燦々七五三

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 十月初めの青空は高い。綿菓子が崩れたようなうすい雲が流れている。
 古く広い公園の木々は、穏やかな風に色づいた葉を落とし、ブランコに腰かける優駿の足元を彩った。
 黄色の滑り台、赤いジャングルジム。全ての遊具が、枝葉の隙間から漏れるわずかな日差しでつやつやと光る。まるで、ちいさな子どもたちがくるのを今か今かと待ちわびているようだった。
 だが残念ながら、公園には優駿しかいない。
 優駿は高校一年生である。ブランコを喜んで漕ぐ歳でもない。ただベンチ代わりに腰かけて、時折揺らすだけだ。ブランコは僅かな揺れでは不服なのか、きい、きいと軋んだ音をたてた。
「……どうすっかな」
 優駿は上向いた。木々の隙間から見える空が、痛いほどに青い。
 彼は悩んでいた。考え過ぎて、その悩みが小さいのか大きいのかも分からなくなっている。
 無人の公園は、どうしてこうも物悲しいのかと、優駿は思う。
 『明日の日曜日は絶好のお出かけ日和になるでしょう』と、昨夜のニュースで言っていた気がする。けれど公園には人影ひとつない。優駿はいつもこの曜日この時間に、この公園を通り抜ける。真冬真夏をのぞけば親子連れでにぎわう公園なのに、自然がつくりだす音しかないことが、とても奇妙だった。
 奇妙といえば、優駿もまた奇妙なもののひとつにあげられる。彼は常に、この公園の遊歩道を自転車で脇目もふらずに通り抜けてきた。今まで一度も、芝生に自転車を乗り捨てて、ブランコに腰かけたことはなかった。乱雑に乗り捨てた自転車のかごからは、バッグがはみ出ている。それを見て、優駿は思い切ったように立ち上がった。いちど外れた道を修正する気には、なれそうもない。
 優駿は滑り台をにらみつけた。……決めた。今日は遊び倒してやろう。遊具たちだって、誰もいないより嬉しいはずだ。
 勇み足ぎみに滑り台に寄り、階段の手すりをとろうとした時だった。
「ペンキ、ぬりたてだよ」
 鼻にかかった、まるい声がした。優駿はあわてて手をひっこめる。よくよく見れば、階段の登り口には安っぽいビニール紐で段ボールがくくりつけられていて『ぺんきぬりたて』と書いてある。小さな子への配慮なのか全部ひらがなの手作り看板は、下の方にくくってあった。背の高い優駿の目線には入りづらい。
「ありがとう、教えてくれて」
 優駿の振り返った先に、少女がひとり立っている。「ううん、いいよ」と答えながら、少女は頭を振った。おかっぱの髪が、肩先でゆれる。
 少女はじっとこちらを見ている。小さい子どもの瞳は綺麗過ぎて、潤んでいるようにみえる。
 小さい子どもに接する機会は、優駿にはあまりない。何を話せばいいのか分からず、沈黙は気詰まりだ。何か話さなければ。
「えーと」
 優駿が口をひらいたと同時に、少女は赤いスカートの裾を翻す。腕に抱えた大きく平たい風呂敷包みを持ち直し、少女は遊歩道を歩き出した。小さな背中が頼りない。お遣いでもしているのだろうか。
 おかっぱ頭が植込みの影で見えなくなると、優駿はまたブランコに腰かけた。しっかりと目的をもった少女の足取りが、少し羨ましいかもしれない。
「なにやってんだ、俺は」
 いつもの日曜日の予定は、見事に潰れた。優駿が公園に留まる事で潰した。やるべきことを失った時間はやたらとゆっくり流れる。優駿は頬杖をついた。
 どれくらいそうしていたろうか。ぼんやりと焦点の定まらない視界を、とことこと横切る小さな影がある。さっきの少女だった。
 ほとんど走るくらいの速さで、行った道を戻ってきた。優駿の姿を認めると立ち止まり、不安げな顔で歩いてきた道を振り返った。ちょっと泣きそうな顔をしている。それからまた駆けて見えなくなったかと思うと、すぐに戻ってきた。
 迷子だな、迷子だろうな。
「どうしたの?」
「おじいちゃんのおうちに」
 少女は優駿に問われるままに口を開いて、すぐにつぐんだ。優駿はブランコを降りて、少女の前にしゃがむ。目線を合わせると、すぐに俯いた。
「迷子だろ?」
「……」
 少女は優駿の問いにぶんぶんと頭を振って抗議する。目には涙がみるみると溢れて、下まつ毛のふちで留まっている。
「迷子だよな?」
「知らない人とお話ししちゃいけないんだよ、先生が言ってた」
 さらに問う優駿に、少女はようやく言う。『先生』と言うのは、保育園の先生だろうか、小学校の先生だろうか。
「ウチには帰れるよな?お遣いなら、おうちの人と出直したほうがいいよ」
 優駿のもっともな提案に、少女は困ったように眉根を寄せる。口をとがらせて、黙ってしまった。
「困ったな」
「困らないもん、おじいちゃんのおうちは、バラがいっぱいだから、絶対分かるの。公園を出たら、すぐなんだよ」
 言い返してから、少女はあわてて両手で口を塞ぐ。持っていた風呂敷包みが、遊歩道のうえに落ちた。
 優駿はそれを拾ってやりながら考える。少女の言う、バラの家には心当たりがある。純和風の平屋なのに、垣根いっぱいにバラを咲かせている家がある。きっとあの家だ。確かに公園から近いが、住宅街の少し入り組んだ場所だった。説明して分かるかどうか。
「なあ、右ってどっちだか分かる?」
 少女は両手を交互に見て左手を挙げかけて、思い直したように右手を高々と挙げた。
「教えてあげても、たどり着けるか……微妙だ」
「おじいちゃんの家、知ってるの?」
「まあね」
 少女は優駿の次の言葉を待っている。きっと教えてくれると思っている目だ。期待に満ちた目は、不思議な色をしている。虹彩は黒に違いないのだが、光の加減で青みがかって見えた。
 さてどうするか。彼は今、予定をすっぽかしたばかりである。流れに身を任せるのも悪くない。優駿は、少女に付き合うことにする。この子を送って行けば、サボった理由ができる。迷子を送り届ける……正当で立派な理由だ。
「俺が送ってやるよ」
「いい、お兄ちゃん知らない人だから、ダメ」
 即座に否定されて、優駿は苦笑する。
「じゃあ自己紹介するよ」
「自己紹介?」
「知らない人じゃなくなることだよ。俺は早坂優駿」
 優駿は自分の胸に手を当てる。
「はやさか、ゆうしゅくん?」
 舌がよく回らないらしい。優駿は頷いた。
「いいよそれで」
「ゆうしゅくん、王子様みたい」
 言われてみれば、しゃがんで胸に手を当てる姿は、女の子の絵本で見る王子のようだ。優駿は急に気恥ずかしくなり立ち上がる。
「じこしょうかいします。えんどう、ももかです。桃の花って書くんだって」
「ももかちゃん?」
 優駿が言うと、少女ははにかんで「おかあさんはピンクのバラが好きだから。おかあさんが付けてくれたの」と小さな声で教えてくれる。……ピンクの花で、桃花か。少女に合った名前だな、と思うと同時に頭の中で漢字で『薔薇』と変換できる自分が少し嫌いだった。勉強ばかりで頭でっかちで、ひ弱な自分。優駿は背が高い分、ひょろっとして見える。中身は滅多に熱を出さないほど丈夫だけれども。
「ゆうしゅくん、行こう?」
「ああ、うん。その荷物、自転車に乗せてやるよ」
「ううん、いい」
 桃香は優駿の申し出を断ると、風呂敷包みを大事そうに掲げて持った。長方形で厚さがない平べったい包みには、何が入っているのだろう。優駿には想像もつかない。風呂敷包みを見つめる桃香の目が、寂しそうに潤んで青く見えた。  

***

 その家までは、ほんの少しの距離だった。それでも優駿には、もっと遠く感じた。自転車を押して歩き、優駿は後ろに気を配る。細い路地に車が入ってくるたびに、ひやひやとした。
 桃香の歩みは頼りない。疲れたのか、学校の集会で賞状を貰うときのように捧げ持っていた包みを、いつの間にか抱き込んで肩を落としている。
 二人の間には、会話はなかった。先を行く優駿と、後ろをついてくる桃花の距離はとても近い。うっかり自転車を止めると、桃花がぶつかって転んでしまいそうだった。本当はもう少し離れて歩いて欲しいが、彼女の不安気な表情をみると何も言えない。
 自転車で移動することの多い優駿は、じっくり街並みを見ることはない。こうしてゆっくりと歩くと、嫌でも景色が目に入る。古い住宅街には立派な家が多かった。その一画に目指す家が見えてくると、後ろにいた桃花が歓声をあげた。
「おじいちゃんちだ……!」
 薔薇垣の中に、急に元気になった桃花が駆けこんでゆく。その途中で一度、振り返って優駿を見る。
「ゆうしゅくんありがとう、桃花、ゆうしゅくんだいすき!」
 だいすき、か。背中がくすぐったい言葉だ。素直に感情を表に出せる幼さが、優駿には眩しい。
「よかったな」
 なんだかとても重要な仕事をおえたような気持ちで、優駿は門の前でほっと息をついた。
 薔薇の向こうに、古い家屋がある。門扉から続く御影石、横開きの玄関戸。純和風の家に洋風の生垣。ちぐはぐなのに、この家はしっとりと美しい。門扉の表札には、手書きの流麗な文字で『木原』とあった。本当に非の打ちどころのない字だな、と思ってすぐ下を見れば、木板に同じ筆跡で『書道教室』と書かれている。なるほど綺麗なわけだ。
「桃花を送ってくれたのは、君かい?」
 玄関戸がからからと開いた。痩せた和服姿の老人がにこにこと出てくる。いかにも『書家』という感じだ。桃花の名字は確か『遠藤』、この家の表札は『木原』。ということは、このひとは母方の祖父だろうか。
「はい、あの、こんにちは」
「ありがとう、すまなかったね。私はあの子の祖父で、木原という」
「早坂といいます。桃花ちゃんが困っていたので」
 木原老人は笑顔のまま優駿を見上げ、頷く。
「うんうん、いまどきにしてはきちんと挨拶ができる。良い子だ」
 『良い子』と言われると、どうもくすぐったい。何しろ優駿は、今日の予定をサボって、その口実に桃花を使おうとしているのだから。
「早坂君、なんのお礼もできんが、ジュースでも飲んでいきなさい」
「あ、いえ、そんな」
「子どもが遠慮するもんでもないよ。ほれ」
 木原老人は手招きして、さっさと家に入ってしまう。優駿は自転車を止めると、バッグを肩にかけた。玄関の三和土に靴を揃え、お邪魔します、と廊下の奥に声をかける。返事はなかった。廊下の壁の振り子時計が、こつこつと音をたてているだけだ。
 優駿はそろそろと廊下を進んだ。かすかに何かの香りがする。これは線香の匂いだと気が付いて、優駿はそちらに足を向ける。匂いを辿れば、木原老人と桃花に会えるだろうか。
「ああ、早坂君、こっちだよ」
 しかし、木原老人の声は違う方から聞こえた。行ってみると、縁側に面した和室がある。
 開け放たれた窓に網戸は無い。外の見事な薔薇が、優駿の目を奪う。桃や白や紫の、薄い色合いばかりの花は、秋の日差しを浴びて競い合うように輝いている。
 花に関心があろうとなかろうと、これはきっとだれもが見惚れるに違いない。
「そこにお座り」
 立派な座卓に、オレンジジュースがちんまりと置いてある。優駿は木原老人に導かれるままに座布団に座り、ジュースに口をつけた。薔薇の匂いが強いせいか、ジュースの香りが薔薇のように感じる。なんだかとても高級な飲み物を飲んでいる感じがして、なかなか喉を降りていかない。
「桃花の好きなジュースだが、君には少し甘すぎるかね」
 木原老人は庭で薔薇の手入れの途中だったようだ。和服に似合わない麦わら帽子を被って、片手には鋏を持っている。
「いえ、美味しいです」
「そのカバン、この先の塾のだね」
 優駿は思わず脇に置いたバッグに手をかけた。日曜のこの時間、優駿は浮かない顔で塾の講師の話を聴いているはずだった。大手の塾で、地味で面白みのないバッグは生徒全員お揃いである。優駿はこのバッグが嫌いだ、まるで自分のようで。
 勉強が好きなわけでもない、親が強制しているわけでもない。世間が良いという高校に入れば、何かしらの目標が見えると信じていた。春が過ぎ、夏休みが終わり、秋になっても何も見えない。このままでは個性を無くして、自分を見失ってしまいそうで…。いや、もしかしたらもう、自分には個性なんか無いのかもしれない。塾のバッグのように。
 漠然と将来が不安で、優駿は人の居ない公園でいつもの予定を投げ出したのだ。
「今日はたまたまサボりかね。それともちょくちょくかね」
 木原老人は優駿の心を見透かしたように、さらりと訊いてくる。優駿はジュースを一気に飲み干した。
「はじめてです」
「そうか、それならゆっくりしていきなさい。寄り道もたまにはいい。モラトリアム結構結構」
 注意されるかと思ったが、木原老人はそう言って薔薇の方を向く。背のたすき掛けがさまになっていた。
「綺麗ですね」
「私の娘が好きでね。娘時代にあちこちから苗を買い集めたんだが。ほれ、犬猫と同じだよ、植えたはいいが他に興味が出た途端、私にぽい、だ。おかげで私と妻で手入れが大変だよ」
 木原老人は愚痴を言うが、その声は弾んでいる。桃花の名は、もしかしたらこの薔薇たちから因んだのだろうか。優駿はなんとなくそう思う。桃色の花が一番多い。
 そういえば、桃花はどこだろうか。
「あの、桃花ちゃんは?」
「ああ、桃花は今、着替えているから。ちょっと待ってくれるかね」
「着替えですか?」
「桃花が風呂敷包みを持って来たろう。あれの母親、私の娘が選んだものだよ。桃花は、ずっと私たちと娘に見せたいと言っていてね」
 手入れが終わったのか、木原老人がたすきを解く。それから廊下の奥に声をかけた。
「ばあさんや、支度は終えたかね?」
「もう少し」
「それと、桃花の家のほうに電話は?」
「まだよ」
 木原老人が奥に呼びかけるたびに間を置かず戻ってくる声は、簡潔でそっけない。木原老人は「仕方ないなあ」と言って、大げさに肩を竦めて首を振った。
「ばあさんの愛想なしにも困ったものだ、どれ、電話しておくか。桃花がこそっとこちらに来てしまっては、あちらも心配だろう」
 木原老人は縁側から「どっこいしょ」と家に入り、テレビの脇の黒電話の受話器をとった。薔薇ばかり見ていた優駿は気が付かないでいたが、テレビはブラウン管の古いものだ。黒電話は、はじめて見た。古い歌に『ダイヤル回す』というフレーズがたまにあるが、そうかこういう動作を言うのか。
「珍しいかい? 年寄りばかりの家にはなかなか合っているだろう」
「はい……いえ、じゃなくて、ただ珍しいと」
 つい頷いて、優駿は慌てて否定する。木原老人は、声をたてて笑った。
「ははは、こんな年寄りでも携帯電話を持っているからね、家の電話はこれで充分さ。テレビはほら……デジタルだっけ? になってから、見なくなったしね」
 なるほど、テレビのコンセントは抜けている。
「寂しくはないですか?」
 優駿は思わず訊いてしまってから、自分が失礼ばかりしていないかと考える。
 そこで唐突に会話が途切れた。木原老人が優駿に向かって制止の合図のつもりか手を軽く上げる。「もしもし、木原ですが」と言う声は、今まで話していた声より随分と固かった。
「桃花、こちらに来ているから。……うん、親切に送ってくれた男の子が居てね」
 うん、そう、と短く応える声は固いままだ。恐らく相手は桃花の父親だろうか。家族というには他人行儀な感じだ。
 どんな事情があるかは分からない。だからこそ聴いてはいけない気がして、優駿は縁側に腰掛けて、薔薇を見つめる。
 この家には音が少ない。聴くつもりがなくても耳に会話が入りそうになる。ならば塾のテキストでも読むか、とバッグを開いたとき、木原老人から声がかかる。受話器を置くと、黒電話がチン、と音を出す。
「私がひらいている書道教室も幸い盛況でね、休みの静かさが有難いくらいだよ。それに、これから桃花もここに来られるようになりそうだ」
 先ほどの問いへの答えが返ってきた。
「桃花ちゃんがひとりでここに来るには、もう少し大きくなってからの方が心配ないですよ」
 物騒な昨今である。例え近場でも、女の子がひとりで人気の少ない路地を歩くのは心配だ。
「君は本当に良い子だね」
 どこにそんな要素があるのか分からず、優駿は眉を寄せる。
「どこがですか」
「まあいいじゃないか、年寄りの言うことだ」
 優駿のバッグから、出しかけたテキストとノートがはみ出ている。木原老人はノートを取り上げる。
「見てもいいかな」
「どうぞ。でも見てもつまらないですよ」
 ぱらぱらと音がする。時折書かれた文字を追っているのか、木原老人の皺の浮いた手が、ノートをゆっくりと撫でた。
「早坂君、取引しないかい?」
「取引、ですか?」
「今日のサボりの件、私から礼を言わせていただこう、君の家に電話して」
 そこまでしてもらうほど、優駿は子どもではない。親を恐れてもいない。当然塾から家に連絡は行っているだろうから、サボったことはばれているだろうけど。理由のことでちょっとした親子げんかになったとしても、一時の気まずさは数日で無くなるだろう。それくらいの信用はあるつもりだ。
「いいです、それは本当に。親への言い訳くらい自分でしますから」
 サボる言い訳は必要だったが、ズルい自分を隠さないで通せる意志がある。優駿はまだ、無個性のバッグになってない。
「真面目だな、ますます気に入った」
 全く、年寄りの言うことはよく分からない。面倒なことになるまえに、帰ろう。そう優駿が決めた時だった。
「はいはい、支度が済みましたよ」
 和室に入ってきたのは老婦人。木原老人と同じく着物を着ていて、白い髪をほんのりと紫に染めている。こんな色にしている老女を優駿は何度か見たことがあるが、こんなに似合っている人ははじめて見た。肌が白いせいだろうか、愛おしそうに孫を見る目が青いからだろうか。
 そうだ、この人はまるでこの木原家のようだ。和風と洋風を、すっかり粋にその身にまとめてしまっている。
「おや、そのひとが王子様かい」
 粋な老婦人が、優駿に不躾な視線を送る。やっぱり目が青い。西洋の血が入っているのかもしれない。
「ばあさん、ちょっとは遠慮しなさい」
 木原老人のたしなめる声に、幼い声が重なる。
「うん、おばあちゃん、やさしくって背の高い桃花の王子様だよ。ゆうしゅくんっていうの!」
 迷子という不安な状況から解放されたからか、桃花の声は明るい。
 この部屋に、和服でないのは優駿だけだ。
 祖母の手を握って優駿を見上げる桃花は、あでやかな着物を着ている。地色の紫は下にいくほど淡く、描かれた花の模様を引き立てている。
「薔薇だ」
「ゆうしゅくん、よく分かったね。お庭の薔薇みたいでしょう。お母さんが選んでくれたの、お母さんが見たいって言ってたの。だからね、お着物ができたら、絶対にお母さんに見せたくて」
 桃花のぷっくりとした手が、帯のあたりを撫でる。着物を着た興奮からか、まるい頬はほんのり紅色だ。つややかなおかっぱ頭に髪飾りは無かったが、それでも十分に愛らしい。
「桃花ちゃんが持ってきたのは、これだったのか」
「うん、落としちゃったけど、汚れなかったよ」
 木原老人はすっかり目じりを下げて、懐から携帯電話を取り出して桃花の写真を撮っている。
「桃花や、こっちを向いておくれ。はい、チーズ」
 カシャ、と電子音が何度か続けて鳴った。完璧に使いこなしている。木原夫人がそんな夫の様子を呆れ顔で見つつ、縁側から庭に降りた。
「写真はそれくらいでいいだろう。桃花、こっちにおいで」
「うん」
 素直に縁側に寄る孫娘の髪に、木原夫人はうすいピンクの薔薇をさす。桃花が笑う。
 本当に綺麗だと、優駿は思う。こんなに小さくても、女の子は女の子だ。
「ゆうしゅくん、どうかな!」
「かわいいよ、すごく」
 こんなことを女の子に言うのは、はじめてかも知れない。
「さて、じゃあ早坂君、もう一仕事だ。桃花にもう少し付き合って欲しい」
「え、俺ですか?」
 優駿の反応に、木原老人がノートを広げた。
「君の字はお世辞にも汚い」
「どういう意味ですか」
「桃花を連れて行ってくれないか。ここへ来るのと違って簡単な道だ、場所は間違いなく桃花が知っている。この子の母親に何度も会いに行ったから」
 意外な申し出に、木原夫人が眉をひそめる。
「あなた」
「いいじゃないか。早坂君は迷子をきちんと送ってくれる青年だ。桃花も王子様と行きたいだろう?」
 問われた桃花はこくこくと頭を縦に振る。
「君はついて行ってくれるだけでいいんだ。それで時々これからも、この家まで連れてきてくれないか。代わりに私が字を教えよう」
 木原老人の声は真剣だ。
 桃花が「行こう、ゆうしゅくん」と優駿の手を引く。そのやり取りを眺めていた木原夫人が、諦めたように黙々と薔薇の枝を切り出した。ぱちん、ぱちん、と小気味よい音が辺りに響く。
 今日は奇妙な日だ。この奇妙さは優駿がきっかけを作ったものだ。優駿がいつもの道を逸れたおかげで、この家にいる。木原夫妻と、桃香。3人との出会いで、ふてくされた気持ちが薄らいでいた。もう少し付き合ってもいいかもしれない。
「分かりました。でも、書道の件は保留で」
 優駿は名の通り優秀だが、実は字だけはコンプレックスだ。だからこそ、習うことに抵抗がある。あまり自分の字を直視したくない。
「桃花ちゃん、行こうか」
「うん!」
 優駿は幼い手を握り返す。
 だが優駿は、桃花がどこに行こうとしているかは全く考えていなかった。母と娘がわざわざ外で会うことは変なことだと思ったが、それでももっと呑気なおつかいだと、そう思っていた。

***

 ほんの少し歩いたところ、優駿が自転車でたまに抜ける近道。便利な近道だが、夕方以降は通りたくないところだ。
 ここは墓地である。おどろおどろしい雰囲気はない。きちんと区画整理された、あたらしい墓地だ。綺麗に整列した区画は、まだまだ空いている場所も多かった。
 今日は秋の、清々しい休日だ。墓参りに来ている人も、ぽつぽつと見受けられる。皆が桃花と優駿を振り返る。桃花が愛らしいからではない、この場所に不似合いだからだ。木原夫人から渡された薔薇の花束を持った優駿も……場違いだ。プロポーズだってできそうな花束は、どう考えても墓所では派手である。
「可愛いねえ、七五三かい?」
 手桶を持った老女が、すれ違うときに桃花に声をかけた。桃花の顔は緊張気味で、その声が聴こえないのか行進するようにずんずん進んでゆく。老女に申し訳ない気がして、優駿が答えた。というより、聞き返す。
「七五三、ですか?」
 そうか、七五三は秋の行事だ。確か。優駿も小学校に上がるか上がらないかの頃に、羽織袴を着た記憶がある。
「ええ、この霊園を抜けて少し歩くと、お社があるでしょう。暦では来月だけども、近頃は早くやる子もいるからねえ」
 七五三。だから着物か。優駿は老女に頭をさげて、桃花の隣を歩く。
 桃花は母親と待ち合わせて、神社にお参りをするつもりだろうか。なぜはじめから一緒に行かないのだろう。
 どんな事情があるかは分からないが、優駿は母親の姿を見つけたら、そこで足を止めようと思っていた。親子水入らずを邪魔したくはない。
 桃花の歩みが止まる。そこはまだ墓地の真ん中、真新しい墓石の前だ。
「疲れたの?」
「ううん」
 桃花は真っ直ぐに、黒く艶やかな墓石と向き合った。きゅっと結んだ唇が、への字に曲がる。着物とお揃いの巾着を持つ手が震えていた。への字が僅かにひらく。
「お母さん」
 優駿は驚く。そして何も言えない。そうか、この墓石の下には……。
「お母さん、桃花、来たよ」
 桃花の声は震えている。泣き顔に涙が流れることはなかった。きっともう、たくさん泣いたに違いない。桃花の青みがかった瞳には力があり、決心があった。
 桃花がどんな気持ちで、ひとりで祖父母の家を探し、母の墓前に来たのか。それを思うと優駿は、自分の悩みがひどくちっぽけで、申し訳なくなる。
 優駿は仁王立ちになる桃花から離れて、急いで手桶に水を汲んで戻る。桃花の姿勢は変わらない。優駿は墓前の花立に持ってきた薔薇を生ける。墓前が明るく、華やかになった。
「薔薇も悪くないね」
「うん、お母さんの薔薇だもん」
 隣の墓前の菊よりも、その向こうの百合や桔梗よりも。
 ふたりの前の花束は、木原家の生垣にあったときと同じように輝いている。
 優駿は手を合わせた。桃花もそれを見て真似る。
 少しして優駿は墓石に向き直る。掃き清められ、乱れのない墓所。きっと木原夫妻がまめに掃除しているのだ。
 桃花はまだ手を合わせている。草履を履いた足だけ、もじもじと動いている。
 慣れない履物で足が痛いのなら、手を貸してやろう。着物でおんぶが無理なら、抱き上げてやろう。優駿に出来ることは、陳腐な言葉をかけることではない気がする。今日出会った勇敢な女の子が王子様を望むなら、役に徹してやろう。
 きっと自分は書道を習うことになるだろうと、優駿は思った。
 二人のうえに、燦々と午後の日差しが降り注ぐ。風が吹く。桃花の髪の薔薇から、花びらが一枚こぼれる。 
 
 

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