遠くあの空のむこうに

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遠くあの空のむこうに



 イズンがジリオンを伴って槍城に帰還して、数日が過ぎた。

 イズンは怪我の治療もそこそこに、セト老にジリオンの輿入れ支度を急かす。セト老がのらりくらりと延ばしてきたが、とうとう…旅立ちの日がやってきた。

「やっとこの地を離れられるか…もう、二度と来たくないものだ」

 槍城の一室で、ため息をつく男がいる。

 痛みの治まらない腕を包帯のうえから押さえて、イズンは月も星もない夜空を見る。エトツで彼だけがただ一人、明日を待ち遠しく思っている。痛みに眠れぬ夜が続いているが、今夜はなんとか眠れそうだ。

 そしてエトツの外れ。ここにも違った意味で眠れぬ夜を過ごすやからが居る。

 外から見ると一見静かな盗賊の谷。穴ぐらの奥は浮かれた男たちでごった返している。

 死者のとむらいは終えた。負傷者の治療も終えた。疲労の中からじわじわと沸いてきた勝利の喜びは、元々勝てると思っていなかっただけに、そう簡単に消えるものではない。ここにいる盗賊たちは王の圧政で身を落としたものが大半だから、王軍を打ち負かし酌み交わす酒は、とろけるほどに旨い。戦で合流したゴドーの部下たちも、すっかり盗賊たちの中にとけ込んでしまっている。

「あーあ、あんなに飲んじゃって。夕方から飲み始めて、もう夜中を過ぎたってのに、誰も寝やしない。お酒ってそんなに美味しいかなあ」

「さあ?私には分かりませんが」

 どうやら下戸げこ同士、イヴァートとギリアムが離れたところから騒がしい光景を見遣る。簡素な木箱に座る二人の手の中には酒があったが、量は少しも変わっていない。

「お二人とも呑気ですね。明日の昼過ぎにはジリオン姫はキハンを立つというのに…あ、もう今日か。って今日ですよ!分かってます?」

 昼間のうちにこっそりとエトツで情報を集めてきたリンジーだけが、がぶりと酒を飲み干して、手酌でさらに注ぎ足す。彼の側には幾つも瓶が転がっていて、手の中の瓶も丁度カラになった。どんなに飲んでも酔わない自分が、ちょっと恨めしいリンジーである。

「まあまあ、落ち着きなよリンジー。ほら、ねえ、瓶がカラだよ。新しいのをもらってきたら?」

 イヴァートはさらに言いつのろうとするリンジーを追いやり、ひらひらと手を振る。

「さて、ところでさあ。一昨日の戦の策だけどさ…あまりよかったとは言えないねえ」

 イヴァートは気まぐれに酒を口に運び、心底不味まずそうに舌をだした。

「そうでしょうか?死傷者も少なく済みましたし、まあまあではないかと思うのですが」

「…まあ、少人数を補うために石を落としたりさ、そういうのはいいと思うけど。僕の魔法の実力なんか、よく知らなかったくせにさ、あんな大役を任せてくれちゃって。もちろん失敗なんかするわけないけどー。危うく将軍を焼いちゃうとこだったけどね。あ、もう将軍じゃないんだっけ」

「旧友の実力を信じたまでですよ」

 ギリアムは手の中の欠けた器を見る。坑道の中のか細い明かりを映して、透明な液体がゆらめく。水面がギリアムをうつす。

 ギリアムはまた服を変えている。盗賊たちと同じような服を着て、粗末な布で頭を覆っていた。傷一つ無い顔をもう一枚の布で隠している。

 ギリアムは今、戦で顔に火傷を負った盗賊になっていた。

「嘘ばっかり。僕を試したでしょ?昔からキミは企んでばっかりだ。僕がダメなら、次の策、それがダメでも次の策。どっちにしろ勝ったんだろうけど。で、どう?僕の実力は。この先、使えそう?」

「この先に何があるというのです。私は何も言っておりませんよ」

「何も無いわけがないでしょ。わざわざ死人になっておいてさ。下手な変装までして。名前なんか知らない盗賊連中だけど、共に戦った連中にまで死んだことにして」

 ギリアムの死が偽装だということを知っているのは、ここに居るイヴァートとゴドー、それにアストとリンジー。あとはジリオンだけである。

「ふふ…そうですねえ。イヴァート、もしこの国を手に入れられるとしたら、貴方は何を望みますか?地位ですか、それとも財宝ですか?」

 ギリアムが問うた。イヴァートは冗談ともつかない突拍子も無い質問にしばらく唸り、

「そうだねー、王室お抱えの魔法使い、とかいいかもね。魔法使いがもっと表に出られると嬉しいかな。ひっそりと暮らすのはもう飽きたよ。このトシで隠者いんじゃは嫌だなあ」

 と、意外にも真面目に答える。ま、夢みたいな話だけど、とイヴァートは肩をすくめた。

「もうしばらく付き合っていただければ、案外叶う夢かもしれませんよ?」

「ふうん、まあ、もうちょっと付き合ってみるよ。どうせ暇だしね。キミと居れば少なくとも退屈しないし」

 二人はどちらからともなく盃を重ねた。



***



 浮かれ気分の盗賊の谷だったが、お頭の部屋だけは違う。

 アストが窓辺にもたれ、つめたい夜風に黙って身をさらしている。その肩にはギュイが居た。一人と一羽は、昔のちょっとした出来事のせいで仲が悪い。が、今は同志であった。アストとギュイは寝台に腰掛けた人物を睨んでいる。

「そう睨むな、俺に何ができる?」

 ゴドーは寝台に浅く座り、ため息をつく。

「うるせえ。俺は大将にがっかりしたぜ。幾ら戦上手だって、女のひとり奪いにいけねえなんて…とんだ意気地なしだ」

 戦場を共にくぐり抜けた今、アストの『大将』からは棘が抜け落ちている。その呼び方には親しみすら感じられたが、そのことに気付く余裕はゴドーにはなかった。

 アストは『ジリオンを攫え』とそればかりを言う。谷が勝利に沸きつづけるこの二日間、ずっとだ。

 ゴドーにはアストの無鉄砲なところが羨ましい。そして腹立たしくもあった。

 ジリオンが王の元へ行かないと、どうなるか。ゴドーには分かる。ジリオンも、分っている。

 ジリオンには守るものが多すぎる。このキハンと、王都の父と兄。遠く離れた二つの場所に、人質を取られているも同然だ。我儘で気まぐれな王の幼稚な怒りからそれらを守るには、ジリオンが嫁ぐより外に道がないのだ。

 ジリオンは誰かの不幸のうえに自身の幸せを築ける女ではない。ゴドーは完全に一目惚れだったが、数日をキハンで過ごすうちに知ったジリオンの性格も好きだった。

(だがこれは、一方的な気持ちだ)

 ジリオンの気持ちは、周囲のどの男にも向いていないようにゴドーには思える。無理に攫うのは、王のしている事と大差ない。ジリオンはきっと、悲しい顔をする。

(そして、俺を軽蔑するだろう)

 ゴドーは頭を掻きむしりたくなる。まだずっと幼い頃、『好きな女が出来たら命を賭けろ』と養父・ナバールは言った。今のゴドーは将軍ではない。その辺にいるただの男だ。いや、それよりもたちが悪いか。彼には『盗賊』という肩書きがつく。

 自由に生きると決めたばかりだ。ジリオンをこの腕に…。だが、そうするにはゴドーは分別がつき過ぎていた。

「なあ、大将。あんなに勇ましくて他のヤツのことばっか考えて、強いくせに優しくて…しっかりしていそうで危なっかしいジリオンを……」

 アストは軽く唇を噛んだ。この先を言うのは、アストにとって辛いことだった。まだジリオンを諦めるつもりはない。だが、今ジリオンを救えるとしたら、目の前の男だけだ。

「……ジリオンを守ってやれるのは大将しかいねえんだ!」

 悔しい。悔しいがアストはジリオンに幸せになって欲しかった。肩の白い鴉が同意するように、甲高い声で鳴く。

 ゴドーは黙ったままだ。眉根に力を入れて、真剣な表情で朽ちかけた床を見ている。

「いい加減にしろよ!ジリオンを好きなんだろ?」

 苛立ちが頂点に達したアストがゴドーに歩み寄ろうとしたときだった。

 古い木製の扉が音もなく開いて、ギリアムが入ってくる。

「ゴドー様…今こそ私は言いましょう。どうか、滅びに向かおうとしているこの国をお救いください」

 盗賊に扮したギリアムが、顔を隠す布をとってゴドーを見た。常に奥底を見せない群青の瞳はいつになく澄んで、真っ直ぐにゴドーを見る。

 ゴドーは思わず立ち上がり、ギリアムを見返す。

 確かに王は贅の限りをつくしていて、政はほころびを見せ始めている。けれどまだ、このリュートが滅びるとまではいっていない。

「何を訳の分からないことを。こんなときに冗談は止せ」

 二人の間に、緊迫した空気が流れる。

「冗談などではありません。貴方は、この国と妹を救う。貴方にしか出来ない」

 アストは鋭い視線を交わす二人の間に居て、交互に二人の顔を見る。ギュイも同様だった。

「…おまえが何を考えているか、俺にはわからねえ」

 ゴドーが吐き捨てるように言い、ふいと横を向く。

「今に嫌でも分かります、ゴドー様」

 ギリアムはギュイに手を伸ばす。賢い鴉は、逆らわずにギリアムの腕に乗った。

「今の私たちは無力です。誰も傷つけずにジリオンを救うことはどうやってもできない。ですからせめて妹に手紙でも送ろうと思ったのですが…生憎あいにくと今は夜。これでは、使い鳥の役は無理ですね」

 そう言いながらギリアムは、ギュイの足にちいさな書簡をくくりつけた。

「だったら、俺が…」

 と、アストが言いかけるが、

「ギュイは飛べません。ゴドー様、どうか彼をジリオンのところへ。ひとり旅立つ妹に、せめて小さな騎士を共につけてやってはくださいませんか」

 ギリアムの声がそれを遮る。

「俺は…俺は彼女に何をしてやれる?」

 ゴドーの手は自然とギュイに伸びる。ギュイはその手を無視して、急かすようにゴドーの肩に飛び乗った。

「貴方の思うことを。きっとジリオンもそれを望んでいる」

 ギリアムは微笑んだ。

 ゴドーは黙って部屋を出る。遠ざかる足音は次第に早くなっていく。その音を苦しげに聞くアストの肩に、ギリアムの白い手がのる。

「せめて、私たちはジリオンの幸運を祈りましょう」

 ギリアムが、ぽつりと言った。




 まだ夜の明け切らない薄闇を、一対の人馬が走る。

 ゴドーは馬を駆る。谷を抜け、森を走った。小道にせり出した枝が、ゴドーの頬を打つ。わきあがる衝動のままに、ゴドーは槍城に向かっている。片方の腕に、姫を守る騎士の入った籠を抱えて。



***



 その日は曇りであった。日の出の時間になっていたが、太陽は雲間に隠れている。時折見える陽の色は、まるで夕暮れのように心細い色をしている。

 槍城の一室で、婚礼支度が静かに進んでいる。部屋は花嫁を彩るきらびやかな装飾品で溢れているのに、雰囲気は暗かった。重く沈む空気が、ジリオンの白く淡い衣装を黒く染めてしまいそうだ。

 ジリオンは兄からの手紙を束につづったものを読んでいる。

 立ったままの彼女の頭が何度も後ろに引かれる。黒髪が高々と結い上げられ、銀の鎖に沢山の真珠が付いた髪飾りが幾重にも巻かれていく。

 ジリオンが自由に出来るのは、紙束を持つ手だけだ。その手すら、時折侍女たちに優しく拘束され、爪に薄く紅が塗られる。華美を好まないジリオンだが、もうかなりの時間、嫌な顔をせず侍女たちに身を任せていた。

「姫さま、ご無事は嬉しいですが、何故お戻りになられたのですか?いっそ盗賊とともに行かれたほうが、お幸せになれたと」

「そうでございますよ、大体見目に似合わず男勝りな姫さまに、王宮の窮屈な生活など…きっとすぐに飽いておしまいになります」

 古参の侍女たちは、幼くして母を失ったジリオンにとっては近しい伯母のような存在だ。愛情ゆえの繰り言にジリオンは黙ったまま苦笑して、なれない耳飾りに僅かに首を傾けた。繊細な細工が優美な音をたてる。それでも目は常に、ギリアムからの書簡の束に落とされたままだ。

 そこに書かれているのは、幾度となくジリオンに勇気をくれたゴドーの物語だ。物語の中のゴドーはいつものように、砂漠の魔物と戦い、ジリオンと同名の不死の女王を救う。ジリオンの中で鮮やかに再現されるはずの物語はしかし、今日は色あせていた。

 砂漠の砂とはどんな色か。

 雨のない乾いた空とはどんな青なのか。

 うまく頭に浮かばない。

 ジリオンは何も知らない。知った気になっていただけだ。何も知らないままに一人で旅立つことに、急に不安になる。

「ギリアム様のお手紙…形見となってしまいましたね」

 一人の侍女が言った。侍女たちの手が一瞬止まる。敬愛する姫の心情は、侍女たちを含め全てのキハンの民が分かっていた。ジリオンは、この地と祖父と、王都にいる父と長兄を守るために文句一つ言わずに婚礼を受け入れる。それだけで充分いたわしいのに、このうえ久しぶりに逢った次兄を失うとは。

 一人の侍女がジリオンに気付かれないよう、そっと目元を押さえ、婚礼支度を続ける。姫に涙は見せまいと、皆で決めたはずなのに。

「せめて王がお強い方なら…そう、ゴドー様のように。王のご趣味はなんでしょうね。まさか剣とはいかなくとも、得意なことが一つでも合えば良いのですが」

 湿っぽくなりそうな場の雰囲気を変えようと、この侍女がつい言ったことが、ジリオンの心を押し開いた。

 ほんの何気ない呟きが、ジリオンの手から兄の手紙を奪った。手紙の束は床に落ち、衝撃で綴りひもほどけて床に舞った。

 物語のゴドーではない、本物のゴドー。その人を知ってしまったから、物語が色あせたのだと、ジリオンは気付いた。



***



 城の手前で馬を隠し、ゴドーは走り、人気のない城壁を軽々と越える。…祭りの日に、ジリオンがそうしたように。

 ジリオンの旅立ちを前にして、早朝から城は騒がしい。かがり火が多くかれ、沢山の王軍兵が庭を行き来していた。

 ゴドーは身を屈め、音をたてずに移動する。城内に入る機会を窺ったが、どうやら隙は訪れそうにもない。

 茂みに身を隠し、焦りばかりがつのるゴドーの背後から、気配もなく一人の老人が近づく。

 老人…セト老は、すう、と息を吸い込むと、いきなりゴドーの頭を拳で殴った。手加減無しである。

 声を出せないゴドーは思わず頭を押さえながら、剣に手をかけ振り返った。

「セ、セト老!」

「必ず来ると思っておった。将軍でもない、傭兵でもない、ただのゴドーよ。盗賊を逃がせとは言ったが、まさか孫ともども加担するとはのう。…いろいろと言いたいことも無いでもないが、時間が惜しい。今の一発で不問にしてやろう」

 ただ、ひとつ…確認があって待っておった、とセト老は密やかな声で言う。かがんだ姿勢のゴドーと、セト老の背丈は同じほどだ。セト老はジリオンの親代わりとして、この男を見定めねばならない。

「あのコロシアムでの誓い、忘れてはおるまいな。命に代えても、ジリオンを守ると」

 ゴドーはただ黙って頷く。あのときの気持ちは変わらない。否、むしろ強まっている。

「今は見送るしかねえ。だが、ジリオンは守る」

「…それだけ確認できればよい。ゆくがいい、ジリオンは今、自分の庭に別れを告げている。一人きり、でな」

 セト老は目の前の青年に、道を指し示す。ゴドーは軽くセト老に頭を下げると、茂みを器用に抜けて、すぐに見えなくなった。

「どうかしておるな、儂も」

 ゴドーの言うことに、何の根拠もない。だが、この明けきらぬ薄闇で見たゴドーの瞳には力が漲っていた。初めて会ったときには無かった光が、確かにあった。

「女神シンラよ、どうか我が孫の行く末に光を」

 曇った空は、老人の切実な願いには答えてくれなかった。冷たい風が、セト老の白髪を揺らした。



***



 ここに足を踏み入れるのは、二度目だ。あのとき盛りだった花は、次の盛りを迎える花に主役を渡しつつある。

 庭は雰囲気を変えている。夏に向かって咲く色の濃い花々が、明けてもなお暗い曇天どんてんの中、ぽつぽつと花を咲かせつつある。花を終えたものは今度は葉を繁らせ、朝露を抱いて揺れる。

 花が少なく、寂しげな庭であった。ゴドーは抱えていた籠をあけ、ギュイをそっと放す。ギュイは迷わずに飛んで…。

「おかえり、ギュイ」

 あのときと…桜の舞う中はじめて逢ったときと同じだ。ギュイが嬉しそうに白い手にのる。

「随分と大袈裟な格好だろう。窮屈で敵わない」

 他人事のように、ジリオンが言う。

 白いドレスには、袖に鳥と花を抽象化した刺繍があった。その刺繍は、彼女の頭を覆う薄布の縁取りにもあしらわれていた。小さな動作をするだけでも、しゃらしゃらと音をたてる繊細な宝石たち…そして、嫁ぐ印の指輪。

 どれもこれも、ゴドーの目にはまぶしく、痛い。美しければ美しいほど、ゴドーの胸は締め付けられる。眉間に皺を寄せないのと、口元を下に曲げないようにするのが、精一杯だった。

「すまない、ギュイを届けてくれて」

「いや、なに」

 ゴドーの口は重い。しばし二人は無言になる。先に沈黙を破ったのは、ジリオンだった。

「じつは、楽しみもないでもない。砂漠を、見たい。沢山知らないものがあるが、やはり…言葉や文章で知っていても、その風景は分からないからな。いったい、どんなところだろう?」

 ジリオンの目が、ゴドーを通り越して遠くを見る。

「そうだな…単調で退屈な風景だ。雲ひとつない青空と、乾いた砂の二色だけの世界だ」

「そうか、空と砂の…砂は、白いのだろうか」

「いや、何と言ったらいいのか、まあ、こんな色だ」

 ゴドーは自分の頭を指差した。冷たい風が、逆立った黄色に近い金髪を揺らす。

「ゴドー様の髪の色…忘れないようにする」

 二人は本当に伝えたいことを心の奥に仕舞い込んでいる。

 再びの沈黙の後、重い空気を動かしたのはやはりジリオンであった。

「それでは…これでもう、会うこともないだろうが、息災で」

 別れの挨拶まで、その口調なんだな。ゴドーは何とか口元に笑みを乗せた。

「また、逢えるさ」

 自分でも何を言っているのか分からない。ゴドーは両手を握り締める。伝えたいことは、何一つ言葉にできない。

 ジリオンはドレスの裾をひるがえす。涙は見せないと誓った。ギュイがいつものように頬に身を寄せる。おもわず羽を撫でると、ギュイは片足を差し出した。

「…手紙?」

 ジリオンは立ち止まり、急いで小さな紙を広げた。兄からのものだ。ギリアムからの手紙はいつも長かったが、手の中にあるものは簡潔で、数行で終わっている。


『ジリオン、近くに朴念仁ぼくねんじんがいるでしょう。
 あなたのことが好きなくせに、きっと言えないでいる
   
 あなたがその朴念仁を好きなら
 あなたは王のものにはならない

 あなたをみて、王は必ず問う
 それがどんなに意味不明でも、まよわずに頷いて

 あとは朴念仁を信じてただ、待てばいい』

 抽象的で暗号のような手紙だった。後半部分は意味不明だったが、いまはそれどころではない。ジリオンだってれっきとした十八の乙女だ。前半を何度か読み返す。

「ゴドー様が、私を?」

 顔が熱いような気がする。ジリオンは弾かれたように振り向いた。眉は哀しそうに歪んでいるのに、口元は笑っている。

「ど、どうされた?」

 ゴドーは大きな身体を屈めて、ジリオンにのばそうとした手を引っ込めたり、おろおろとせわしない。

 ジリオンは手の中にある手紙をくしゃりと丸め、視線を落とす。赤く彩られた唇に力を込め、ゴドーを見上げる。

「憧れだと思っていた…けれど、違った。物語の貴方が好きだった…でも、本物の貴方は、もっと好き」

 小さな呟きを聞き逃さないよう身を屈めるゴドーの首もとに、ジリオンのしなやかな両腕がまわされ、唇がゴドーのそれを強く塞いだ。

「…!」

 何が起こったか理解したあと、ゴドーは目を見開く。ジリオンの頬が赤いのは、化粧のせいではない。閉じられた目もとに、僅かににじむ涙を見つけた。

 ギュイが空に羽ばたいた。すぐあとに見知らぬ声がする。

「ジリオン様、そろそろよろしいでしょうか?」

 どうやら迎えが来たらしい。が、その声はまだ遠い。

 不器用な二人に残された時間は、ほんの少しだ。

 ジリオンの涙が、ひとしずくだけ頬を伝った。思わずゴドーは細い背を強く抱き締める。そして、そっと離れた。ゆっくりとひらいたジリオンの瞳は潤んでいたが、もう涙は流れない。

「泣かないと決めたのだが、つい」

 目元を押さえて無理に笑うジリオンを、ゴドーはもう一度抱き締めた。ひろい胸に、すっぽりと納まってしまう。ジリオンは震える息を吐き出した。

「今の俺には力がない。必ず迎えに行く、待っていてくれないか?」

「随分と、ムシが良いな。そんな願いを聞き入れるのは、私くらいのものだぞ」

 腕の中で、ジリオンが肩を揺らして笑う。ゴドーも笑った。

「ジリオン様、出立の時間が迫っております。どちらにおられますか?」

 迎えの声が苛立っている。ゴドーはジリオンの手をとり、そっと唇をおとす。

「長くは待たせない」

「分かっている………ゴドー」

 ジリオンは恥ずかしそうにゴドーの名を敬称無しで呼んで、名残なごり惜しげに離れる。

 気を利かせていたギュイが戻ってくる。ジリオンの肩にとまる前にゴドーの頭を掠めて、砂漠色の髪をついばんだ。

「ってえな!」

 ギュイが言い返すようにぎゅわぎゅわと鳴く。

「わりいな、ギュイ。もうしばらくジリオンを頼む」

 ゴドーに背を向けて歩き出したジリオンの肩で、ギュイがもう一度鳴いた。

 ジリオンはもう振り向かない。迷いのない足取りで、庭から姿を消した。


 ゴドーはその場に何をするでもなくたたずんでいたが、弾かれたように振りかえる。いつの間にかそこにはギリアムが居た。盗賊の姿でギリアムがぽん、と手を叩く。

「さあ、では、行きましょう、ゴドー様。この国を救いに」

 ゴドーは一度あごを掻いて、それからいきなりギリアムを殴った。ある程度予想していたのか、ギリアムはさほどよろめく事もない。ゴドーはもちろん手加減している。とはいえ、よろけず堪えたのは、文弱ぶんじゃくなギリアムにしては上出来だ。

「一発ぐらい我慢しろ。面倒ごとに巻き込みやがって」

 悪態をつきながらも、ゴドーの気持ちは決まっている。ギリアムの話に乗ることが、ジリオンを救い出す近道になるなら、いくらだって乗ってやる。

「ええ、これくらいで済むのなら、安いものですよ」


 庭の外が騒がしくなっている。気付けばすっかり夜はあけて、うすい霧のかかったエトツの街が見下ろせる。

 カーン、カーン…と鐘の音が聞こえる。誰が鳴らしているのか、その音は澄んでキハン全体に響くようだ。

「どうやら出立のようですね。イズン将軍も深手を負いながら、ご苦労なことです」

「…ああ」

 二人の髪を、冷たい風が揺らす。



***



 風にあおられている男が、もう一人いる。

 アストは街の外れの高台から、ひとり馬上にてキハンの孫姫の行列を見送っていた。

「大将はやっぱり阿呆だ!なんでジリオンを行かせちまうんだよ!」

 アストだって馬鹿ではない。ジリオンを行かせるしかないということも理屈では分かる。だが、心は別だ。



***



 ゴドー、ギリアム、アストは三人三様の複雑な思いを抱えて、ジリオンを見送る。

 ジリオンの行く先に晴れ間がさして、灰色の空に、滲むように青空が見える。

(ここに来るときはそう遠いと感じなかったが、こうなってみると王都はとんでもなく遠いな)

 ゴドーは空を見上げる。

(…乗り越えて見せるさ。どんな困難でも。ジリオンを手に入れられるなら)

 どんなに離れていても、ジリオンは確かにこの空の下にいる。




 …遠く、あの空のむこうに。

 
 
<第二章 了>


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