砂の通い路

最後の商人





 遠い昔の話だ。国が砂に消えた。その国は富に溢れていたと伝え聞く。その国に富をもたらしていたものは、何か分からない。それほど昔の話だ。
 だが、国の名は残っている。バスマという。
 バスマという小さなオアシスは、広大な砂漠に今も存在している。点在するオアシスの中で最も小さく、目立った産業もないが、誰もが…特に商人たちはそのオアシスの名を知っていた。

 理由は、バスマの姫にある。


***


 広い砂漠の上には、満天の星空が広がっている。旅人は深い藍色の空を見上げた。
 昼間は風もなく、熱い空気を乱していたのは駱駝ラクダの息遣いくらいだった。熱い太陽は砂漠を歩き慣れた旅人を苦しめたはずなのに、夜になり急激に冷える中では昼の暑さが恋しい気もする。旅人は着古したマントに包まり、砂の起伏の影に身を休める。固くなったパンをかじりながら空を見上げるのは悪い気分ではない。この天気なら、今夜は砂嵐も起こらないだろう。
 旅人はたったひとりだ。行きも帰りもひとりの事もあったが、このところ行きはひとり、帰りは複数の旅を何度か繰り返している。行き先も帰る先もいつも同じだったが、道連れはいつも違った。同じなのは、道連れは全く楽しそうではなかったということだ。今度もそうなるだろうか。
 それにしても冷える。旅人はパンを食べ終えると、駱駝に寄り添った。膝を折り曲げ、腹から首まで地面につけて寝る駱駝の姿は見様によっては滑稽で愛らしい。
 旅人はすでに眠りについている駱駝の首を幾度か撫でると、目を閉じた。きっとこれが最後の旅になるはずだ。


***


 砂漠入り口の街は喧騒で溢れている。ここは商人が行き交う街だ。彼らは人懐こく陽気で、昼間から酒を飲みカードに興じながら商談する。煙草と酒の匂いの充満した中で、商人たちは言葉の気安さの中に巧みに蛇を忍ばせる。交渉ごとは話術の上手さにかかっている。油断をすれば損をする。老いも若きも関係ない。ターリックもその一人だ。 
「これで決まりだな」
 草を編んで作った屋根の下、雑然と置かれたテーブルの一つでターリックは立ち上がる。うねりのある栗色の髪が、肩先で揺れた。彼の声はよく通る。他の商人たちが一斉に振り向いた。
「まて、商談を賭けたのが本気だったってのか?」
 ターリックの対面に座る男が「これだから若いのは」と言って苦笑する。言葉と裏腹に男のこめかみには冷や汗が滲んでいた。二人の間のテーブルには勝敗の決まったばかりのカードが広げられている。ターリックのカードは高い役で、相手の男のカードには何の役もない。子どもでも分かる勝敗だった。
「当たり前だ、これで取引は決まりだと最初に言ったはずだが」
「だが、こちらは塩だぞ!それをそんな値で!」
「あまり騒ぐと、損な評判が立つのはあなたの方だろう」
 目の前の男が青くなっている。それほど無謀で馬鹿げた賭けをターリックは持ちかけた。賭け事が特に強いわけではない。彼は商人にしては話術が不得手だったが、勝負を賭けるタイミングが上手い。この辺りでは成功した商人の部類に入る。
 項垂れる商人は渋々と手を差し出す。握手は交わされた。商人の契約に書面は要らない、握手が契約の証となる。
 ターリックは店を出た。「無慈悲な男だ、見た目と同じで」とやっかみ混じりの声を聴いたが、ターリックは気にしない。事実その通りで、彼の商売のやり方は冷徹で容赦が無かったし、秀麗な顔は右目の黒い眼帯のおかげで酷薄に見えた。左の目は深い緋色で、感情が読みづらい。顔だけをみると、まるで盗賊のようだった。
 だがターリックは人を裏切ることはしないので、信用が無いわけではない。彼は商人の中で孤立していたが、その気楽さに満足していた。生き方を変えるつもりはない。言いたい奴には言わせておけばいい。
 店の外には無口で忠実な使用人たちが控えていて、手際よくターリックに馬を用意した。
「商談が成立した。塩だ。金を用意しろ」
 主人の言葉に使用人たちが一瞬驚きの顔を見せた。ここは内陸部で海が遠く、塩は貴重なものだ。上質なものは高額で取引されるし、何より需要に事欠かない。確実に儲けを生む。
 ターリックは細々としたことを使用人に言いつけ、あとを任せると馬を走らせる。煙草の煙を吸い続けた喉が痛んだ。高台の屋敷に戻り、井戸でよく冷やした果実酒を飲みたい。煙草の匂いが身体全体に染みついている。頭に巻いた布が風をはらむと、匂いが鼻についた。
「まずは風呂からだな」
 毎日変わりなく砂漠は暑く、昼過ぎの太陽は容赦なく照りつける。長く外で待たせていたせいか、馬の息が荒い。ターリックは商店が立ち並ぶ通りに木陰を見つけ、しばし休んだ。無意識に自分の胸をさする。これは彼の癖だ。ゆったりとした服の下には、小さな巾着がある。巾着の中の固い手触りを確かめると、ターリックは再び馬を走らせた。細い路地を抜けて、埃っぽい石畳を駆けあがれば、そこはもう寛げる屋敷…のはずだったのだが。
 行く先を、数人の男に遮られた。この時点でよくない人種に違いないのだが、それを念押しするように男たちは三日月刀を構えている。刀は路地に差し込む明かりを反射し、馬が驚いてたたらを踏んだ。ターリックは巧みに手綱を操り来た道を振り返るが、そこにも同じような男たちがいた。
「何の真似だ、人違いではないのか」
 恐らく、先ほど塩の取引をした男の手のものだろう。陰険な手を使うしか思いつかないような相手と取引したことを悔やんでも遅い。
隻眼せきがんのターリック、強欲は身を滅ぼすぞ」
「この辺りの治安も悪くなる一方だな」
「若いくせに偉そうに。その高慢な口、二度と使えなくしてやろう」
 刀が閃き、馬が前足を上げる。ターリックは馬をどうにか宥め、無理に突っ切ろうとしたが徒労に終わった。意気地のない馬は主人の命令を拒んで暴れた。ならば、とターリックは手綱を思い切り引いた。馬は鋭く嘶き、前足を高く上げる。まるで暴れ馬だ。男たちは近寄れない。だが、長く続けることではない。さてどうするかと思ったとき、ふっと視界が陰る。
「探したぞ、隻眼の商人」
 近くの屋根から、細い影が降り立った。古ぼけた長いマントとフードを身に着けている。それは砂漠を旅する時の日除け砂除けとして使われるものだ。騒がしいその場でやたら淡々と、影がターリックを見上げる。褐色の肌をした首元と華奢な顎だけが見えた。
「なんなんだお前は!ひっこんでろ!」
 驚いた男たちが、一斉に刀の先を闖入者ちんにゅうしゃに向ける。闖入者は素早く、だが音もなく細身の剣を抜き、一番近くの刀を弾くと瞬きも間に合わないほどの速さで持ち主の胸元に剣先を突き付けた。男たちが息を呑む。
「あなたたちの要件を邪魔するのは謝る。だが、私の話をさせてくれないか」
 低く上品な声が、男たちを制止する。闖入者は剣をそのままに、ターリックに向き直った。
「商人ターリックに間違いはないか?」
「ああ」
 確認をとると、闖入者は軽く顎をひき、言い放つ。
「ターリック、私はバスマの姫よりの使者。姫の導きにより、貴方をバスマに招待する。商談をしたい」
 抑揚の少ない声は、お告げのようだ。路地は声に支配され、僅かのあいだ時が止まったように誰も…馬さえも動きを止めた。
 沈黙を破ったのは、男たちだ。闖入者に剣を突き付けられた男以外が、腹を抱えて笑い出す。戦意は微塵も残っていなかった。
「は、ははははは!よう、ターリック!ご愁傷だな!」
「バスマの巫女姫の召喚か!…俺たちが手を下すまでもないな、どのみち、生きて帰れない!」
 ざまあみろ、と言い捨てて、男たちは去って行った。ターリックはあまりの展開にため息をつき、おごそかに佇む影を見下ろす。
「とりあえず、助かった。礼を言わせてもらう…が、本気か?人違いではないのか?」
「当たり前だ。私の名はセイフ。わが主マレイカ姫の導きにより、貴方をバスマに導く役目」
 至極真面目に答えるセイフと言う名の闖入者に、ターリックは額に手を当てて天を仰いだ。
 バスマの姫は、世間では巫女姫と呼ばれている。 
 『バスマの巫女姫』はこの辺りではちょっとした有名人だ。悪い意味で。…姫には予見の力と呪いの力が備わっている。あくまで噂だが。なぜ噂かと言うと、彼女に魅入られた男たちは、もういないからだ。
 バスマは広い砂漠のちっぽけなオアシスだ。交易の行路からは外れていて、おまけに周囲は岩山が多い。当然、訪れるものは少ない。バスマの人々はひっそりと、慎ましやかな生活をしていると聞く。巫女姫がその能力を開花させなければ、誰も知らないようなオアシスなのだ。…病弱な姫は幼いとき高熱を発し、生死の境を彷徨ったあとに、その能力に目覚めたという。
 姫が不思議な予見の力でバスマに人を導くようになって、何年が経ったろうか…。人付き合いの薄いターリックはよく知らない。気付いたときにはもう恐ろしげな噂があった。
 最初の商人は、当然のように笑って姫の使いを追い払った。その商人は程なくしてサソリに噛まれて死んだ。二度三度と、同じようなことが続いたらしい。二度目までは偶然、三度目で必然、四度あればそれはもう呪いと言っていいものだ。商人たちは震えあがった。四人目の商人はバスマに旅立ったきり帰ってこない。五人目の商人は、若く経験の浅い男だったが、彼はバスマに旅立ち商談をこなした後、暫くして姿を消した。行方は今も知れない。六人目がターリックだった。…だから、先ほど襲った男たちは笑ったのだ。自分たちの手を汚すまでもないと。
 商人たちは『バスマの巫女姫』を恐れた。当然だ、依頼を了承しても断っても、不幸な結末を迎える。魅入られたが最後、もう後戻りできない。人生の終わりは定められた。あとはその時が早いか…または少しだけ遅いかだ。 
 迷うのは嫌いだ。そもそもターリックは噂や迷信の類を信じない。ターリックは即座に、バスマの巫女姫の使い・セイフに隊商を編成することを申し出た。
「姫の依頼を受けてそのように落ち着いている人を見たのは、初めてだ…ターリック、怖くはないのか」
 セイフが意外そうに尋ねるので、ターリックは可笑しくなる。
「怖がったところで、仕方ないだろう。私は死ぬ気はないし、商売をするなら、稼がせてもらおうか」
「どれくらいで用意できる?すぐにでも出発したいのだが…私の駱駝が、街の境で待っている」
「ならばできるだけ急ごう。私の後ろに乗るといい」
「一人で乗れる」
 ターリックが差し出した手を取ることなく、セイフは馬の背に飛び乗った。目の前に現れた時も思ったが、風のように身が軽い。不機嫌な馬は、背の重みが増えたことに気付いていないのか、一度首を振ると素直に走り出した。
 屋敷に案内すると、セイフは物珍しげに辺りを見回した。壁は豪華な装飾が施され、天井には水晶のようなガラスが集まってできたシャンデリアが、大きく開け放たれた窓からの陽光を反射して輝いている。輝きは赤砂岩の床に落ちて、きらきらと揺らめいた。
「きれいだ…」
 意外に子供っぽい感想に、ターリックは笑った。
「亡くなった父から継いだ古い家だが、気に入ったか。すぐに用意するので、寛ぐといい」
 ターリックは出迎えた召使いに飲み物を用意するように言うと、休まずに準備に取り掛かった。召使たちを集め、隊商を整えるように指示すると、自室に入る。…彼の気持ちは砂漠に飛んでいる。彼は懐を探ると、首からかけた紐の先の革袋をとり出した。中に入っているのは、幼いころの幸せだった日々と失った片目の痛みの象徴だった。
(バスマか…まだ行ったことがない)
 商人としての仕事をこなす傍ら、ターリックは随分と砂漠を旅して歩いた。この巾着の中身の出どころを、ずっと探している。バスマはあまりに辺鄙で、つい後回しにしていた。行く機会ができて、丁度良かったかもしれない。
(まあ、道行きは楽そうではないがな。水や食料を多く用意しなければ…面倒なことだ)
 思うこととは裏腹に、ターリックの心は落ち着いている。冷めた性格は昔からで、どうなるものでもない。それでも、この巾着の中身だけは、ターリックの心を熱くする。父の無念と、ターリックの野心は、小さな袋に詰まっている。
 軽く物思いに耽るターリックの耳に、ノックの音がする。
「どうした?」
「使者の方の…その、お風呂はいかがしたしましょう?」
 遠慮がちな声に、ターリックはセイフの身なりを思い出す。くたびれたマントは砂にまみれていた。ひとりで旅してきたのだろうか…あの細い身体で。巫女姫も酷なことをする。
「用意しろ。新しいマントもな。私にはまだやることがある」
「かしこまりました」
 下がっていく召使いの声は暗い。ターリックの事情を知ったのだろう。安心して待っていろと言っても無駄だろう。今や誰もがバスマの巫女姫の噂を信じている。
 念のため、彼らの身の振り方を考えてやらねば。あくまで念のため、だが。ターリックは巾着を再び懐にしまうと、忙しげに動き始めた。それから、召使いを追いかけて、なるべく長く風呂に入ってもらえと声を掛けた。


***


「そういえば、自分も風呂に入りたかったのだったな」
 隊商の編成が終わった時、ターリックは自分に纏わりつく煙草の匂いを思い出した。袖を鼻先に寄せると、不快な気分になる。旅立ちは気持ちよく向かえるべきだ。
 風呂はセイフが使っているはずだが、もう出たころだろう。もしかしたら、苛々しながら自分を待っているかもしれないとも思ったが、とくに気にせず最後の寛ぎに向かうことにした。彼の屋敷の風呂は広い。何人も入れる湯船と蒸し風呂があって、その隣には湯上りに身体を休める贅沢な休憩所が付いている。充分に温めた身体を休めながら、冷たい果実酒を飲む自分を思い浮かべると、ターリックの歩調は早まる。
 風呂場に入ると、着替えをする場所にまで湯気が立ち込めていた。石鹸の良い香りがする。湯気の向こうで薄着の細い影が驚いたように動いた。セイフは余程の長湯のようだ。
「バスマの使い殿、どうかな?我が家の風呂はなかなかのものだろう」
 話しかけると気配が慌てて、薄着のセイフが現れた。自分の服に手を掛けていたターリックは、つい動きを止める。セイフの顔をはじめてみたことに、ターリックは気づいた。あの小汚いフードの下に、これほど美しい顔が隠れていたとは。
 俯きがちなセイフの顔に、柔らかく波打った短い金髪がかかる。紫色の大きな目が、ターリックを見上げた。
「すまなかった。つい長く…」
 水分を吸ったばかりの滑らかな褐色の肌を隠すように、セイフが更に俯いた。ターリックが我に返る。
「いや、私がゆっくりと言ったのだから気にするな。あちらで休むといい。酒も用意してある」
「酒は飲まない」
「遠慮はいらない」
「私は飲めない…気遣いありがとう。おかげで疲れが取れた」
 ターリックが入ってきたばかりの扉から、足早にセイフが出ていく。湯気が揺れる。
「随分綺麗な男もいたものだ」
 ターリックはつい笑った。噂は信じないが、それでもバスマのイメージは何となく恐ろしいものだった。が、セイフのおかげで少し和らいだ。


***


 砂粒混じりの風が、布で覆った口元をたたく。細かく黄色い砂は、ターリックの服の中に容赦なく侵入する。砂漠に入る前に首元を厚いスカーフで巻き、砂除けのマントを着込んだが、役に立っているとは思えなかった。駱駝の背で揺られるたびに、身体の何処かでじゃりじゃりと音がする。ターリックは思わず舌打ちした。砂漠の旅にはある程度慣れていたつもりだったのだが。この行路は最悪だ。
「だから、無駄だと言った」
 案内役のセイフが、すぐ後ろのターリックを軽く振り返る。その褐色の横顔には、不快な感情は微塵も浮かんでいない。風の吹き荒れる砂漠を照らす三日月のように、冷たく静かだ。
「セイフは平気なのか」
「慣れているからな」
 セイフは、短く言って前に向き直った。砂漠に入って六日目、ターリックの疲れは頂点に達している。ターリックの祖先はここから遠く離れた山岳地帯の出だ。この地方の者たちと違う白い肌は、昼の照りつける陽光に焼かれて赤くなり、夜の冷たい風に吹かれてひび割れた。露出している肌は目の辺りだけだが、砂が左目に入ると目じりににじむ涙は、荒れた肌にしみた。右目に砂が入ることはないのは幸いかもしれないな、とターリックはやや自棄になって思う。いっそ両方に眼帯をしたいくらいた。ターリックが視力を失ったのは少年の頃だ。ターリックは二十七歳になっている。その間に商人として成功し、そして今、抗えない運命に導かれてバスマに向かっている。早急で奇妙な現実は、ターリックの中でわだかまってうまく溶けていかない。まるで夢の中にいるようだ。だが残念ながら、ターリックの疲労も日焼けの痛みも間違いなく現実だ。
 商談を持ちかけてきたバスマの使い・セイフは、道程は五日ほどだと言った。予定を一日過ぎて、隊商の連中はやや苛立っている。その気持ちはターリックも同じだった。流通行路から外れた道筋にはすれ違うものはない。隊商を襲う盗賊たちに出くわさないのは幸いだが、寂しい道行きだった。砂と石灰が縞模様をつくる岩の谷を抜け、ごつごつとした岩だらけの荒れ地をどうにか通り、そして今は見渡す限りの砂だ。駱駝は粘り強く砂漠を歩く生き物だが、溜まった疲労のせいか時折砂に足をとられた。
「あとどれくらいだ…皆疲れている。セイフが思ったよりも時間がかかっているようだが」
 不満を押し隠してターリックが言うと、セイフは慣れたふうに駱駝の歩調を弱め、ターリックの横に並んだ。
「天にある月が隠れ、太陽が向かう先に現れるころ、我がバスマに着くだろう」
 抑揚が少ない声でセイフは答える。ターリックは目深に被ったフードの奥から、狭い視界でセイフをとらえる。
「そうか、何よりだ」
 これだけ落ち着いた雰囲気を纏った人間も珍しい。行程の一日目に砂嵐に遭遇した時も、慌てることなくターリックたちを安全な場所に誘導した。月明かりに照らされる整った顔に感情が現れることは滅多になく、こうして会話をしていてもセイフの紫色の目は真っ直ぐに行く先を見つめている。感情の揺れを感じたのは…そう、風呂で会ったときくらいだ。あの時は随分可愛らしかった。
「着いたらとにかく重いマントを脱いで、柔らかい絨毯の上で酒でも飲みたいものだ」
 ターリックが軽口を叩くと、セイフが初めて隣の男を見て、微かに眉を動かした。
「物見遊山ではない、商談を忘れるな」
「そう言われてもな。取引するものを聞いても答えないのに…こんな馬鹿げた商談は、聞いたことが無い。付いていく私も私だ」
 普通に話すだけで、口の中に砂が入ってくる。ターリックは唾を吐き捨てようとして、口が渇ききっていることに気付いた。持参した水も残り少ない。
「別に、もったいぶっているわけではない。説明が難しいだけだ、行けばわかる」
「分かってるさ。それよりも、安心したよ。セイフ、お前さんと話せて」
「…何がだ」
「あまりにも作り物めいていて、もしや人形かと思ったのだ。バスマの巫女姫が呪力で操る」
 セイフは答えを返すことなく駱駝の歩みを速めた。ターリックは再び前を行くセイフを見ながら、彼を人形のようだと思うのは、容姿が完璧だからだと気付いた。
 冷たい風が砂の上を撫で、黙々と歩く隊商の列を煽る。セイフのマントが一瞬翻り、粗末な服を着た華奢な身体がのぞいた。…結局、セイフはターリックの用意したマントを受け取らずに、裾がほつれた古いマントを着ている。その頑固さは、静かなセイフによく似合うと、ターリックは思う。
 セイフが急に振り返る。ターリックの視線を感じたわけではない。セイフはなだらかな丘のふもとを指差した。ここで一休みと言うのだろう。
 時間は惜しかったが、セイフが到着する時刻を言ったということは、休む余裕があるということだろう。ターリックは隊商に止まるよう指示する。旅慣れた者たちは速やかに駱駝を休ませ、軽い食事の用意を整えた。日程に余裕をもって食料を持ってきてはいたが、一番初めに雇い主へと差し出されたのは、氷砂糖の欠片とかちかちに固まったパンだった。
「あるだけ有難い」
 ターリックが固いパンにかじりついていると、セイフが駱駝に寄り添って身を休めているのが目に入る。何かを食べた様子はない。セイフは道中、何となく人を拒んでいるような雰囲気を作り出していた。自分の世話は自分ですると明言したわけではないが、食べ物もきちんと用意していた。が、底をついてしまったのだろうか。…そう考えると、セイフの予定した道程は、ターリックに伝えたよりも短かったことになる。
「悪かったな、大勢を先導させて」
 ターリックはセイフの横に座ると、自分のパンを半分ちぎった。旅慣れた隊商とはいえ、かなりの人数だ。若い案内人の気疲れは相当なものだろう。
「そんなことはない。それに、食欲が無いのだ」
 セイフはパンを受け取らず、擦り切れたマントを引き上げて目を瞑った。ターリックは何も言わずに、セイフの手にちぎったパンを乗せた。セイフのまつ毛が微かにうごき、おずおずとパンを口に運ぶ。可笑しかったが、ここで笑ったらセイフの機嫌を損ねそうだ。ターリックは黙って空を見上げた。砂漠は好きではないが、広がる空は美しい。目を凝らせば、濃い群青の中に滲むような薄紅色がある。星の色もさまざまだ。
 もし、右目に光をとらえる力が残っていれば、もっと奥深くまで、さまざまな色合いを見ることが出来たかもしれない。
(…父さん)
 幼い日、目の前で息絶えた無残な父の姿を、今でも思い出せる。ターリックは無意識に懐を探った。失った片目の象徴、幼き日の悲しい別れ。手のひらに収まるほどの塊は、ターリックの弱くなりかけた心にいつでも揺るぎない道しるべを示す。
 衣擦れの音がして、ターリックは物思いから抜け出す。セイフは完全に眠っている。古いマントを引き上げたようだった。ぼろぼろになった分、肌になじんで手触りがよさそうだが、薄そうでもある。ターリックは自分の荷から布を出すと、そっとかけてやった。
 目指すバスマはいったいどんなところだろうか。セイフの身体の細さを見るに、貧しいところなのだろうか。
(本当に商売をする気があるのか…)
 最初こそ驚いたが、ターリックは『バスマの巫女姫』に纏わる噂話を全く信じていない。噂とは自然に尾ひれがついていくものだ。自分の前の商人たちがどうなったか…本当のところは分からない。損しない程度に利益を得て、更に幼いころから求めているものを見つけられるなら。そんな打算でターリックは動いているつもりだが、疲労は不安となって心を陰らせる。本当に、商談など存在するのだろうか。
 負の思考は嫌いだ。ターリックは考えを断ち切ると、目を閉じた。


***


 僅かな休憩は、旅人達に気力を与えた。翌朝、陽も登らぬうちから隊商は黙々と見飽きた砂の山の尾根を辿る。
「着いたぞ」
 何の前触れもなく唐突に、セイフが立ち止まる。ターリックは、セイフの指す方角を見た。見飽きた地平線に、城塞らしき影が見えた。いつのまにかのぼりはじめた太陽の白々とした光が、城塞を淡く染めている。遠目にも城砦は高く、その向こうにあるはずの木々も建物も全く見えない。広大な砂漠の小さなオアシスには不似合いな城塞だった。
「なんだあの物々しい壁は」
「バスマの歴史は古い。あれは祖先が築いたものだ…あれはあれで、なかなか役に立っている…この辺りは強い風が吹く。あの壁はそれを防いでくれる」
 案内人は話しながら首もとの布を鼻先まで引き上げ、剣を抜いた。刀身が鞘と擦れて、澄んだ音を辺りに響かせる。
「戦うことは得意か」
「私は商人だぞ」
「そうだったな、失礼した」
 セイフはターリックと後ろに続く隊商を止めると、手綱を振る。ターリックはセイフの向かう先に目を凝らす。巻き上がる砂の陰りの向こうに、点々と影が見えた。大人数ではない。どうやら城門のあたりに集まっているようだ。
「セイフ!待て!一人でどうするつもりだ」
 初めて出会った時の剣技の鮮やかさは覚えている。だからといって、ひとりでどうにかなるものでもない。
「大丈夫だ、あれは良い連中ではないが、何もしてこない。ただ、ターリックたちを素直に通すように話を付けるだけだ」
「なら、一緒に行こう」
「いい、邪魔だ」
 セイフが再び城塞に向かって走り出した。昇りはじめた太陽の光が、セイフの髪の上を流れる。ターリックが追おうとすると、振り返ることなく手を突き出して制した。
「ほんとうに愛想がないことで」
 ターリックは仕方なく待つことにした。隊商にも戦えるものがいるが、疲れている。案内人が大丈夫だ、と言い切るのに無理をしても仕方ない。
 心配するまもなく、セイフが戻ってきた。
「話はつけてきた。早く中へ」
「ようやく休めるか」
 隊商は早足で城塞を目指した。近づくごとに城塞が大きくなる。大国を守る城塞でも、これほどのものはなかなかないだろう。思わず見上げるターリックに、いきなり声がかけられた。
「お前が最後の商人か」
 小馬鹿にしたような、太い声だった。振り向くと、いかにも盗賊、といった風情の男が駱駝の上で腕を組んでいる。駱駝が可哀そうになるほどの立派な体躯の男だった。年はターリックより少し上だろうか。
「…眼帯か。人相の悪さは俺と変わらねえな。だが、色男だ。見に来たかいがあった。なあ、セイフ」
「アジーズ、止さないか」
 セイフが二人の男の間に入った。アジーズと呼ばれた男は、不躾にターリックを何度も見ると、突然セイフを抱き寄せた。
「セイフとマレイカは俺のものだ。手は出すなよ」
「何を馬鹿なことを」
 セイフは絡み付いた手を即座に振り払った。アジーズはげらげらと笑う。
「この地はもうすぐ俺のものだ、あながち間違いでもないだろう」
 セイフは忌々しげにアジーズを睨むと、城門に向かった。盗賊たちは下品な野次を飛ばし、隊商を不快にさせる。ターリックも気持ちは同じだったが、疲れ切った隊商の到着を見計らったように細く開かれた城門を潜るまでは我慢した。苛々して余計な体力を使えないくらいに、ターリックは疲れていた。
 城門を潜る隊商の歩みは自然と速くなる。セイフ以外の誰もが、緑と水を想像したはずだった。だが、期待はすぐに裏切られることとなる。
「…ここが、バスマか…」
 古びた城門を潜ってすぐ、ターリックは辺りを見回した。そこには見飽きた土色が広がっている。地面は乾き、背の低い家々の煉瓦は乾いて剥がれていた。期待した木々の緑はあるにはあるが、葉には元気がなく、幹も細い。
「乾いているだろう、ここは。もうすぐ最後の水場が干上がる」
 思わず駱駝を止めたターリックに、セイフが笑った。はじめて見た笑顔だが、そこには自嘲という余計なものが付加されている。
「驚いたか」
「そうだな、驚かなかったと言えば嘘になる」
「歓迎しよう、滅びのオアシスへ」
 ターリックが正直に答えると、セイフは前に向き直りながら言った。

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