遠くあの空のむこうに

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静かな前触れ


 
 エトツの街一帯に、抹香の香りが満ちている。

 祭りは死者の弔いから始まる。キハン州は隣国カルハナからの侵攻を防ぐ、少数精鋭の軍を有している。彼らは普段炭鉱に出ている普通の男達だ。召集があると兵士として訓練に励み、勇敢に戦う。

 セトが州候になってから三十年近く防戦一方でほぼ常勝を誇るキハン軍だが、いくさは戦、当然死者が出る。それと炭鉱に係わる仕事に従事する者が多いから、落盤などの事故で亡くなる者も少なくない。要は、若くして亡くなる男達が多い所なのであった。

 鉱山の男達は快活で豪胆だ。太く短く生きられれば、という考え方の者が多い。敬愛する州候と姫の下で死にゆくことに少しも躊躇いなどないが、残された家族は悲しむ。

 この祭りは残されたものの為に、セト老が始めた祭りだ。エトツの街を覆うほどの桜は、死者の鎮魂を祈るために焚かれた香から立ち昇る煙で城から見るとやや霞んで見えた。
 
 城の一画、木々に囲まれた石碑前に祖父と孫の影がある。

 朝の冷気の中、風の音だけが聞こえる。石碑は城を構築する青銅色の石と同じ材質のようだ。日の光を反射して、鈍色の光を放つ。ジリオンの背の三倍ほどの幅と高さを持つ堂々とした石碑には、よく見れば細かい文字が整然と刻まれている。亡くなった男達の名である。

 石碑のすぐ前には、深緑の滑らかなマントを付けたセト老、そしてその横にはジリオンが並ぶ。昨日の簡素なものとは違う桜色のドレスを身に着けて花束を捧げ持つ彼女は、一歩進み出て腕の中にある花束を石碑の前に置いた。

 ジリオンはただ黙ってしばらく手を合わせた。先日の戦いで死んだ男達の名はまだ無い。名の無い者達の分まで、ジリオンは祈る。

「お前の丹精した花をここに捧げるのも、今日で最後じゃな…あの庭を見た熟練の庭師が言っておったぞ、『私に姫様と同じことが出来るでしょうか』、と」

 しんみりと、セト老が言う。ごく普通の祖父としての言葉だった。妻を亡くし、娘を亡くし、今度は養女として育ててきた孫を手放すこととなる。ジリオンが婿を向かえ、共に暮らすという小さな夢は、ついに叶わない。

 深く皺の刻まれたセト老の目元に、光るものがあった。ジリオンはそれに気付き、愛する祖父にそっと寄り添った。

 澄んだ鐘の音が風にのって聞こえてくる。

 鐘は死者へ思いを馳せる時間の終わりを告げる合図だ。ここからは、生者のための楽しい祭りとなる。

「……主催者がこれでは、皆も楽しめぬな…どれ」

 セト老はジリオンから離れ、マントを翻した。祭りは二日間続くが、セト老が主催者として顔を出さねばならぬ催しが幾つかある。

「あの、じじさま、お願いが」

 ジリオンはセト老の小さな背に声をかける。セト老には孫の願いが何かは分かっている。願いは毎年同じで、セト老は却下し続けているからだ。幾ら可愛い孫でも…いや、可愛い孫だからこそ、聞けぬ願いがあるというものだ。

「儂に叶えられる最後の願かもしれぬし、叶えてやりたいが、それだけはダメじゃ」

「普段から似たようなことはしているし、皆も知って…」

「ダメなものはダメじゃ。物事には時と場合がある。跳ね返りもいい加減にしておけ、よいな」

 可憐で物静かで、花を育てるのが趣味…そこまでの姫ならば良かったのだが。と、思いながらも、セト老はジリオンには見えないように口角を上げた。

(その『姫』に有るまじき特技があるからこそ、我が孫だ)
 
 勿論、自分の血を継いだその特技も愛しい。誇りに思っている。が、遊興ごとで観衆に晒すのは、どうしても嫌だ。

 繊細で複雑な祖父ごころ、なのであった。

 ジリオンは追いすがることなく、城に戻る祖父を無言で見送る。いつも素直な孫は、祖父に悪いと思いつつ、今回ばかりは強引に望みを叶える覚悟である。

 こうなれば、自分でどうにかするしかない。

 手始めに、これから再会する兄を味方につける事にした。州候に目通りを終えたギリアムは、ジリオンの私室で待っているはずだ。女官たちが騒いでいた。自分に良く似た美男だと。美男かどうかはどうでもいいが、この場合、似ていることが重要だ。

 ジリオンはひとり頷き、胸の前でぐっと両手を握り締めた。姫の小さな企みは、こうしてはじまる。



 …そして、小一時間後。

 キハンの『槍城』の一室で、十数年ぶりの再会を果たした兄妹が抱擁を交わしている。

 窓から差し込む春の陽は、二人を祝福するかのように包み込む。

 その情景は一枚の絵画のような…比喩ではなく、よく似た美しい容貌をもつ二人の間には感情の動きは感じられない。兄妹は内面を表に出すのが不得手だ。変なところが似ている。

 二人は、静かに身を離す。群青と漆黒の瞳が見つめあった。

「幼い頃に蛙を振り回していた女の子が…随分と淑やかになったものです」

 群青の瞳をもつ兄が、妹を感心したように見下ろす。

 漆黒の瞳をもつ妹は、兄を見上げ軽く握り合った手を離した。

「手紙の遣り取りがあったからだろうか。久しく会っていないのに、そうでもない気がする。父上とレサルド兄上はお元気か?」

「二人とも元気ですよ。それにしても、その話しかた…まるで武人だ。どうやらお転婆は治っていないようですね。話さなければ、たおやかな淑女なのに。お祖父様の血が濃いのだろうか」

 ギリアムが言う。勇ましい例えをされてもジリオンは特に抗議せず、窓辺に寄り外に向かって手を伸ばした。すると、待ちかねたように白い鴉がほっそりとした腕に乗る。

「ギュイ、紹介しよう。私の兄だ」

 白い鴉は主の兄を胡乱うろんな目つきで見て、つい、と目を逸らす。

「…主に似て、無愛想な鳥ですね」

「それはお互い様だろう、兄上」

 仲が良いのか悪いのか分からない短い会話のあと、ジリオンは何かを言いかけ、逡巡しゅんじゅんし口を閉ざす。俯くと、長い黒髪が揺れた。

「どうしました?」

 ギリアムが問うと、少しの間のあとジリオンが思い切ったように顔をあげた。

「欲が、出た。ゴドー様にお会いして」

 ジリオンの話し方はぶっきらぼうで要領を得ない。幼い頃から口より早く行動するたちだったが、そのまま育ってしまったようだ。虚弱な母を早くに亡くし、祖父に育てられたことで、その性質は更に強まっているように、ギリアムには思えた。

「ジル、欲とは?」

 兄の問いに、ジリオンは口にした短い言葉を後悔するように小さく頭を振った。ギリアムは辛抱強く返答を待つ。

 沈黙の流れる中、ギュイが先を促すように羽を動かした。幼鳥の頃からジリオンが育てた白い鴉は、常に飼い主の味方だ。ジリオンはギュイをひと撫でし、意を決して兄を見る。

 久しぶりに逢った兄に、不躾な願いは重々承知だ。兄には悪いが、最初で最後と我慢してもらうことにする。
 
 ジリオンはゆっくり口を開いた。

「ぶとうかい、に、でたい」
 
 ギリアムが何とか聞き取れるほどの消え入りそうな声で言う。少なくともギリアムの耳にはそう聞こえた。

「ふふ、可愛らしいことを。お転婆のジルも、やはり娘らしい望みがあるのですね。王の元に行ってしまえば、窮屈な日々ですからね。…少しの間は、ですが」

 含みのある兄の言葉など気にも留めず、と言うより聞いてはいず、ジリオンはドレスのひだを弄りがら更に続ける。

「だから、兄上に協力してもらいたい。毎年じじさまにお願いするのだが、いつも良い返答をいただけぬ。機会はあと一度きりだ、もう兄上の力を借りるしか…」

 妹の必死の様子は、兄の目に微笑ましく映る。

(…踊りたい相手でも、居るのでしょうかね?それがどうやら、あの方だと)

「お相手は、ゴドー様ですか?」

 念のため聞いてみる。するとジリオンは、頬を染めた。

「兄上の書いたあの方の冒険譚が、好きなのだ。こんな機会、二度とない」

 これはよい傾向だ。というより、それをギリアムは望んでいる。全てを諦めたかのようなゴドーの心を、ジリオンが溶かしてくれるなら。

 ダンスの手ほどき、礼儀の講釈。博識のギリアムには、どれも容易たやすい。妹の願いに応えることは、ギリアムの大いなる目的の為に有効に働くと思われた。
 
「いいでしょう、可愛い妹の頼みとあらば」

 二人の会話は、通じているようで実は全く別方向を向いている。会話が噛み合っていたのは、ちょっとした奇跡だ。と、ギリアムが気づくのは、ほんの少しあとの事。

 このことは、常に物事の先の先まで考え行動する賢しい彼にとって、軽いトラウマとなる出来事に発展していくのだった…。

 

 ***


 
 靴が、降ってきた。

 薄桃色の、華奢で可愛らしい靴である。靴はゴドーの頭に当たり、石畳の上に落ちた。ゴドーは屈んで靴を拾い、当然の反応として上を見る。見上げた先には石造りの壁があって、今まさにそこをまたごうとしていた靴の持ち主から、短く小さな悲鳴が漏れた。

「…そこで何をしておられる、ジリオン姫」

 昨日の飾らない姿とは違う。靴と同じ色の、柔らかそうな生地のドレスを着ている。腰には剣の代わりに紅く細い飾り紐が結ばれていた。もし桜の精というものが存在するとしたら、こんな姿ではないだろうか、とゴドーは思う。

「街に用があるのです」

 手を貸そうかと迷ったが、ジリオンは驚くほど軽やかにゴドーの前に降り立つ。

「靴を、返してもらってもよいか?ではない、よいでしょうか?」

 畏まった言葉遣いが苦手なようだ。逆に兄ギリアムは嫌味なほどへりくだるから、その対比がゴドーには可笑しい。

「もっと気軽に話してもらっていい。俺はその方が楽だ」

 言うと、ジリオンの肩から力が抜ける。祖父に似たのか、小柄なジリオンの背丈はゴドーの胸ほどで、覗き込むでもなく綺麗な鎖骨がよく見えた。思わずゴドーは目を逸らす。

「そう言って貰えると、助かる。では改めて、靴を貰ってよいか?」

 女にしては珍しい、そっけない物言いである。

 差し出された白い手に、ゴドーは「ああ」と言いつつ靴をのせた。ジリオンの仕草は全て優雅で流れるようだ。靴を履くため身を屈めると、纏めた黒髪が一筋解れて頬に掛かる。

 ここは城の裏手で、二人の他に人影は無い。ゴドーがなぜここに居るのかと言えば、ギリアムがやってきて時間を持て余し気味のゴドーに、

「お暇でしたら、城の裏手に行かれては如何でしょう?面白いものが見られますよ」

と言ったからだ。更に、「仕返しです」と意味不明の呟きが続いたが、特に聞き返さなかった。旅の連れの台詞を聞き流すスキルを習得しつつあるゴドーである。

 確かに、見られた。『姫が塀を乗り越える光景』はそうそうお目にかかれるものではなく、ゴドーには微笑ましく思えた。

 昨日出逢ったときから、妙に心に残る姫だ。一風どころか、強風クラスの変わった姫である。昨日は二、三言儀礼的な会話をしただけだったから、もう少しよく話をしてみたいと思っていた。セト老からは、この祭りが終わるまでに気持ちを整理したいと言伝があった。祭りが終わるまでの二日間、どうせ暇ならゆっくり楽しむしかあるまい。

 にしても、表門から堂々と出れば良いのではないか。と、ゴドーはジリオンが越えた塀を見る。

「何故こんな所からとお思いだろうが…祭りに用があるのだが、表には少々邪魔な者が居座っていて、出られないのだ」

 困ったように言い訳して、ジリオンは小さな巾着から目元を覆う仮面を取り出し、当たり前のように目元を覆う。そうすると、なにやら謎めいた雰囲気になる。

「仮面をつけることになっている祭りなのか?」

 どちらからともなく、連れ立って歩く。二人は自然に一定の距離をとっていた。ジリオンの歩調は女にしては早いほうだ。きびきびと姿勢よく歩く。

「し、してもしなくても良いのだが、今日は私だと分かると面倒なので」

 街へと続く坂道を下る。ジリオンが言っていた『厄介者』が居る城の表門は当然避けた。ジリオンは普段から街に出ているのか、迷わず歩いていく。

 祭りとは総じて訳もなく心浮き立つものである。桜の花びらが町中に舞い、其処此処そこここにテーブルがしつらえられ、人々が酒を酌み交わし、軽快な音楽に合わせて歌う。露店や見世物は僅かで、本当に地元のざっくばらんな祭りのようだ。若い娘達はジリオンのように桜色の服を着ている。仮面をつけているものも多く居るが…何か意味があるのだろうか。

「おう!傭兵将軍じゃねえか!一昨日は悪かったな、まあ飲んでくれよ」

 突然肩を掴まれ、振り返ると酒場兼宿屋の店主がゴドーに酒を押し付ける。なみなみと酒の入ったジョッキは勢いで直ぐに溢れたので、ゴドーは慌てて口を付けた。

「って、将軍!女連れかあ!仮面は恋をしている目印なんだぜ!手が早ええな、やるじゃねえか!けどウチの姫様には間違っても手ェだすなよなっ!」

 店主のごつい手が、遠慮なくゴドーの背を叩く。勢いで酒が盛大に零れた。

「こ、恋?…俺が?」

 冷やかしの対象を見れば、こそこそとゴドーを盾に隠れて、慌てて頭を振っている。『違う』と言いたいらしい。

 一生懸命否定する仕草がおかしくて、ゴドーは笑いを堪えて咳一つで誤魔化した。
 
 周りの酔っ払い達の目も、一昨日と違って妙に優しい。ギリアムの演説が効いたのか。だが、ここに隠れているのがジリオンだと知ったら、袋叩きは確実だろう。

「なあ、将軍は止めてくれないか。ゴドーでいい」

「んなこと言うなよ!将軍は俺たちの期待の星だからな!姫様を宜しく頼むぜ?」

 どうなるか分からなくても、とにかくゴドーがどうにかしてくれると思っているらしい。一体どうしろというのか、まさか攫って逃げるわけにもいくまい。

 だが確かに、控えめなようで大胆だったりするこの姫を、王に渡すことに疑問は感じてもいた。

(あの王には、この姫の魅力が分かるだろうか)

 王は受身一方の、人形のような女が好みと聞いた。幾ら美しかろうが、剣を腰に差し、自らこうして城を抜け出す姫を大事にするだろうか。

「…ゴドー様」

 考え事に集中したせいで、このまま酔っ払いの中に引き込まれそうになっているゴドーの腕を、ジリオンが軽く叩く。

「そうだ、用があるんだったな」

 ゴドーは酔っ払いたちに「わりいな」と片手をあげ目配せすると、ジリオンの手を引いた。駆け出す二人の背に、「うまくやれよ、将軍!」と言う声が追いかけてくる。

 ジリオンの向かう先には、広場があった。その広場には四方を囲むように階段状の客席がある。明日、催し物でもあるのだろうか、至る所で大工仕事のような音がした。入り口の門には簡単な受付所が設けられており、人だかりが出来ている。ジリオンは躊躇いなくそこに入っていく。

「ジリオン姫、本当にここに用があるのか?」

「ゴドー様、名で呼ぶのは止めて欲しい。…ここで、良いのだ」

 ジリオンが唇に人差し指を当てて辺りを見回す。ゴドーの疑問はもっともで、辺りにいるのは、身体が大きくいかにも力自慢の者達ばかりだ。女性も居るが、控えめに見ても随分力がありそうな者が多い。華奢なジリオンは明らかに浮いていた。

「ゴドー様はここで待たれよ。直ぐに戻る」

 言い置いて、ジリオンの姿が人込みにのまれていく。潰されてしまわないだろうかと、ゴドーは落ち着かないまま待つことにした。



 ***



 場違いだと思ったのは、ゴドーだけではない。ジリオンが目的の場所である受付場所まで来たとき、受付の男も同じ事を思った。周囲の男達も同様にジリオンを見ている。視線を集める当の本人は、数年越しの念願を目前に胸が一杯で、視野が思い切り狭くなっていた。

 嬉しそうに受付用紙に記入するジリオンに、受付の男が念のために声をかける。

「お嬢さん、本当に申し込むのか?何か違う催しものと間違ってやしないかい?」

 言われてはじめて自分の状況に気づいたジリオンは、少し焦る。

「いや、その、兄と兄の友人に頼まれて、代わりに」

「そうかい、そうだよなあ。お嬢さんみたいなコには無理だからな。早とちりして悪かった」

 受付の男は、ほっとした表情でジリオンがたった今書いた名前を目で読む。そうしている間に、ジリオンは素早くその場を後にした。

「…って、お嬢さん!この名前!」

 受付の男が慌てて顔をあげたときには、目の前にいるのは『お嬢さん』とは程遠い、いかつい男だった…。

 人の波に完全に埋まってしまったジリオンは、器用に隙間を縫って歩きながら、つい緩んでしまう頬を押さえる。ここを離れることや、祖父のこと、夫となる王のこと。不安なことは山積みだ。けれど一つ、願いを叶えて行ける。しかも最高の形で。それ以上は何も望むまい。

 沢山の人の行き交う向こうに、落ちつかなげにこちらを見るゴドーの姿がちらりと見えた。周囲より頭一つ以上背の高いゴドーが、背伸びをするようにしてジリオンを目で探しているのが分かった。ジリオンは足を速めようとして、突然後ろから腕を強く引かれた。

「ジリオン!探したぜ」

 次の瞬間には、男の腕の中に居た。この祭り、先程酒場の店主が言ったように、独身の者達にとっては恋の祭りでもある。軽く抱き合ったりする男女は珍しくもなく、ジリオン達の隣を過ぎ行く者たちも、羨ましそうな煩わしそうな目をちらりと二人に向けるだけだ。

 一瞬の驚きのあと、腕の中から逃れようとするジリオンを更に強く抱くのは、アストである。

「城の前で待ってたんだぜ、裏から出るなんて、ひでえじゃねえか」

 耳元で甘く囁く声。ぞんざいで粗野な口調は熱を帯びている。見ればアストもジリオンと同じように黒の仮面で目元を覆っていた。ジリオンのように顔を隠したいのではない。祭りに参加する他の仮面の者達と同じ、純粋に恋の証としてつけている。仮面の向こうの紅茶色の瞳は、ジリオンを映して潤んで見えた。

「相変わらず、軽いことを言う。そうやって街の娘達を何人泣かせた?」

「人聞き悪りいな。俺の本気はジリオンのものだ…他の女たちは、成り行きの付き合いさ。ジリオンさえ手に入れば、他は何もいらねえよ。王のものなんかにさせねえ」

 熱い告白をあっさり聞き流して、ジリオンは無理に顔を逸らし、ゴドーの居るほうを見遣る。

「アイツが気になるのか?」

 ジリオンの視線の先に気づいたアストの腕に、また力がこもる。ジリオンは息苦しさに顔を歪めた。物理的要因のみの表情の変化を、感情からくるものと勘違いしたアストは慌てた。

「何でだ?アイツはジリオンを攫っていこうとしている王の犬じゃねえか!ああ、そんな顔するなよ、俺まで悲しくなっちまう!ジリオンの願いは知ってる。おしゃべりな女官に前に聞いた…おっと、何処で聞いたかは聞かないでくれよ?とにかく、だからここにいるって見当がついたんだ。願い事は全然女らしくねえ、だが、そこがジリオンらしさだ。けどよ、なにもアイツじゃなくても」

 そこまで言ったアストの足を、ジリオンは思い切り踏みつけた。アストの呻きとともに、腕の力が緩む。

「悪いが、そなたの繰り言には付き合っていられない」
 
 ジリオンは走り出した。何となく嫌な予感がして振り返れば、アストの口がジリオンの名を叫ぼうとしていた。周囲に自分が居ることが知れるのは面倒だったが、戻ればもっと面倒なことになる。ジリオンは構わずにドレスの裾を摘まんで、速度を上げた。

「…ちぇ、ひっかからねえか」

 アストは軽く笑って頭を掻いた。無理矢理とはいえ、抱き締めたのは初めてのことだ。今日のところは欲張るまい。だがきっと、手に入れてみせる。一人の女にこんなに執着するのは、恐らく最初で最後だ。そんな予感がする。

「俺は諦めねえぞ、ジリオン」

 言葉とは裏腹に、アストの表情は明るい。ジリオンの感触が自分の身体に残っているのが嬉しかった。好きな女の温もりが消えないように、酒でも飲もうと思う。アストは鼻歌交じりに酒場へ向かった。



 ***



「申し込みできた。上手くいった」

 結構な勢いで走ってきたジリオンは、ゴドーの所で止まり息をつく。胸に手を当て息を整えると、ゴドーを見上げて微かに笑む。埃っぽい人込みを歩いたせいか、桜色のドレスの裾は少し白っぽくなっている。

「それは良かった。で、何に申し込んだんだ?」

「…………それは、明日になれば分かる」

 言葉を濁すジリオンだが、表情は依然明るい。

 不幸せな婚儀への罪悪感からくるのか、ジリオンが笑ってくれるのがゴドーは嬉しい。周りから聞こえてくる音楽が、その気持ちに拍車をかけた。

 バイオリンの、テンポの速い軽快な音楽だ。見れば、繊細な楽器など不似合いな腕に刺青をした青年が、気持ちよさそうにバイオリンを奏でている。青年を中心に十数組の男女が、くるくると踊っていた。

 ゴドーとジリオンはしばし立ち止まり、いかにも楽しげなダンスの輪を見ていた。仮面を着けた者、着けない者。老いも若きも、本当に楽しそうに踊る。

 リンシュルの街といい、このエトツといい、王の圧政というのは現実だろうか、とゴドーは思う。
 
 ゴドーは色々な国を傭兵として渡り歩き、幾つもの戦場を見てきた。女神シンラが創り給うた世界は安定とは程遠く、いつも何処かで戦争が起きている。明君が続き安定しているこのリュート国は、安寧を続ける稀有な国の一つなのだ。
 
 国がどんな情勢でも、民とは辛い中に何か楽しみを見つけて慎ましい生活を営んでいく。僅かな養分で生きる雑草のように逞しい。平和が続くリュートでは尚のことである。目の前で踊る人々の衣装も、粗末なものを工夫してこの日の為にあつらえたのだろう。娘達は頭に生花を飾っていて、充分にあでやかだった。

(だが、王がこのままの散財を続ければ、どうなるか分からない)

 雑草にも限界があり、太陽である君主がギラギラと照り続ければしおれて枯れる。

 …何年後か分からないが、人々から笑顔が消えて、この美しい桜が枯れてることがあるのだろうか。

 王が悪いと何故か気候も悪くなることが多い。悪い事とは、重なって起こるように出来ている。ありえない事ではない。ゴドーの目の前の光景が、一瞬だけ陰惨なものに変わる。恐ろしい白昼夢に、ゴドーは強く目をつむった。

「皆、幸せそうだ」

 ジリオンが言う。目はダンスの光景に向けたままだ。その声でゴドーは我に返る。

「そうだな、見てるこっちまで楽しくなる」

「私を連れて行ってくださる貴方には、言っておきたい」

 唐突に言って、ジリオンは一度ゆっくりと瞬きをした。

「ゴドー様、私はどうせ王の元に行かねばならないなら、皆が幸せな暮らしを営めるようにご進言申し上げようと思う」

 いつの間にか、二人の影は背の倍ほどに長く伸びている。ジリオンはゴドーに視線を向ける。夜空色の瞳が、強い決意に輝く。

「私はキハンでとても幸せに暮らせた。キハンの外のことは、何も知らない。けれど、世間知らずだからといって、何もしなくてよいわけではない」

 ジリオンの白い手は、ドレスの襞をぎゅっと握っていた。その手は決意の証のように、ゴドーには見えた。

「何故、俺に?」

 何故、暗君と言われる王の元へのいざない手である自分の脇に平然と居られるのだ。何故、俺に秘めた決意を語る?頭に次々と浮かぶ疑問は、ゴドーの心を締め付けた。

「…よく分からない、でも、私は貴方をずっと前から存じている。兄が書いた物語は、私も読んだ。貴方の物語がとても好きだ。ずっと前から、本物の貴方に会ってみたかった」

 好き、と言ったのは物語のことだ。ゴドーは自分を演じるミルレットの姿を思い出す。物語の俺は、俺とは違う。だが…。

(なんなんだ、このせり上がってくる鬱陶しい感情は!)

 会ったばかりの姫に、急激に惹かれていく自分が憎らしい。この想いは破滅に通じているというのに。

「俺に、何か出来ることはあるか?姫が妃となれば、俺は臣下だ。貴女を護るための、今の職だ。何でも、言ってくれ」

 違う、言いたいのはこんな事ではない。ゴドーの胸に、大きくわだかまるものがある。
 
 俺の剣は、貴女の為に捧げよう。例え世間知らずだとしても、自分を置いて他の大事なものの為に王の元へ赴く、優しい姫のために。それが、俺に出来る罪滅ぼしだ。深く考えずに、任務を引き受けた俺の。

 否、それは奇麗事だ。本当は俺の隣で…。

 認めるわけにはいかない、分かっている。だが、ゴドーの心は昨日の桜吹雪の中で何かに囚われた。

 向き合う二人のそれぞれの心に、悲壮な決意がある。夕暮れを告げる冷たい風が、二人の間に吹いた。

「おう!なんだ将軍、ひでえ顔しやがって!この嬢ちゃんと喧嘩でもしたか?しょーがねえなあ。そんなときはな、踊って仲直りだ、ほれ!」

 またも出会った酒場の店主は好い具合に酔っていて、大きな手で二人の背をダンスの輪に向かって強く押した。不意をつかれた二人は、押されるままによろめいて、弾みでお互いに手を取り、照れくさそうに笑いあう。ゴドーは心の深いところから溢れ出そうとする想いに、急いで蓋をした。

「まいったな、俺はダンスは苦手なんだ」

 丁度、曲が終わる。バイオリンを弾く青年が「皆、次はもっと早くいくぞー!」と声を張り上げ、弦を構えなおす。

 尻込みするゴドーの前で、ジリオンはドレスを摘まみ、ゆっくりと優雅に頭を下げ、これ以上ないほど美しい笑みを浮かべた。夕日の色が彼女の姿を際立たせ、ゴドーの目に焼き付ける。

「せっかくだ、楽しまねば」

 ジリオンはそう言って、ゴドーに向かって手を差し出した。

 きゅっ、と一度、合図のようにバイオリンが短く鳴って、青年が音楽を奏で始めた。

「俺に足を踏まれぬよう、気をつけてくれよ!」

 冗談ではなくゴドーが言って、ジリオンの手を取る。その瞬間、ゴドーの耳に聞きなれない音が聞こえた。

 ごうん、と地の底から湧き上がるような音だった。下手ながらステップを踏もうとしたゴドーの足が止まる。

「どうかされたか?」

 ジリオンが不思議そうに首を傾げた。ほぼ同時に、大地が揺れた。

 それは踊ってはしゃぐ人たちは気づかないほどの小さな揺れで、気づいたのはゴドーとジリオンだけである。

「地震か、この辺りには休火山もあるから、噴火の前触れでなければよいが」

 ジリオンが言うが、恐らくそういったたぐいではない。ゴドーの戦士としての勘が、違うと言っている。首筋がちりちりとざわめく。

 もっと、何か…地の底の深いところから…。

 自分の感じた『何か』を感覚で追求しようとするゴドーの背から、またお節介焼きの酔っ払いの声がする。

「まだ踊ってねえのか!将軍!ほれ、彼女が可哀想だぜ!」

 まだ居たのか、酒場の店主。振り返れば仲間たちと冷やかしの指笛を鳴らしている。

「ったく、なんなんだ全く。あー、えー…では、姫。お手柔らかに頼む」

 仕切りなおして、ゴドーはジリオンにこの場を任せることにした。

「ふふ、この音楽だ。手加減できるか分からないが」

 ジリオンが悪戯っぽく言う。

 音楽は一層激しく早くなる。この世の楽しいことだけを集めたような音楽と、華麗に舞う娘と、そしてそのパートナーの滑稽なステップは、長い時間に渡って祭りを盛り上げた。


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