遠くあの空のむこうに

前のお話 次のお話 目次


姫の望む戦い


 
 キハンで微かに感じた大地の揺れは、ゴドーが思ったとおり自然が起こしたものではない。震源地は王都で、ぐにゃりと地が波打つような奇妙な揺れを誰もが感じることが出来た。大きな揺れではなかったが、直後に多くの赤ん坊が泣き、犬猫が毛を逆立てた。

 王宮の地下、か細い蝋燭ロウソクの明かりにひっそりと照らし出されるドルトーネの姿がある。

 暗い、今は使われていない牢のある塔の更に暗いところ、地下へと続く螺旋階段を降りると、陰惨な匂いの漂うこの部屋にたどり着く。黒々とした石壁はよく見ると濃淡があり、濃いところは赤が混じっていた。その赤が、ねっとりとまとわりつくような匂いのもととなっている。数年前までは荘厳といってもいいほどの独特の空気を持っていたこの狭い部屋を、ドルトーネは短期間で真逆のおどろおどろしい雰囲気を放つ部屋へと変えてしまった。

御身おんみの回復が順調のようだ…」

 ドルトーネは歓喜に震えそうになる腕で、己を強く抱いた。

 先程の、まるで水底から泡が湧き上がるような鳴動めいどうは、『御方おんかた』の苛立ちである。フェニテ川がゆっくりと運ぶ『彼の御方』の身体は、まだ揃わない。不完全な状態でも彼は陰の力に満ち溢れ、「外へ出せ」と地中深くから訴え、障害となる『宝剣』を退けろと命じてくる。余りにも強い陰の波動は、ドルトーネに頭痛を起こさせる程だ。

(しばし、お待ち下さい。宝剣は、必ず排除いたしますゆえ…)

 ドルトーネは忌々しげに、その部屋の中心の台座に刺さった一振りの剣を見た。かつて白銀に輝いていた刀身はさび色に濁り、幾つかの宝石を散りばめた柄もまた同様に曇っていた。

(これだけ罪人の血で汚しても力を失わないとは…流石はシンラの宝剣)

 女神シンラは人の血をいとう。何故なら人は全て、彼女の死んだ息子・トリスの子孫だからだ。シンラの力を弱めるには、これが一番早い。同時に地中に染みる血は、『彼の御方』の復活の糧となる。…彼もまた、トリスの血に連なるものである。

 この国の成り立ちは、父から聞いた。どんなに才気があっても、ドルトーネは日陰を生きるしかない立場に生まれている。そのことを憐れに思ってのことだろうが、安っぽい同情が、国を揺るがすことになろうとは。

 ドルトーネは少年時代の一幕に思いを馳せる。

 彼と母の家は、王都の隣の州・マリョーリャのうら寂しいところにあった。父の計らいで王立学園に入学してしばらく経ち、休暇に家に帰った時のことである。数年ぶりに母を訪ねた父は、迎えに出た母を愛しげに抱き寄せた。

 ドルトーネの母は、農民の娘という低い身分に不釣合いの美しさを持って生まれた。本人の控え目な性格を置き去りにして彼女の評判は一人歩きし、父に見初められたまではまあいい。母は余りの身分の低さに側室と認められず、ひっそりと囲われることになった不幸な女である。母は父に愛されることに必要以上におののいて、与えられた屋敷から殆ど外へ出ずに生きた。

 この日も、母は父の胸にもたれながら、小鳥のように震えていた。豪奢な服を着ても、中身は田舎の農民の娘のままであった。ドルトーネは卑屈なまでに控え目な母が鬱陶うっとうしかった。そしてその母を宝のように扱う父も、好きになれなかった。

 両親に向けた感情は、彼の顔に出ていたのだろうか…この日、父は夕食後の酒を楽しみながら、おおやけに出来ぬ息子を呼び寄せた。外は激しい雷雨だったように記憶している。

『ドルトーネ、そなた、学園で神話の研究をしているそうだな』

 確か父は、そんな前置きをした。ドルトーネはそれに黙ってうなずいた。父は深くうなずき返し、『血がそうさせるのか…』と顎のひげを撫でた。

『賢い我が息子よ、これから語ることは我が血筋にのみ伝えられる砂漠の成り立ちの話だ』

 絶対に他言はしてはならぬぞ、と言い置いて息子の銀の髪を撫でながら父は語った。王都が砂漠に隣接している本当の理由、緑溢れる大地が突然切り取ったように砂漠となる理由。そして、宝剣の在りかと、砂漠に住まう不死の女王の役目を。とうとうと語る父は、黙って聞く息子の氷色の目に、暗い色が宿ったことに気づいたろうか。恐らく、気づいていなかったろう。

(いや…違う)

 父は賢い人だ、それは認める。気づいていたのだろう。その証拠に、自分の血筋にだけ伝えると言っていた話を、聡明と誉れ高い『王の相談役』の次男にも話した。息子の暗い願望を止める役に、父は同年代のギリアムを選び出した。ギリアムが家にこもった時期は、それより少しあとのことで、この件が絡んでいるのかどうかは分からない。が、無関係ではないだろう。

 とにかく、そんなことをドルトーネに話さなければ、『創世記』に更なる興味を持つことも、この『宝剣の間』を汚すことも…父が早く死ぬこともなかった。身分ある者に慈悲の心は要らない、過分な慈悲はその者の命を奪う。ドルトーネはそう思っている。

(それにしても…)

 この頃昔を振り返ることが多い。人は死ぬ間際になると、今までの人生を振り返るというが、彼の人生は、むしろこれからである。

…ただ、大きな節目を前に、感傷的になっているのだろう…まだまだだな、俺も。

(…そう焦る事もない。このことを知っているのは、今や俺とあの小賢しいギリアムだけとなった。この話を聞いていいのは王家の人間に限られているが、あの阿呆な弟にも伝えられる前に父が死んだのは幸いだった。あの阿呆は、王家の役割の重さに耐え切れず、代々隠してきたものを、あっさりと外に出してしまうだろう…否、役割など理解できないか)

 せめて、年頃が離れていれば。母も身分も違う弟の年がもっとずっと下なら、あの愚かさを愛らしさにすりかえる事が出来たかもしれない。ドルトーネは己の運命を諦め、補佐役を受け入れられたろう。だが、現実はこのとおりで、ドルトーネは周囲からもその不出来を囁かれる弟…国王ハウレギに、憤りしか感じない。殺意すら、覚えた。

 ドルトーネは物思いから現実にかえり、深く息をつく。

(全て、ご自身のせいと心得られよ…シンラのもとで、見ているとよい、シュルギ)

 ドルトーネの世界に、光はいらない。自分が何者か公に出来ぬ陰の立場なら、世界ごと陰となればよい。俺はそこで王になろう。

 宝剣は静かにそこに在って、暗い喜びに浸るドルトーネを見ている。そして、自分をここから引き抜くことが出来る勇者を静かに待っている。ドルトーネにはそれが分かった。

 ドルトーネは一度だけ気まぐれから宝剣に手を掛けた。過去に何度か試したが、やはり抜ける気配はない。ドルトーネは自嘲気味に短く笑い、宝剣から完全に力を奪うため更に血を流すことに決めた。…キハンで明日にも流れる血が、その役に立たないのが残念だ。

(シュルギ、貴方の子は二人とも貴方に似ていないな。俺はこのとおり歪んでいるし、ハウレギは、暗愚だ)

 …五年前に急死した王の名を、シュルギという。シュルギ=レストラス=リュート。英明かつ慈悲に溢れた王であった。



***



 小さいながらもゴドーに大きな影響を及ぼす事件は、キハンの城とエトツの街で起きていた。

 キハンの城には、有事に備えて常に武器や防具を揃えてある。一般兵が装備するそれらは、定期的に手入れされていて、祭り二日目の今日がその日に当たっていた。

 武器庫の戸を全て開け放し、風通しを良くしつつ手入れにいそしむ城の兵士のもとに、エトツからの賑わいがさざめく様に耳に入ってくる。兵士はため息をついた。

「運が悪いよなあ、何だってこんな日に」

 最近付き合い始めた恋人が、今日の為にどれだけ気合をいれていたか。…彼が祭りに出られないと打ち明けた日から不機嫌な恋人の顔が、浮かんで直ぐに消えた。

「とりあえず、早く終わらせて…」

 在庫を管理している帳簿を繰る兵士の手が、止まる。そしてそのまま首を捻る彼に、もう一人の当番から声が掛かった。

「なんだ、どうした、止まってないでさっさと片付けようぜ」

 もう一人のほうも、祭りに気をとられて気もそぞろである。帳簿を持つ兵士は、短く唸ってから同僚を振り返った。

「なあ、ここにあった小さめの鎧、何処へやったんだ?」

 そこには確かに小さい鎧があったが、いまは無い。沢山の鎧を一度に作ったとき、材料が少し余ったからと鍛冶師が冗談半分でこしらえたものある。冗談とはいえ、他の鎧と同じようにしっかりとした造りだった。この鉱山の街にそんな小柄な者は居なかったから、今まで使われることも無く、たまに笑いの種になっていたのだが。

「どうせ誰も着られないんだ、無くたって誰も怒らないさ。なあ、それより早く祭りに行こうぜ」

「それもそうだな」

 二人は早々に武器庫を施錠し、浮かれた気分でその場を離れた。…無くなった鎧の行方を追えば、もっと祭りを楽しめたかもしれない。


 そしてエトツの街。幾つか開催される催しの中でも人気の、ある会場では、参加者の名簿を見ながら主催担当の二人が腕を組んで思案中だ。

「なあ、この名前、利用しない手は無いよなあ?」

「当たり前だ、絶対に目玉になるぞ、これは」

 昨日、仮面を着けた娘が書き残した名は、この道において国一と言われる男の名だ。もう一人の名には覚えがなかったが、恐らくは彼の連れと思われる。先日の、ある酒場での短い演説と美貌は、話し好きの者達が既にエトツの隅々に広め終えていた。

「…まあ、俺たちの宝を奪うんだ。せいぜい命がけでやってもらおうぜ?」

「楽しめれば、一石二鳥だしな」

 主催担当の二人は、少し意地悪そうに笑いあった。

 そうやって、ゴドーの外堀は当人の知らないところで埋められていくのであった。



***



 紆余曲折ありながらも、やっと上司の下へと追いつくことができたリンジーだったが、目の前の上司には精彩がない。

 祭りで賑わうエトツの街の酒場は、どこも満員だ。槍城に使いをやってやっと出てきたゴドーと話す為に、リンジーは何軒か酒場をはしごする羽目になった。…そんな手間の面倒さは、こうして再会して乾杯の一つもすれば、消し飛んでしまう筈だったのに。

 共に来た仲間たちの席までは確保できず、喧騒の中テーブルにつくのはリンジーとゴドーだけだ。そして二人の間には会話が無い。だからといって、酒が進むわけでもない。

「どうしました、ゴドーさん?」

 リンジーはあえて、傭兵時代の呼び方でゴドーを呼んだ。ゴドーの瞳に力は無いままだったが、とりあえず部下の方を向いた。

「いや、何でもない。旅慣れない坊ちゃんとの道中で、少し疲れただけだ」

 ゴドーはそう言って笑う。なるほど、言われて見れば疲れているように見える。

「災難でしたね。ですが、帰り道は俺たちもいますから。ゴドーさんも少しは楽できると思いますよ!」

 胸を張ってみるリンジーを見て、料理を運ぶ途中の店員が眉をひそめる。リンジーの仕草は子供っぽく、童顔に拍車をかけたらしい。

「おい、ボウズ。子供が酒飲んじゃダメだろう」

 店員に言われ、リンジーが顔を赤くする。因みにこの童顔の青年、酒にはめっぽう強く、酒で顔を赤くしたことは無い。

「俺はこう見えても二十七ですよ!失礼な!」

「嘘つけ、どう見ても十…」

 店員が胡乱うろんな目つきでリンジーを見て、リンジーは「十」の後ろの数字を聞く前に立ち上がる。こうなったとき、いつもなら苦笑いしながら場を治めるゴドーは、黙って目の前の酒を少し口に含むだけだ。

「俺のどこが十代だって言うんだ!」

「ああ?どこからどう見てもガキじゃねえか」

 逆上のツボを痛いほど突かれたリンジーが、更に言い募ろうとしたときだった。へらへらとした男が、二人の間を無理矢理押し分け、ゴドーの対面にどん、と座った。

「よう、大将!なんでえ湿気たツラしやがって。豹ってより、猫だな、猫」

 ほろ酔い加減で足を組むのは、アストだ。アストは長い足をテーブルに乗せる。

「なんだ、コソドロ。お前に顔のことを言われる筋合いはない」

 幾分、我に返り、ゴドーは今度はがぶりと酒を飲む。アストの登場で毒気を抜かれた店員は客に呼ばれて去り、リンジーは闖入ちんにゅう者を胡散臭げに見る。

「コソドロだと、失礼な。こう見えても俺の手下はざっと六百…毎日増え続けてる。たいしたモンだろうが。俺はいいって言っても、ついてくるのもいるしよ」

 自慢げに言って、アストは後ろのテーブルを振り返らずに示す。いつの間にか、そこには数人の人相の良くない男が座って、こちらを見ていた。

 アストの首に、遅れてやってきた女の白い腕が回される。見るからに夜の女に、アストは何か囁いた。リンジーが慌てたように目を逸らす。…そんなところも低年齢に見られる原因なのだが。

「頭領が遊び人で、部下も苦労が絶えないな。だいたいお前、ジリオン殿を好いているのではなかったか」

「大将、お堅いねえ…勿論、俺の心はジリオンのものさ。だが、周りが俺を離さねえ。俺は悪魔じゃねえからな、女に愛を乞われれば、幾らでも与えるさ」

 アストはねっとりと絡む女の二の腕に唇を寄せる。この調子では、当人の知らないところで子供の一人や二人、居るかもしれない。

「大将の言うとおり、俺はジリオンが好きだ。初めて逢ったときは面白味のねえ女だな、としか思わなかったんだ…けどよ、ジリオンは世界一だ。あの魅力が分からねえ男が居たら、そいつは余程の馬鹿なのさ。そう思うだろ、大将」

 先程からアストが言う『大将』には、微かに侮蔑が含まれている気がしてならない。居心地が悪く、ゴドーは残った酒を全て口に入れ、席を立とうと突っ立ったままのリンジーを促す。

「大将、アンタ、惚れたろ。ジリオンに」

 アストが余裕で言い放った言葉に、ゴドーはせ、リンジーが目を見開いた。

「な、馬鹿な!俺が何で会ったばかりの彼女に!」

「ゴドー様、それは本当ですか?この歳になるまで一向にそんな気配がないから、俺実は心配して…」

「リンジー、違うぞ!大体、彼女は王の」

「あんな馬鹿王にはやらねえって言っただろ、大将。絶対にやらねえ、ジリオンは俺のものだ」

 まるで子供が飴をねだるようなことを言うアストに、ゴドーは苛立つ。つながれた獣が、自由に空を飛ぶ鳥をうらやむ様に。

「アスト、お前は駄々っ子か!これはもう決まった事で、もう今更どうにもならないんだ!」

 振り絞るように言った最後の一言は、ゴドーの本音に違いなかった。その顔は憂いに歪んでいる。アストはにやりと口角を上げ、纏わりついていた女を下がらせ、ゴドーの方に身を乗り出した。

「なあ、大将。俺たち同じ女を好きになった、言わば仲間だ。どうだ、共同戦線を張らねえか?」

 共同戦線とは、姫を奪うことだろう。それに賛同することは、ゴドーは王を裏切ることになる。

(無理だ)

 アストは短絡的に考えているが、これは政治的な問題を含んでいる。ジリオンが王の元に行かなければ、幼稚な王の怒りはジリオンの肉親…王都のゼオル達とこのキハンに向けられるだろう。ジリオンはそれを分かっていて、昨日ゴドーに自らの決意を語ったのだ。強い意志に満ちながら、女としての不幸を受け入れようとする夜空色の瞳を思い出す。

 ゴドーは自分の心の表層に泡のように湧き上がってこようとする感情を、無理に奥底に沈め、今度こそ席を立つ。

「まてよ、大将!そりゃ、どうせジリオンは俺を好きになるだろうけどよ」

 アストが慌てて言い募ったとき、俄かに酒場の入り口が騒がしくなり、肩で息をしながら一人の男が現れた。ここに居る三人の男は知らないが、昨日ジリオンが参加を申し込んだ催しの、受付に居た男である。

「アンタ、出番が迫ってるのになんでこんなところに!」

 こっちは忙しいんだと怒りながら、その男はゴドーの腕を引いた。訳の分からないゴドーはつられて数歩歩く。

「ちょ、ちょっと待て!出番って何だ?」

 この小さな騒動で、元々賑やかだった店内が喧騒を増す。

「………会に決まっているだろ?きのう若いお嬢さんが代わりに申し込んだ。今更怖気づいたのかも知れんが、観客席はアンタと…何て言ったかアンタのツレの出番に超満員だ。さっさと来てくれ!」

 ゴドーの連れとは、ギリアム一人しか居ない。あの澄まし顔が似合う場といったら、それこそ舞踏会とか。ゴドーは青くなる。

「ジリオン殿は何に申し込んだんだ!」

 一体何の会なのか、肝心な部分が聞き取れないゴドーは更に現れた男達によって無理矢理連行され、リンジーが慌ててそれに続いた。

 アストは再び寄ってきた女が差し出す水煙草に口を付けかけ、止める。片恋の長いアストには、ジリオンのやろうとしていることにおおよその見当はついた。

(憧れてる男の雄姿ゆうし…ってヤツか)

「…ま、憧れと恋は別モンだから、俺は嫉妬しねえが」

 アストは軽く傷付いた心を慰めて立ち上がった。後ろの席の男達もそれに続いた。



***



 この祭りの最後を飾る催しは、喧嘩っ早い質の鉱山の街に相応ふさわしい。コロシアム状の会場は満員で、観客席からやや迫り出すように作られたバルコニーには州候と姫が座す。

 既に催しは一段落していたが、熱気は冷めやるどころか高まる一方だ。今回の目玉とも言える次の試合を急かす歓声と口笛を聞きながら、セト老は隣の孫娘を見る。

「上手く化けたものだな、似合っておるぞ」

 冷やかしとも褒め言葉ともつかないセト老の物言いに、ジリオンは黙って広げた扇子で優雅に顔を隠す。いつも近くにいる白鴉の姿は無い。今日のジリオンには違和感があった。
まるで騙し絵のようだ。どこと無く雰囲気が違う。

 セト老は半眼でジリオンを睨み、それから観客に見えないように長いため息を一つ吐いて、仕方なさそうに立ち上がり、コロシアムに向かって片手を軽く上げた。

 途端、割れんばかりの歓声があがり、コロシアムに向かう対極の入り口が同時に開いた。

『さて、お集まりの紳士淑女の皆様!言うまでも無く、日頃の鍛錬の成果を披露し競い合う場でありまして……熱き戦いの結果、ここに居ります…我らが憩いの酒場の店主にして、豪腕の男!ニルドラスがなみいる鉱山の猛者を倒して優勝したわけですが』

 よく声の通る司会者の青年が、コロシアムの真ん中で隣に立つニルドラスの腕を取り、勢いよく振り上げた。観客が一斉にニルドラスの名を呼ぶ。ニルドラスは声援に応え、両腕に力こぶを作ってみせた。

 そのとき、自身の耳にも入らないほどの声で呟いたものが二人居る。

「武道会と舞踏会、ですか。…私としたことが、聞き間違えるとは」

 セト老の横で、扇を揺らす姫と。

「…あの店主、やはりただの酒場の店主ではなかったか。初めて会ったときの啖呵といい、只者ではないと思っていたが」

 先程開いた入り口の片方から出てきた、背が高く俊敏そうな戦士と。

 戦士と姫は、諦めたように自分の役に甘んじることにする。

 戦士…ゴドーは歓声の響く中、無理矢理押し付けられた剣の手触りを確かめる。適当に渡されたお仕着せの剣だが、背の高いゴドーに合った長さで、悪くない。ただ、いつも同じ剣を愛用するゴドーには、少々軽く扱いづらかった。服装まで押し付けられなかっただけ良かった。こちらはいつもの革鎧だ。

 ゴドーの翡翠色の目はコロシアム中央の司会者とニルドラスから離れ、対極の入り口から向かってくる戦士に向けられる。

『さあ、ニルドラスも、ここからは特等席にて一観戦者としてお楽しみあれ!わが国最強の剣士、傭兵将軍ゴドー殿のお出ましだ!我らが姫様をハウレギ王の奥方にとお迎えに来られた…』

 司会者はわざとそこで言葉を切った。すると、ゴドーに向かって非難の野次が飛んでくる。セト老とジリオンの手前とあってか、控え目な野次ではあったが。

 司会者は予想通りの反応に満足して頷き、再び口を開く。

『皆、そう憤ることはない!傭兵将軍の対戦相手、このギリアム殿は…なんと、我らが姫様、ジリオン様の兄君!ジリオン様の幸せを案じて下さる優しさと、ジリオン様によく似た美しい…』

 司会者の差し出す手の向こうから、静かにゴドーの方に向かってくる戦士の全身は、そっけない鎧で覆われていた。そう、本当にそっけない、城の奥で埃を被っているような鎧を纏った華奢な戦士は、ゴドーの間合いに入らないギリギリの位置で止まり、ゴドーに頭を下げた。

『残念、今日のところは美貌はお預けのようだ。とにかく、優しい兄君様は、ニルドラスの店でジリオン様の幸せを約束して下さった!流石は、ジリオン様の兄!こんなに細い御方だが、国境の双璧の片割れ・ジリオン様同様の実力を見せてくれるに違いない!しかもこのお二人、真剣での試合をご所望だ!』

 国境の双璧…誰かの揶揄やゆだろうが、聞き覚えがない。が、一人はセト老の事だろう。もう一人は…。

 ゴドーはセト老の隣に美しい姿勢で座るジリオンを見上げ、次いで目の前の戦士を見た。

 『ギリアム』と言われた戦士は、相変わらず浅く頭を下げたままだ。その辞儀が何を意味するか、ゴドーには分かった。

(勝手をして、申し訳ない)

 歓声の中、ゴドーには柔らかな霧のような声が聞こえた気がした。

 だがその声は、ギリアムの声ではない。ぶっきらぼうで、そっけなくても、それでも確かに女の…。

 ………俺の好きな、声だ。

 目の前の戦士が姿勢を正す。ゴドーの腕は勝手に動き、戦士に向かって剣を構えていた。

 最高潮の熱気の中、司会者がゆっくりと手を挙げ、勢いよく振り下ろす。

『始めッ』

 短く鋭い声とともに、二人の戦いが…始まる。



 二人は間合いを保ったまま、すり足で移動する。土埃が、足元を舞った。春の陽は中天より僅かに傾き、『ギリアム』のかぶとに反射する。キハンの桜はもうかなり散っていたが、二人に彩りを添えるように、時折吹く風にはらはらと降ってくる。

 見ているほうはじれったさを感じる展開であった。二人はしばし動かない。だが、今日の武道会である程度上位までいった者達には、二人の闘気がお互いを探り合うのが分かった。

 小さなきっかけを作ったのは、ゴドーである。誘うように、足を少しひいた。『ギリアム』がその誘いに乗った。甲冑かっちゅうの重さなど感じさせない動きで地を蹴り、一気にゴドーに迫る。地面に水平に剣を構え、身を低くして胴をはらった。

 ゴドーは鋭い一閃を難なくかわし、右手に持った剣を突き出す。自分の勢いを殺しきれない『ギリアム』は、地に手をついてから立ち上がり、ゴドーの剣に躊躇い無く自身の剣を向けた。

 重なる剣は音をたてない。『ギリアム』の剣はゴドーの剣をつばに向かって滑る。手に届く前に、ゴドーは『ギリアム』を力で押し返した。『ギリアム』はゴドーの力に逆らわず、舞うように後方へ飛び下がる。着地は無音だ。ただ、白っぽい埃が足元を染めた。

(やり辛いな…)

 『ギリアム』の動きは切れ目が無く、流麗だ。この動きには見覚えがある。昨日、靴を落としたひとの、靴を履く美しい動作だ。

 あの、金属の色そのままの無骨な甲冑の下で、どんな表情をしているのか。怒っていても、笑っていてもいい…哀しい顔だけは、止めてくれ。

(…ジリオン)

 こうすることが望みならば、ゴドーは叶えてやるより外はない。




 一方、ジリオンは甲冑の下で、額をつたう汗と己の早い鼓動を感じている。

(やはり、お強い)

 ほんの一度、剣を交えただけで、力量の違いが分かった。ゴドーの前には、透き通る壁があるようだった。それでもジリオンは楽しくて仕方がない。

 息を整え終わらぬまま、今度はジリオンが誘う。身軽さだけは自信がある。普段身に着ける祖父が特別にあつらえた甲冑とは違い、この甲冑は重い。それでもジリオンは駆けた。

 ゴドーが追う。ジリオンは全力で駆けた。今は少しでも、この時間を長引かせたい。

 ゴドーはジリオンにとって、大好きな物語の主人公である。兄の送って寄越す物語は、ジリオンの心を躍らせた。好きで祖父から学んだ剣の道だが、その道は生来優しい娘には辛いときもあった。祖父との手合わせで落ち込んだ夕暮れも、初陣で人を斬り震えた夜も、物語を読めば少し落ち着くことができた。それほど、ゴドーの冒険譚が好きだった。いつか、手合わせを願えたらと思ってきた。

 走れるところまで走って、限界が近づくと大きく息を吸い込み、ジリオンは素早く振り返って、ゴドーの剣を迎え撃った。一合目のように上手く勢いを相殺できず、合わさる剣からは火花が散った。ジリオンの両腕は痺れたが、高揚する気持ちは更に上昇する。

(手加減されている…)

 自分が兄と入れ替わっていることに、ゴドーはとうに気づいている。手加減されるのは悔しかったが、それも己の力量不足だ。

 ジリオンは積極的に攻撃に出た。何度目かの鋭い一撃は、ゴドーの頬に赤い線を描いた。ジリオンの胸が高鳴る。もしかしたら、これは万に一つの勝機かもしれない。

 兜の中のジリオンは、ぐっしょりと汗に濡れている。目に落ちかかる汗を、ジリオンは煩わしげに振り払う。日差しのせいだけではない、ジリオンの全身はあつく、燃えるようだ。けれどそれは心地よいものであった。

 ゴドーが微かに傷を見るような仕草をした。透明な壁が、一瞬消えたような気がした。ジリオンは気合の声とともに、渾身の突きを放つ。

 だが、相手の皮鎧を突くはずのジリオンの剣は空を突く。辛うじて届いた風圧だけが、ゴドーの砂漠色の髪を微かに揺らしたのが見えた。

 ゴドーは反射的に相手の剣を掬い上げるように剣を動かした。場違いな澄んだ音色がひとつ、コロシアムに響き、一振りの剣が青空に舞う。

 そこにいる全てのものの目が、くるくると回転する剣を追った。舞い上がった剣は勢いを失うと、すうっと真っ直ぐに落ちて、膝をついたジリオンのすぐ前の地面に刺さった。

(しまった、つい…)

 本気になった。ジリオンの強さは本物だ。命の遣り取りを知っている剣だ。女であり、高貴な身分でありながら、よくここまで鍛えたと思う。

 沈黙の中項垂うなだれるジリオンに、ゴドーは手を伸ばしかけ、止める。ジリオンは戦士としてここに居るわけで、情けは彼女の心を傷つけるだけだ。

 先程ついた頬の傷から血が一滴だけ流れて、乾いた地面に吸い込まれる。それを合図にしたように、黙って見ていたセト老が立ち上がる。セト老はそのまま観客席に向かって伸びる階段を降りていく。無言のままゴドーの前まで行くと、おもむろに自身の剣を抜き、柄で思い切りゴドーの頭を殴った。因みにセト老、背はゴドーの半分ほどしかない。

 途端、観客席からつんざくような歓声があがる。セト老を焚き付けるような声も、ちらほら聞こえた。

「ってえな!」

「我が孫を奪うのじゃ、傷つけなかったのは褒めてやるが、気が収まらんわ。餞別と思え」

 短い会話は歓声にかき消される。セト老は剣を収めながらそう言って、周囲に向かって手を上げた。観客席の熱気は、再び鎮まる。

「キハンの愛すべき民よ、知ってのとおり、ジリオンは王に望まれて故郷を離れる。皆それぞれに思うところはあるじゃろうが、快く送りだしてやって欲しい」

 よく通る声でセト老は言って、それから深々とゴドーに向かい頭を下げた。

「…このとおりのじゃじゃ馬だが、どうか…どうか宜しく頼む」

 と、セト老はゴドーだけに聞こえるように、早口で付け加えた。まるで、ゴドーが夫になるかのような頼み方であった。

 ゴドーは姿勢を正し、きびきびとセト老の前に片膝をついて、礼を返す。

「この俺の、命に代えましても」

 その光景は、厳粛と言っていいものであった。セト老の憤りと悲しみと、またそれを理解し礼を尽くすゴドーも人々の心を打つ。

 起伏の激しい女達のすすり泣きが聞こえ、男達は二人に惜しみない拍手を贈った。バルコニーに座したままの『ジリオン』は、俯いて涙を抑えるかのような素振りを見せ、それがまた人々の悲しみを煽る。…皆がそれぞれにジリオンとの別れに想いを馳せるなかで、一人、諦めの悪い男が居る。

「おい、これは好機だぞ!」

 観客席の隅で、アストは手下達に言った。

「お頭、何がで?」

 アストはバルコニーを振り仰いだ。そこに居るのはアストが焦がれて止まない姫一人きりで、老人のくせに滅法めっぽう強いセトも、小賢しい白鴉も居ない。

 さらうなら、今しかなかった。

「…ジリオンを見ろ。一人きりだ。俺は目立つから動けねえ…おまえら、ジリオンを攫って来い。俺はねぐらで待つ」

「お頭、気は確かですか?姫さんの強さは俺たちが敵うもんじゃ…」

 渋る男達を、アストはにらむ。鋭く睨んだあと、心底困ったように眉根を寄せて、手を合わせた。

「ジリオンをよく見てみろ。扇で顔を隠して俯いて…、あんなに見たがってた大将の戦いぶりもまともに見ずに…強がってはいても、本当は塞いでるんだ、可哀想に。な?今のジリオンなら、お前たちでも何とかなる。後生だ、金貨でも何でもやるから、どうか俺の可哀想な姫を助けてやってくれ」

 さりげなく『俺の』と言いきるところが厚かましい。だが、いつも陽気なアストが悲しむ顔は、女にも男にも有効だった。男達は渋々頷くと、早速動き出す。

 アストは手下達を見送ると、バルコニーに向き直った。いつもと様子が違うジリオンは、はかなげでいまにも消えてしまいそうだった。

「そんなに哀しまないでくれ…俺が必ず幸せにするからよ」



***



 アストの焦がれる想いを一身に受ける『姫』は、悪寒を感じて扇を揺らす手を止めた。

「妹の頼みとはいえ、これきりにしたいものですね」

 ギリアムの女装は、本人の希望は別として、しっくりと似合っている。兄妹は顔は似ていても背丈は違うから、ギリアムは座ったうえに身体を縮めるよう意識していた。幾ら似ているといっても、目の色も違う。扇で顔を隠しつつの観戦で、ギリアムはすっかり疲労している。

 ゴドーとジリオンの戦いはなかなかのものであった。ゴドーは鷹揚おうように構えていて、ジリオンに稽古をつける…といった感じにはなっていたが、それは仕方が無いだろう。ゴドーは国一の剣士なのだから。ジリオンも、女に限定していいなら、国一と言ってもいい。

(に、しても…そろそろのはず、なのですが)

 ギリアムは眼下の二人とは全く質の違う戦いを繰り広げている。ギリアムの相手は王都に居た。先王が遺した災いの種・ドルトーネである。自尊心の強さはお互い様だが、ドルトーネのほうが若干高い。フアナたちをゴドーに奪われたことに、何も感じないはずはない。

(何か理由をつけて、きっとここに軍を送ったはず…私と、ゴドー様を始末する為に)

 コロシアムでは、セト老とゴドーの遣り取りが終わり、ギリアムに扮したジリオンがセト老を気遣いつつその場をあとにしようとしていた。セト老はかなり早い段階で、ジリオンの策略に気づいていたようだが、最後まで黙っていてくれたことはありがたかった。

 ギリアムが待っていたことが起こったのと、予想外のことが起こったのは、ほぼ同時だった。

 コロシアムの入り口から、大層無遠慮に十数騎の人馬が入ってきた。長く家に篭もっていたギリアムには面識のない、いかにも尊大そうな中年の男が先頭にいる。

「我はリュート将軍・イズンである!王の命により、ここに蔓延はびこる悪を討伐しに参った!」

 イズン将軍の第一声は、どこか間延びしていた。遠目にも尊大そうないかつい顔をしている。

(やはり、来ましたか)

 ギリアムが思わず腰を浮かしかけたとき、椅子の後ろから数本の腕が伸びて、ギリアムを戒めた。ギリアムは椅子に引き戻される。

「姫さん、すまねえが一緒に来てもらう…お頭が待ってる、どうか暴れないでくれ」

 髭の濃い男が、扇で顔を隠すギリアムに耳打ちする。驚きはあったが、起きた事実を理解できれば、落ち着きはすぐに戻ってきた。

「お頭…アスト、ですね?」

 ギリアムはなるべく高い声を作り、問うた。男が頷く。ギリアムはほんの一呼吸の間考えると、男達に身を任せた。

 男達はくったりと身体の力を抜いた『姫』の反応に顔を見合わせたが、とにかく気の変わらないうちにと、丁重に『姫』を連れ出すことにする。

 男達は『姫』の固い感触に、こんなに痩せてしまって…と、いたわしい気持ちになる。

 …こうして、『姫』は若き盗賊にかどわかされることとなった。


前のお話 次のお話 目次

 


Copyright(c) 2010 hisayoshi all rights reserved.

inserted by FC2 system