置いてけの沼

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 『全く、悪餓鬼めら。こんな真夜中までぴいぴいと田圃たんぼの蛙どもより騒ぎおって。…みろ、蛙どもが驚いてどこぞに行ってしまったわ。げことも鳴かん。
 だが、おかげで静かな夜じゃ。ほれ、風鈴の音がよう聞こえて、なんとも涼しげではないか…これ、騒ぐでないというに。お前らがまた騒いでは、静かな夜が台無しだ。
 なに?じじが寝物語をすれば静かにするとな?
 …急に言われても、何も思いつかん。お前らに付き合っていては、この爺のお迎えが早う来てしまうわ。
 それにしても爺の血筋はみな子沢山とはいえ、ようもまあこんなに増えたものじゃ。爺の母、つまりお前らの曾祖母は細いひとであったが、この爺も入れて男ばかり七人も子を生したしのう。爺の兄弟の嫁たち、さらにその子たちまで、よう産んだものじゃ。ここにいるこまかいのだけで十人も居る。曾祖母からみてひ孫とは…はて、何人居ったのだったか。
 この爺のところだけは子に恵まれなんだが。
 なに?寂しいかとな?
 お前らが代わる代わる押しかけて来るからの、残念ながら全くそんなことは無いわ。折角丹精した庭の野菜も、みんなお前らが食ってしまうしの。爺はもっと静かに暮らしたいというに。
 …まあ、ばあさまは喜ぶが…子どもが好きだからのう。今もほれ、夜だというに、飴湯を用意しておる。今日は暑いゆえ、ようく冷ましてくれるじゃろうよ。寝る前に甘いものなど…ほんにばあさまは悪餓鬼どもに甘いわ。なんじゃそのよい顔は。ばあさまの飴湯はほんに旨いが、飲んだ後に口をすすがんと、この爺がうんと怒るでな。
 分かっておる、お前らはばあさまに会いたくて泊りに来るのだろうが。怖い爺は邪魔かもしれんが、生憎あいにくここは爺の家じゃ。
 …これ、聞こえて居るぞ。爺の顔は怖いと申すか?ふん、余計な世話じゃ。
 わしは若いころ、藩内でも一二を争うほどの男ぶりであったのだぞ。なんじゃその疑いの目は。
 そうじゃ、どれ、わしの若いころの話をひとつ、してやろうではないか。聞いたらさっさと寝るのだぞ、よいな?』


 置いてけの沼、と言われる小さな沼があった。どうやらとおり名だが、本当の名前は誰も知らない。
 人里から少し離れた森の中に分け入っていくと、唐突にその沼はある。どこに水源があるのかもわからない、まんまるいかたちをした沼だ。水面は鏡のように、鬱蒼うっそうと茂る森の木々を映している。
 この沼には常に人気がない。聞こえるのは風のざわめきだけだ。それは沼の名の由来に起因する。
 沼からは魚一匹とってはならない。沼に棲む何かが、『置いてけ、置いてけ』と言ってどこまでもついてくる…声に振り返っても姿はない。 急いで魚を返しても後の祭りだ。得体のしれない声は、夜な夜な盗人ぬすっとを苦しめて、ついには取り殺してしまうのだ…という昔話は、いつからあるのだろうか。とにかく人々は怖がって、この沼に近づくことはなかった。


『これ、妙な声をあげるでない。何、これは怪談かと?
 そんな恐ろしげな話ではないわい。そんな話をしたら、ばあさまに怒られてしまうわ。
…そうだな、ちいとだけ怖いところもあるかもしれんが、その時はばあさまと爺のあいだで寝るとよい。だから怖いものなど何もありはせんよ。だから行儀よく聞くのだぞ』


 獣や鳥たちの気配すらまばらな置いてけの沼に、最近になって若い侍が現れるようになった。
 着古した木綿着の侍は、ぼんやりと釣り糸を垂れている。傍らの魚籠びくには何も入っていない。そもそも釣り糸には針がない。
 彼は一人になりたくて、時折ここに来ている。風だけが揺らす水面みなもに漂う釣り糸を見ていると、気持ちがいだ。夏の盛り、森の木々の隙間からは入道雲が見える。ここに来るまでに彼はたんと汗をかいたが、森の外の暑さが嘘のように、沼には涼風がふいている。沼の岸から水面にせり出すようにして、満開の木槿むくげが白い花を揺らせている。彼はうっとりと目をつむる。最初こそは恐ろしいと思ったが、要は何も盗らなければよい。侍にとってここは、唯一落ち着ける憩いの場所となっていた。
「もう、夕暮れか…」
 次に目を開けた時、辺りは紫色に染まりつつある。ほう、ほう、とふくろうが鳴いて、さすがに妖しい雰囲気が漂い始めていた。こんな時間までいたのは初めてだ。だが侍は沼のうつくしさに目を奪われる。暗く濃い緑の中で、木槿の花だけが白く浮かび上がり、沼はそれを仔細に描く。さやさやと吹く風に、ぽとり、と一輪だけ落ちて、やさしく水面を波立たせた。
「なんと…」
 思わず口走る侍の頬を、風がそっと撫でていく。侍は我にかえると急いで釣り具をしまい、帰路についた。通いの道場から長く帰らなくては、母が心配するだろう。
 この夕暮れから、侍は不思議な声に悩まされることになった。
 これが、語り部たる老人・戸村甚助じんすけのずっと若いころの姿である。甚助は色白で目元の涼やかな若者で、背は高く痩せてはいたが肩幅が広く、祝い事などにかみしもをつけた姿などは、若い娘どころか古女房たちまでもがため息を漏らすほどの凛々しさであった。
 ところが本人はそのことを快く思っていなかった。甚助には若さゆえの青臭い捻くれたところがある。女たちが自分の見てくれを騒げば騒ぐほど、しんと冷えていく気持ちを野放しにしていた。
 甚助が戸村家の五男だったことも、その性格に拍車をかけている。戸村の家は代々馬廻組に勤める、禄高七十石の家だ。父母と食べ盛りの子が七人、通いの下女はいるがかつかつの暮らしである。食事時は少ないおかずをめぐっての兄弟喧嘩は、近所に轟く戸村家の名物となっていた。
「よいですか、しっかりと励むのですよ。さすればよい婿入り先にご縁がありましょう」
 甚助たちの母は、子どもたちが学問所や道場に出かけるときには必ずそう言って送り出した。美しいひとで、戸村の家に嫁いだばかりのときは大人しく慎ましやかだったと、父がいつだか酔って話していたが、甚助たちは信じない。母は甚助たちが喧嘩を始めると、はたきを持ち出してきて追い回すようなちゃきちゃきしたひとである。怒ると父よりも怖かったが、普段は優しい母であった。
 母はお世辞にも裕福とは言えない家計を上手に切り回していて、甚助の知る限り愚痴一つこぼした事はなかったが、それでも子供たちには苦労させたくないと思うところがあったのだろう。だから必ず、出がけにそう声をかけたのだった。
 母の気持ちはよく分かる。ありがたいとも思う。だが婿に入って他人に気を使うなど真っ平だった。内心を隠そうとしない甚助の冷たい雰囲気がまた、本人の思惑とは別にわかい娘たちを惹きつけていた。
 甚助以外の兄弟たちはごく素直に、母の言葉を受け入れ己を磨くことに励んだ。その甲斐あって、やがて長男が格上の家から嫁をとり、次男三男と立て続けによい縁に恵まれて家を出た。四男も縁談がまとまりそうな気配だ。藩内では密かに『戸村の息子たちなら間違いなくよい婿に』とまで言われ、年頃の婿取りの家からは熱い視線を送られている。
 だが、それも甚助でつまずきそうな気配だ。甚助は女というものがどうも苦手だった。始終何人かで固まっていて、何が楽しいのかよくくすくすと笑っている。時折稽古帰りの甚助を物陰から見ては何事か囁きを交わす。いつだったかその中の一人が甚助の行く先に立っていて、草履ぞうりが壊れて困っているというので直してやったことがある。その娘は草履を直す甚助の俯いた顔を惚けたように口を薄く開けて見ていて、甚助が視線に気付くと慌てて目を逸らした。全く、女というものの行動の意味が分からない。甚助は学問より剣術を好んで毎日のように道場に通っていたが、その道筋は憂鬱なものとなっていた。だから鬱憤うっぷんが溜まると、甚助は置いてけの沼にゆく。沼には誰もいない。
 唯一の、憩いであったのに。
 甚助は道場帰りにため息をつく。出がけについ癖で、釣り具を持ってきてしまった。だが行くところがない。仕方なく甚助は沼に向かいかけた足を、帰路に向けた。
「おう、今日は釣れない釣りは止めか。なら、一杯どうだ」
 声を掛けたのは藤堂辰之進という男である。年は甚助の四つ上で、病弱の父に代わってすでに跡目を継ぎ勘定組に勤めている。三十路みそじを向かえる前にして切れ者の能吏として評判が立つほどの男だが、それを得意にしない性格の素直な男だ。
 甚助は空を見上げた。茜色にはまだ早い空が、二人の上に広がっている。このところ続いた夕立の気配もなく、暑気は夜になっても続くだろうと思われた。
「まだ飲む時刻には早かろう」
「そうそっけないことを言うな。今日の祝い酒を負けた俺が奢ってやろうというのだ、付き合え」
 辰之進はたもとから突き出た腕を擦りながら言った。逞しい腕は、よく見れば赤くなっている。今日の稽古試合で甚助が打った跡だった。この勝敗によって、道場の席次が変わっている。甚助は四席から三席にあがり、辰之進は三席から四席におちた。二人の腕前は拮抗していて、常に席次を競っている。だがそれも、これで終わりかもしれない。辰之進は上役に気に入られて仕事が増えている。城勤めの傍ら無理をして続けてきた道場通いが、いよいよ難しくなってきた。
「よし、では付き合おうか…だが、五ツ(午後八時)前には帰るぞ」
 例の『置いてけ』は、その時刻から半刻するかしないかで始まる。はじめて聞いたときは思わず刀を抜くほど動揺したが、相手は何をしてくるわけでもないので、もう慣れた。慣れたとはいえ、外で対峙するほど肝が据わっているわけではない。
「ふうむ、ちと早いが…まあいいだろう。よい店を見つけたのだ」
 そう言いながら顎に手を当てる辰之進は、ちっとも楽しそうではなかった。人当たりのよさそうな顔には、微笑すら浮かんでいない。
 ―――これは、何かあるな。
 と、甚助が軽く思ったことは、外れてはいなかった。賑やかな通りから少し離れた、こぢんまりとした店の隅に座ると、辰之進は辺りを見回し、声を潜めた。
「一昨日のことだ、登用試合があったのを、知っているか」
「知らんが…兄は何も言っていなかった。登用試合など、そう珍しいことではあるまい。殿は武芸のお好きな方だ」
 甚助が言ったとき、酒が運ばれてきた。年増の女将が、甚助をちらりと見ていく。甚助は気にも留めない。辰之進が笑った。
「ほんとうにお前という男は。それで愛想があれば良家に縁付くだろうに」
「俺はひとりでいい。婿など真っ平だ」
 戸村家の息子たちが婿がねとして人気が高いのは事実だが、からかいの目で見る者も少なからず居る。戸村の家は婿養成処だ、と道場仲間がやっかみ混じりに言ったことがある。そのときは流石に頭にきて、甚助は即座に言った者の横っ面を殴り飛ばした。
「いつまでも部屋住みで釣り三昧というわけにもいくまい」
 辰之進が猪口ちょこに口をつけた。甚助もそれに倣う。
「俺がどこで何をしようが、藤堂には関係ないだろう」
 甚助にも分かっている。兄夫婦にずっと世話になるわけにはいかない。身の置き場がうまく見つからない自分に、苛立っている。それでなくても例の声で寝不足だ。この頃、甚助は少し痩せた。
「話がずれたな、もとに戻すぞ。とにかく、登用試合だ。そこで、ひと悶着あったのだ」
 浪人の多くは己のうらぶれた生活に満足していない。機会さえあればどんな細い伝手つてでも辿って仕官したいと願っている。藩主はことのほか武道に長けるものを好むので、この藩には腕に覚えのある男たちが集ってくる。太平の世とはいえ、あまり大っぴらに登用すれば、お上に翻意あり、ととられかねない。そこで、藩主が国元にいる年に数度、御前で登用試合をおこなっているのである。
「今回の試合、俺も末席で見る機会に恵まれたのだが」
 辰之進はぐい、と酒を一息に煽った。甚助が注ぎ足すと、それもまた煽ってしまう。
「ゆっくり飲んだらどうだ」
「これが飲まずにいられるか。…思い出すだけでも身震いするような試合だった。その男、名は確か…桶谷といったか。大男でな」
 そういう辰之進も、背は低くない。余程の大男なのだろうか、と甚助は想像した。
「とにかく強い。他の志願者をあっという間に地に伏せた。その場にうずくまり動かなかった者もいる…力も強いが、動きもはやい。全く、鬼神のごとくとはこのことだ」
 そこで止めておけば良かったのだがな、と言って辰之進はまた酒を飲んだ。
「殿が…こちらも誰か出てみよ、と仰ってな。ほんの軽いお気持ちであったのだと思うのだが、それがよくなかったと言おうか」
 周囲にいた者たちはいずれも腕に覚えのある者たちばかりだったが、三合と持たない。そのうちの一人は昏倒して泡を吹く始末。
「まあ桶谷にとっては良かっただろうが…当然お召し抱えとなったわけだが、殿の機嫌はよくない。武道にて精神を鍛えよ、と奨励してきたのに、素性のよく分からない浪人に家中の者たちが、全く歯が立たなかったのだからな。ちかく、もう一度試合が行われる筈だという噂だ。桶谷だけが総当たりの」
 そこでだ、と辰之進は膝を打った。
「お前、出てみないか」
 思いがけない誘いに、甚助は口に運びかけた猪口を置いた。
「何を言っている、俺にそんな資格はないだろう」
「我らの通う道場は、藩随一と言われている。そこの三席だ、おかしいことではない…それに俺は、お前の実力が一番だと思っている。若さや立場で下の席次に甘んじなくてはならないのが、おかしいのだ…出ろ、俺が上に口を利いてやる」
 辰之進の呂律ろれつが少しあやしい。酒は強い筈だが、珍しく酔っている。手酌で酒を注ごうとする辰之進を甚助はとめた。
「もうそれくらいにしておけ」
「戸村、これは好機だ。お前が勝てば、何某なにがしかの役職をいただくこともあろう。婿にゆかずにすむぞ」
 それだけ言うと、辰之進は勘定のために立ち上がった。
 外に出ると、薄く曇った空にぼんやりとした月が浮かんでいる。昼の暑さは夜気の中に淀んで残っていた。ややふらつきながら歩く友の横を、甚助は歩く。…これでは、送ってやらねばなるまい。幼少から仲の良かった二人の家はそう離れていない。辰之進を送っても、五ツを少し過ぎるころには家に帰れるだろう。
「なあ、戸村。…実は先ごろ、見合いをした。このままゆけば年明けには祝言しゅうげん、となろう」
「そうか」
「全く、おまえという男は。祝いの言葉の一つも言ったらどうだ」
 気づけば藤堂家の前である。辰之進は急に背筋を伸ばすと、赤い顔で笑った。
「少し前に、道端でお前に鼻緒を直してもらった娘がいたろう。それが見合い相手だ」
 甚助は記憶を辿る。確かにそんなこともあったが、記憶に浮かぶ相手の顔をよく覚えていない。
「…試合の件は、俺の好意と悪意だ。諦めて精々腕を磨いておけ」
 辰之進はそう言って、すたすたと家に入っていった。


『と、まあそんなわけで、爺は桶谷という男と心ならずもしあうことになってしまった。この桶谷という男、結局は殿に気に入られての…しかしこのときはまだ、殿の不機嫌の元であった。
 藤堂とは、先ごろ亡くなった元家老の藤堂様かと?そうじゃ、その藤堂に違いない。あの男はほんによい男での…この昔話を知るたった一人であったが、もう彼岸ひがんを渡ってしまったわ。長寿は徳というが、そんなことはない。大事なものを見送るばかりで、寂しいことこの上ないわ。
 おお、すまん、ついしんみりしてしまったな。では続きを話そうか。若いころの爺はそうやって自らの意志に関係なく、桶谷と試合をする羽目になってしまったが、同時に、もうひとつ厄介を抱えていた。…そうじゃ、あの不思議な声じゃよ。
 藤堂を送った夜、今思えば爺も酔っていたのであろうなあ。時は思った以上に過ぎていて、声を帰り道で聞くことになってしまっての』


 甚助は、例の声に振り返った。武家の屋敷が並ぶ道に人影はない。
「まだ五ツ前かと思ったが…」
 じっとりと暑い夜だというのに、甚助の背中を流れていく汗は冷たい。ふと、持っていた提灯の明かりが消えた。甚助は提灯を捨て、刀に手を掛けてから、思わず苦笑した。
「俺は馬鹿か…相手は物の怪だろうに」
 その声に呼応するように『置いてけ』と声がかかる。路地の奥からひびくようであり、地から湧き上がるようであり、または天から降ってくるようでもあった。しわがれて呟くような小声なのに、妙に耳に残る。
「何を置いていけというのだ。俺は沼から何も盗っていない」
 甚助は虚空に話しかけた。言葉を返すのは初めてのことだ。これで何かが起こるのか…刀の柄を握る手に力が入っていることに、甚助は気づかない。
 暫しの間のあと、やはり『置いてけ』と声がした。甚助が落胆に力を抜いた直後、変化は起こった。
『心を』
 先ほどよりも聞き取りづらい声が、確かにそう囁いた。今度は出所がはっきりと分かる。甚助は咄嗟に駆けた。声の気配が遠ざかる。幾度か路地を曲がったその先に、ひらりと舞う袖が見えた。暗い中なのに、奇妙にはっきりと浮き立つようにして見えたその袖には、黒っぽい地に白い模様が散っていた。
「心…?」
 甚助は荒い息の中で言った。何が何だか分からない。だが一つ、分かったことがある。

 『置いてけ』は、女だ。


 辰之進が言ったことは現実になり、御前試合はおこなわれることになった。甚助の意志に関係なく、参加の手続きも済んでいる。母は随分と心配したが、甚助はおとなしく受け入れることにした。甚助は『置いてけ』に憑かれている。伝承通りなら、いずれ無くす命だ。ならば、その前に何かを成し遂げてみたかった。
 勝負は十日後、城内の広場…甚助が立ち入ったこともない場所で、しかも藩主の御前である。場に呑まれはしないだろうか、実力を出し切れるだろうか。出し切れたとして、勝てるだろうか。相手は、甚助とほぼ実力が同等の辰之進が腕前を評した男である。
 一日、二日と、甚助はできるだけいつも通り過ごした。辰之進が一度、友を気遣って励ましたが、甚助は秘めた諸々の不安を話すことができなかった。甚助は強がりで、見栄坊だ。自分でも嫌気がさすくらいに。そしてそんな自分を変えることができない。
 夜な夜な現れる声は、いつもどおり同じ台詞を繰り返す。だが甚助は、もう怖いとは思っていない。試合まで五日となった夜、自室に端然と座し目を瞑る甚助のところに、いつものように声は現れた。
『置いてけ…置いてけ』
 甚助は目を瞑ったまま、口角を上げた。
「置いてけよ、毎日同じでは飽きるぞ。俺はもうお前を少しも怖いと思っていない。これでは取り殺しがいもなかろう」
 口だけを動かして、甚助が言った。物の怪は何も言わないが、気配がそろそろと近くに寄ってきているのは分かる。…物の怪もまた、怖いのだ。臆病なのだ、と甚助は唐突に思った。物の怪を、近しいものとして感じる。
「置いてけ、俺はお前に殺されてやることはできんかもしれん。五日後、俺はある男と剣の試合をすることとなった。…強い男らしい、俺も剣には自信があるつもりだが」
 桶谷に負けて昏倒した男は、幸い意識が戻ったが、腕の骨を砕かれたという。打ちどころが悪ければ、命を落としたのではないだろうか。甚助は今、物事を悪い方にしか考えられなくなっている。
「馬鹿正直に言ってしまえば、俺は試合が怖い…情けないことだが」
 甚助はゆっくりと目を開けた。目の前には何もない。見えないだけで、気配はすぐ目の前にある。
「置いてけよ、俺を取り殺したければ…そうだ、俺と賭けをしないか?もし、俺が試合に勝ったら、お前は俺に姿を見せよ。俺が負けたら…その時はその場で、俺の命をとってくれ。お前は毎晩現れて俺を弱らせる手間が省けていいだろう、悪い賭けではないはずだ。俺が勝っても負けても、俺の命はお前のものだ」
 ほんの思い付きで言ったことだった。だが甚助は、無性に物の怪の姿が見たかった。これほどちかくに気配があるのに、姿が見えないのがもどかしい。  暫しの静寂のあと、虚空に腕が現れた。恥ずかしがるようにして、少しずつ現れた腕は女のもので…袖の柄は見たこともない深緑、裾に白い花が散っている。
 宙に浮くきれいな女の手を、甚助はそっと握った。
「腕だけでは、足りんよ」
 甚助は微笑む。物の怪の手が、甚助の手の中で動く。
「よいか、賭けだ。忘れるなよ」
 甚助が一方的に決めてしまったことを了承したように、物の怪の手は動かない。そしてそのまま、すうっと消えた。
 それから残った日を、甚助は寝食以外の時間すべてを稽古に費やした。場所は誰も来ない置いてけの沼の辺だ。沼は甚助のみっともない心情を知っている同志である。怖いことは何もなかった。甚助は一心不乱に木刀を振る。疲れると沼の水で顔を洗った。沼はただ静かに、甚助を見ている。約束事をした日から、物の怪は甚助のもとに現れない。
「どうした置いてけ、俺を諦めたか」
 試合を翌日に控えた夕暮れ、甚助は沼に問うた。沼は静かなままだ。 はじめて夕暮れを過ごしたときに見た木槿むくげの白い花は、あれから随分時間がたったというのに全く同じうつくしさを保っている。まるで、時が止まっているかのようだった。
 物の怪はもう現れないのではないか…漠然と甚助はそう思っている。もし試合に勝って、何某かの役を得たとしても、夜に物の怪が来ないならば、その生活は味気ないのではないだろうか。…婿にいかずひとり気ままに暮らすことが、望みであったはずなのに。
 甚助はここ数日で頬がこけた。だがそれは物の怪に憑かれたからではない。はげしい鍛錬の結果が、甚助のすがたに凄味を加えたのだ。


『どうれ、そろそろ眠くなってくる頃合いかの。このあたりでいちどしまいにしようか。
 …これこれ、そう暴れるでない。寝物語のつもりが、すっかり目を冴えさせてしまったわい。
 分かった分かった、では先を話してしんぜよう。眠くなったものは寝てしまってよいぞ。…安心するがよい、ばあさまの飴湯は、明日に取っておいてやろう。
 とにかく爺は、試合の日を迎えた。その日は特に暑い日でのう。昼過ぎの陽の高い時刻から始まった試合に集まったものは皆汗だくでなあ。 話を持ちかけた辰之進などは、顔は強張って白くなっているのに、滝のような汗を流していての。爺はそれがおかしくてならなんだ。…つまり、爺はもう、達観してしまったのよ。…いや、違う。やけくそになってしまったのだ。心は妙に凪いでいてな、いよいよ爺の出番となった時も、きびきびと、殿に向かって立派な辞儀ができた。まるで魂が抜け出て自分を見下ろしているような、冷静な気持ちで、桶谷と対峙することができたのだ』

 
 城の中庭はそれはよく手入れされていて、甚助が摺り足で移動するたびに、砂利じゃりが小気味良い音を立てる。
 ―――なんと、熊のような男だ。
 甚助は正面に立つ桶谷の姿を上から下までゆっくりと見た。たすきがけをしてむき出しになった腕は、日に焼けて黒い。どうやったらこんなに逞しくなるのだろうか。甚助よりも随分と年上に見えたが、鍛えられた身体には闘気がみなぎっていた。
「戸村、と言ったか」
 唐突に、桶谷が口をひらいた。甚助は軽く顎をひく。
「おぬし、勝ってなにを望む」
「桶谷殿と同じことを」
 甚助が即座に答えると、桶谷の目が楽しそうにきらめいた。
「おぬしの前の者たちは、もって五合。その若さで、どこまで持つか」
 敵意は全く感じなかった。ただ、正眼に構えた木刀がごうっ…と唸っただけだ。
 甚助はその場をうごかず、身体を大きくそらして避けた。「おお」と周りから歓声が起こり、つまらなそうに見ていた藩主の扇子が止まる。それくらい、甚助の身のこなしは速かった。桶谷の目つきが変わる。
 ―――置いてけ、どこかで見ているか。賭けを忘れるなよ。
 甚助は桶谷の剣を受けることなく、徐々に下がりながら鋭い剣筋をかわした。桶谷の剣は重い。あれを正面から受けては、甚助の身構えはあっさり崩されるだろう。避けながら、一瞬だけ甚助は周りを見た。物の怪は、いるだろうか。
 甚助は自分の荒い息を聞きながら、相手の隙を待った。
 桶谷の額を流れる汗が目蓋に落ちかかる。甚助は逃げの足を、攻めに転じた。砂利が鳴って、そのあとに木刀の重くぶつかり合う音が響く。
「くっ」
 さすがに、思い通りにはいかない。隙をついただけあって、まともにぶつかりあうことは避けられたが、それでも桶谷の剣は重い。
 甚助はこの一撃を機に、攻撃に転じた。避け続けても隙を読めないなら、こちらが積極的に動くことで、相手の乱れを作ってやる。木刀の重なる乾いた音が、この場を支配する。 
 ぎらぎらとした太陽が、はげしく動く二人を焼く。流れ落ちる汗をぬぐう暇などない。
「五合どころではなかったな、すまなかった」
「……」
 桶谷がいうが、甚助は答えられない。肩で息をするのを止められなかった。暑さと疲労で、体力に限界が来ている。
 そろそろ、勝敗をつける頃合いがきている。二人は示し合わせたようにお互いを見つめながら後ずさる。桶谷は木刀を正眼に構え、甚助は下段にうつした。
 仕掛けたのは桶谷だ。試合が始まったころと全く変わらぬ速さで、甚助に迫る。振り上げるかと思った木刀を、肩のあたりで水平に寝せた。…来る。避けられない。
 甚助は両足をひらき余力のすべてで踏ん張ると、胴を狙ってきた木刀を下から跳ね上げた。桶谷の目が光る。はじかれた木刀はすぐに上段に構えられる。甚助は身を低くし気合の声を放つと、下段から力の限り振り上げた。…今までと違った、鈍い音がする。桶谷が膝をついた。
 立会人から、勝者を告げる声がする。どよめきが起こる。藩主も立ち上がっている。だが、甚助には何も聞こえない。
 甚助は桶谷に礼をし、そして藩主、観衆と浅い礼を続けて、よろよろと歩きだした。観衆の中から辰之助が出てきて、甚助を支える。
「よくやったな、戸村!たいしたものだ!」
 辰之助の喜ぶ声が、その場での甚助の最後の記憶となった。死ぬ、と思った。
 ―――置いてけ、約束が、違うぞ。まだお前の姿を見ていない。
 落ちる意識の中で、甚助は思った。


『情けないことじゃが、爺は極度の疲労と暑さですっかりまいってしまってのう。…これ、笑うでない。それほど、桶谷という男は達人だったのじゃ。それからもう一度、桶谷にどうしてもと言われて試合をしたが、その時はもうあっさりと負けた。
 この爺が勝てたのは、賭け事があったからやも知れぬ。爺はどうしても、置いてけの顔が見たかった。何故かと?何故じゃろうのう。お前らがもう少し大きゅうなったとき、分かるかもしれんの。
 気を飛ばした爺が目覚めたのは、自分の布団の上じゃった。縁側は開けられていてな、月がきれいな妙に静かな夜だった。そうだな、ちょうど今のように』


 甚助は布団の上に起き上がった。耳がきいん、となるほどに静か過ぎる夜である。
「…勝ったのだな、俺は」
 自分が何処にいるのか理解したあと、甚助は記憶を遡る。あの暑さの中での戦いを。戦いの場には衆目があった。が、記憶の中ではその場には桶谷と二人きりだ。構える木刀も、陽光を照り返す真剣になっている。
「よく、勝てたものだ」
 甚助は己を抱えこんだ。
 最後の一太刀、桶谷は本気だった。つまりそれは、甚助の実力を認めたからに違いないのだが…。
「あの一撃が当たっていたら、俺は死んでいたかもしれない」
 今頃になって怖いと思った。甚助は震える身体をどうすることもできず、己を抱えたまま布団にうつ伏せた。物の怪に命を賭けておきながら、命が惜しかった。
 そのとき、甚助の背に微かな重さが添えられる。頼りない重さは、ゆっくりと甚助の背をさすった。
「置いてけ、か」
 背中の気配は何も言わない。だが、縁側から差し込む月明かりは、横たわる甚助の前に、なよやかな女の影をうつしている。
「情けないだろう、だが、これが俺だ。取り殺す甲斐かいもないだろう」
「…もっと昔のことです。あの沼には沢山の人がやってきて、沢山の魚を釣ってゆきました。沼の魚は僅かになり、人々は恩恵を受けたのに、あとに残るのは荒らされた沼だけ…私は悲しくて、人が立ち入らないように少し脅しただけです。ですが貴方はやってきた。そして…貴方は、心を持ち去りました。…この、私の」
 今までの『置いてけ』の声ではない。若い女の声だ。…いつの間にか甚助の震えは止まっている。
「私は貴方にとられた心を、取り返したかっただけなのです。なのにどうしても、離れ難かった」
 しみじみと物の怪がため息をつく。
「置いてけよ、お前は何者なのだ」
 振り返りかけた甚助の目に、まず映ったのは着物だった。深緑の地に描かれているのは、まっしろな木槿の花だと、甚助は初めて気づいた。


『おう、ばあさまが呼んでおる。甘いよいにおいがする。話はこれで終いにしよう。…何?結局『置いてけ』はなにものだったのかと?さて、それは秘密じゃ。昔話のおわりはいつも、めでたしめでたしでおわるのだ、それでよいではないか。…だから爺は嫌いじゃと?嫌いで結構じゃ。お前らはうるさくてかなわんよ。
 だがまあ、不思議な力をもつ物の怪のこと、案外近くにおるかもしれぬのう、たとえば人に化けて。これこれ、また悲鳴をあげる。うるさいというに。物の怪にも良いものもおる、置いてけはよい物の怪じゃよ。やさしくて、よい物の怪じゃ。少なくとも、爺の知り合ってからの置いてけは、そうじゃよ。…ずうっとな。

 さて、ばあさまの飴湯を飲もう。飲んでよい夢をみるといい。ばあさま―――ましろ、早うこのうるさい子鬼めらを、寝かせてしまおうぞ』





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