでも、自由で気ままな傭兵こそ、天職だったのだ。

「確かに、私は貴方に期待している。こうして短い旅を共にして、期待は増すばかりです。貴方は他人の言葉を素直に聞くことの出来る方。そしてとても強い。きっと全てを良い方向に導いてくれる」

「違う、ギリアム、俺は!」

 反論しかけたゴドーを、ギリアムが強い視線で制す。

「貴方には貴方の意思がある。それは、重々承知しているつもりです。もう少しだけ、お付き合い下さい。明日、妹に逢って…それから、この旅を続けるか否かをご決断下さいませんか?もし、この国を出ると言うのなら、そのときはお引止めいたしません。意に染まない任務など、放り投げてしまって結構です」

 ギリアムは目を伏せる。長いまつげが、目元に陰をつくった。知り合ってはじめて見る、悲しげな表情だった。
 
 妹を思う兄。ただそれだけではない。ギリアムの奥底には、別の真意が隠れている。何かまでは分からない。

「俺は…」

 ゴドーが口を開きかけたとき、再び邪魔が入った。俄かに階下が騒がしくなったかと思うと、一人の男がゴドーたちの前に現れた。余程急いで来たのか、肩で息をしているその男は、ゴドーを見据え、抜刀した。

「お前か!俺のジリオンを奪おうってのは!」

 その男は口元を布で覆っていて、聞き取りにくい声で言い放つと、ゴドーに向かって床を蹴る。

「お前の妹は一体何者なんだ!」

 ゴドーは腰の剣を抜きながら、ギリアムに問う。次の瞬間にはゴドーの喉元を狙ってきた剣を、ゴドーは寸前で弾いた。男はよろめき、数歩下がる。

「何者、と申されましても。私も長く会っておりませんが、少なくとも小さい頃は、それはお転婆でしたよ」

 のんびりと懐かしそうに言って、ギリアムは扉を閉めた。中から鍵の掛かる音がする。

「ギリアム、てめえ!知らん振りを決め込むつもりか!」

 ゴドーは身構えつつ、物言わぬ扉に悪態をついた。そうしている間にも、男は再び向かってくる。防戦一方ではいられなそうだ。だが、わけも分からずに命の遣り取りは出来ない。そう思っているせいか、完全に実力を出し切れていなかった。

「ふざけるな!俺ごときに本気は出せねえっていうのか?」

 男は勝手に逆上する。ゴドーは構わずに凪いだ心で剣を交えた。一合、二合…金属のぶつかり合う音がするごとに、ゴドーの心は鎮まる。先刻の酒場での一件や、ギリアムとの遣り取りのほうが余程疲れる。

 ゴドーの神経は静かに研ぎ澄まされていく。相手もなかなかのものだ。まともに受けると剣を持つ手に痺れが走った。力加減が難しい。しかし相手は徐々に圧され後退する。宿の通路は狭く、長く戦うのには向かなかった。相手も同じ事を思ったらしく、小さく舌打ちすると、手近な部屋の戸を思い切り蹴って開ける。ゴドーも後を追った。

 狭い室内から、風が吹いてくる。この場に不似合いな、花の香りを含んだ春風だ。

「今日のところは引き上げる。だが、覚えておけ、ジリオンは渡さねえ!」

 風は男が開けた窓から吹き込んでいる。戦い動くうちに口元の布は緩み、外からの月明かりが男の顔を照らす。

 顔立ちの整った男だ。同じ美しいでも、ギリアムは本人が『女のような』だが、この男は『女が放っておかない』甘く危うい魅力を持っている。赤の強い茶色の目は、怒りに燃えていた。

「俺は、アスト。キハンの盗賊、アストだ。いいか、忘れるなよ」

 突然襲ってきた男…アストは一方的に名乗りゴドーを指差すと、窓の外に消えた。少し後に馬のいななきが聞こえた。

 ゴドーは追わず、ため息混じりに剣を収める。

「全く、とんでもないところだ、ここは」

 やたら好かれる風変わりらしい姫と、旅の始めのころ耳にした盗賊と。

 …疲れもする、悩んでもみた…だが、それ以上に気持ちが湧き立ってくる。

「まあとにかくもう少し、付き合ってみるか」

 今は何も考えられないと言うのが、正直なところだが。ゴドーは艶のない金髪をくしゃくしゃとかき回すと、窓を閉めた。ぱたん、と音がする。その音こそ、ゴドーの運命を決定づける音だったのかもしれない。彼の気ままな傭兵としての人生は絶たれた。重大な運命は常に、何気ないものにひそんでいる。


 とにかく、明日だ。明日、身の振り方を決めよう…。

 漠然と考える。けれどゴドーの運命に、もう選択肢はない。


 ***


 キハン州候の城は、『槍城』と呼ばれる。ちょうど矢じりの先のような形をしているからだ。切り立った崖の岩肌を利用して、その城は建っていて、山の形に合わせて上階は細く尖っていた。槍城の裾に、エトツの街がある。街に面した側は、どの階も広い回廊で、城下がひと目で見渡すことができた。

 ゴドーは回廊から街を見下ろす。鉱山の街らしく、所々に深い人工の谷を有する街は桜が盛りで、春霞に煙って見える。昨日酒場に居たいかつい男たちが住んでいる街には思えない、ふわふわと綿菓子のような風景だ。

「夜に嗅いだ香りは、桜だったのだな」

 桜の色は、ゴドーを和ませる。昨日は街を見る余裕など無かった。きっとこれからも無いだろう。少し、残念に思う。だが今は、早く自身の先行きに決着をつけてしまいたかった。

 隣国カルハナとの小決戦に圧勝したキハン州候・セト老は、早朝まだ日が昇らぬうちに帰還した。しばしの休息のあと、ゴドーとの面会に応じてくれるという。ちなみにギリアムは此処に居ない。昨日の宿に残って、何通目かの手紙に取り掛かっているはずだ。

「一体、誰に何通出すんだ?」

「とりあえず無事キハンに着いたことを。王都の父と兄、ミルレットに。それと別件でもう一人の友人に。私はこのあと街で手紙を出して参りますので、先に行って下さい」

 今朝、呆れてゴドーが聞くと、ギリアムは書面から顔も上げずに答えたものだ。

「全く、王の使者はそもそもアイツだろうが。どうして俺が」

 ほんの少し、愚痴を言いたくもなる。妹に逢うのが先だと思うが、ギリアムの思考はよく分からない。

 妹に逢うまで、とギリアムは言った。姫に逢ったところで、何が変わるのか、ゴドーには見当もつかない。ただ、昨夜の男たちといい、アストといい、それだけ好かれる姫なら、一度話してみたい。純粋な好奇心はあった。先に待つ姫の運命については、あまり考えないようにしている。

「お待たせしました、ゴドー様。セト様があちらでお待ちです」

 侍女が一人、ゴドーに頭を下げ、先に立ち案内する。石でできた青銅色の床は鏡のように磨かれていて、靴音を小気味よく響かせた。

 少し行くと両脇に衛兵の立つ扉がある。ゴドーを見ると、無駄のない動作で敬礼した。王宮の衛兵達よりもきびきびとした動作だった。

「セト様、ゴドー様をお連れしました」

 そう言って、侍女は下がる。石を基調にした建物は、ひんやりとおごそかな独特の空気が流れている。窓は天井の近くに丸く大きく設けられていて、意外に明るかった。

「お初にお目にかかる、ゴドー殿」

 そこは王の謁見の間を小さくしたような部屋であった。入り口から伸びた赤い敷布の先は一段高くなっており、背もたれの高い石造りの椅子に毛皮を敷き、小さな老人が座している。室内にはセトとゴドーの二人だけだ。

 老人は普段着らしい萌黄色の長衣姿で頬杖をつき、足を組んでゴドーを睨んでいた。短い髪、太い眉…口元の髭も全て真っ白なのに、黒い瞳には力が漲っている。ゴドーがこの国に来るまでは、武勇でこの国一番と言われた男だ。眼光は鋭い。

 どうやら、歓迎はされていないらしい。ゴドーは腹に力を込めると、武人らしい動作で頭を下げた。

「お目通りいただき、感謝する。既に王からの使いの鳥が着いたと思うが、キハン州候がご息女、ジリオン殿を王の」

 ゴドーが言いかけた言葉を、セト老は手の平を突き出して制した。眉間には、深い皺が刻まれている。

「堅苦しい事は抜きにしようではないか、ゴドー将軍。いや、お互いにただ名で呼ぶことにしよう、よいか?」

「ああ、貴方がそれでいいなら」

 ゴドーの答えに軽く頷いて、セト老は立ち上がり、腰の辺りで両手を組む。

「あの馬鹿に、くれてやる娘は、おらん。あの子は儂の一人娘がした、たった一人の孫…目に入れても痛くないほどに、愛しい孫だ、やらん」

 ギリアムとジリオンは母が違う。セト老にとっての血の繋がった孫というのは、ジリオン一人である。

「セト老、だがこれは勅命だ。どんなに理不尽でも、逆らえば…」

「………分かっておるわ。我が孫もな。あの子は、ジリオンは、動揺など微塵も見せずに、あっさりと承知しおった。自身のことよりも、州の民と、そして儂を想ってくれる優しい子だ」

 ほんの一時、セト老の眉間の皺が怒りではなく哀切を帯びた。ゴドーには、何も言えない。何故なら彼は、奪う側の人間であるからだ。ゴドーが何を言ったところで、この老人の哀しみを軽くすることは出来ない。

「ゴドー、おぬし昨夜、盗っ人のアストに襲われたそうだな」

「ああ」

「あの盗っ人はジリオンに惚れ抜いてからは、このキハンに手を出さずにカルハナで暴れて義賊ごっこをしておる。皆に好かれているようだし、キハンには何の害もないから放っておいたのだが」

「そうだな、それほど悪人には思えなかった、確かに」

 ゴドーが記憶に残るアストの姿を思い出しつつ言う。セト老はゴドーの全身を無遠慮に観察し、深くため息をついた。

「…それにしても傷ひとつ付けられぬとは。全く期待させおって」

「ちょっと待て、何か物騒なことを言ったか?」

 残念そうに頭を振る州候に、ゴドーは思わず聞き返す。が、セト老はそれを無視して、歳相応のおぼつかない足取りで歩き出した。

「儂はこのとおりの老体、早朝に帰ってあまり寝とらんのだ。無理は身体に障るゆえ、少し休ませていただこうかのう。ゴドー殿、とにかく歓迎しようではないか。しばし城内で寛ぐとよい。明日エトツでは桜の祭りもあるから、そう急ぐこともあるまい。是非楽しんで行かれよ」

 急に老人らしい声を出し、わざとらしく腰を叩きながら、セト老は部屋を出て行く。重々しい音をたてて扉が閉まり、一人残されたゴドーは肩の力を抜いた。なかなか難しい老人だ。ゴドーは殆ど何も言えないままに、ごく短い最初の会見を終えた。

 城を自由に、と言われても、特にすることを思いつかないゴドーである。祭りに浮かれる気持ちには当然なれない。何となく先程居た回廊に戻り、外の風景を見る。麗らかに差し込む日光は、窓辺にもたれるゴドーを慰めるかのようだ。

「前途多難とはこのことだな」

 ゴドーは煙草呑みではないが、今ばかりは少し吸いたい、そんなことを思ったときだった。

 視界の端に、白いものが動いた。城より少し下を、白い鳥が飛んでいる。

「白い…鴉?」

 白い鴉は何度か城の近くを旋回し、桜の中に降りていった。それほど広くはない城の庭にも、桜が植えられている。満開の花は、見下ろすゴドーの視界から、白い鴉を隠してしまう。

 ゴドーは庭に出てみることにした。あの不思議な鳥は、本当に鴉なのだろうか?


 ***


 薄桃色の絨毯のうえを、ゴドーは歩く。確かこの辺と思ったのに、不思議な鴉は見当たらなかった。ざあざあと、気まぐれな風は緩急をつけて、花盛りの枝を揺らす。花びらは逆らわずに可憐に散って、絨毯を一層鮮やかにしていく。夢のようなところだ。ギリアムが「キハンの春は美しい」と言っていたが、本当だな。

 庭に出た理由も忘れかけたたずむゴドーの耳に、鴉の短い鳴き声が聞こえた。人の気配もする。

「やっぱり居たのか」

 鳴き声のした方に向かって桜の木の庭をぬけると、唐突に視界がひらけた。

 さわさわと吹く風に、桜とは違う香りが漂う。足元を見れば、色とりどりの花が優しく揺れていた。

「ここは?」

 ゴドーはこんなに綺麗な場所を知らない。花園、とでも呼べば良いのか。

 何かに誘われるように、先に進む。

 どの花も野草のようだ。だが、人の手が入っている。沢山の種類の花が、少しずつ小道の脇を埋めている。人が一人やっと通ることの出来るうねうねとした小道を抜けると、小高い丘があり、若葉を繁らせた木の下に、一人の女が立っていた。その先には、エトツの街が見える。

 ゴドーからは後姿しか見えない。細い身体に簡素な象牙色の、広がりの少ないドレスを纏って、腕に花束を抱えている。腰まである黒髪は緩く編まれていて、後れ毛が風になびいていた。白い鴉は彼女の肩に居て、ゴドーに気付き、威嚇するように鳴いた。が、ゴドーの耳に鳴き声は届かない。

 目が、離せない。瞬きすら惜しまれる。花の香りに酔ったのだろうか。

「ギュイ、そんなふうに鳴いてはいけない。…そう、いい子だ」

 彼女の腕が動いて、肩の鴉をなだめる。長くゆったりとした袖から、白く華奢な手がのぞく。主の手に、鴉は寄り添う。

 ゆっくりと…本当はそうではないのかも知れない。ゴドーの時間だけがおかしくなっているのかも知れない。風も、舞う桜の花びらも。全てがゆっくりと動いていた。

 女が振り返る。だ若く、美しい女だ。夜空色を湛えた瞳が、ゴドーを映す。唐突に現れたゴドーに驚いたのか、白磁の頬が僅かに朱を帯び、薄く小さな紅色の唇が微かに開く。

 誰かに似ている。そう、ギリアムに。では、彼女が。

「ジリオン姫…」

 ゴドーの口から自然にその名前が漏れた。

 突然、逆巻くように風が吹いた。

 この辺りの地面を染めていた桜の花びらが、一斉に舞い上がった。風は一瞬で止み、舞い上がった花びらは、二人のもとに雪のように降りかかる。

 ジリオンは鴉の羽に片手を置いたまま、頭を下げた。その時、彼女の腰に細い剣が差してあるのにゴドーは初めて気付いた。

「キハンにようこそ…ゴドー将軍」

 高い山肌を這うミルク色の霧のような柔らかい声が、ゴドーの名を紡いだ。



 時が、動き出した。たった一つきりの運命に向かって。
 


〈第一章 了〉
 


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