遠くあの空のむこうに

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吟遊詩人と劇作家



 砂漠とは地上に限らず、地下までもが単調で無機質な世界らしい。

ここにあるのは砂と水と、そして固い岩。岩に含まれる鉱物が、ところどころ青い光を灯している。

 砂の中に、古く広い城が埋まっている。城内を侵食する黄色い砂粒は崩れた天井から少しずつ、だが無遠慮に降ってきて、長い年月をかけて幾多の部屋を埋めていく。

 無味乾燥な世界に、唐突にかつん、と音がした。…城の広間だ。ここには砂があまりない。大理石で造られた広く天井の高い空間は、整然と並ぶ何十もの円柱で支えられている。堅牢なつくりが、砂の侵入を防いでいた。それでも細かい砂は長い年月の間に吹き溜まり、闇を慣れたふうに歩くその人の足跡を床に描き出す。

 その人は慎重に水音のするほうに向かっていた。水音に近づくごとに息を潜め、足音を忍ばせる。慎重に歩きながら、その人は固く握っていた手を緩めた。丸いつややかな赤い石が、ぼんやりと光っている。照らされる手は光に逆らわずに赤く染まる。それはその人の手がたいそう白い証しであった。その人は、光をまた手の中に封じ込め、軽く顎を引いた。

 水音はもう目の前に迫っている。その人は足を止めた。闇に慣れている眼には、大理石の階段の奥に揺れる黒い水が見える。

 階段を、そっと降りる。そこはまだ城が地上にあったころ、美しい前庭に通じていた。数歩降りた先には勿論緑はない。あるのは微かに寄せては返す暗い水のよどみだ。その水は大河フェニテの最下流…もう少し奥まで続く水の、澱みである。澱みの中には、手の中にある色と同じ光が揺れている。

 その人はゆっくりと屈み、もう一度頷くと、すばやく水に手を入れた。二つの赤い石は、揃うことで光を強くする。ほんの刹那、光の中で長い黒髪が揺れた。その人は軽く歯噛みして、急いで二つの玉を引き離し、別々の場所に収めた。一つを懐へ、一つを腰へ。そして、間を置かずに走り出す。広間に足音が響き渡る。今度は音など気にしない。脇目も振らない。急がねばならなかった。

 その人が広間を抜けるとすぐ、城が揺れた。…砂漠が揺れている。水のある方角から、恐ろしい叫びが聞こえた。それは呪いの言葉だった。逃げていくその人への。

 その人は構わず上階へと続く朽ちた階段を登り、地表へと向かう。かつては塔の天辺てっぺんであった小さな部屋にたどり着き、鎧戸を押し開けるときにだけ、少しためらった。

 鎧戸が錆びついた音をたてて外側に開いた。その人は光の中に飛び出した。もうここには戻らないという決意とともに。

 揺れは次第に強くなる。砂の中で何かが崩れる音がした。

 

***



 ジリオンの旅立ちを見送って数日、キハン州エトツの街は悲しみに沈みつつも、徐々に日々の生活に戻りつつある。初夏に向かうこの季節、冬が長い鉱山の街は繁雑を極める。本業の合間に田畑を世話し、羊を追い、森の枝葉を払う。忙しさは人々にとって慰めとなったが、王の理不尽さは、元々の奢侈を極める生活ぶりと相まって、人々の心に消えない禍根を残す。

 ゴドーは槍城の一室にいた。慌ただしく会議の場として整えられたその部屋の円卓には、すでに全員が腰を下ろし、招集者たるギリアムを見る。ギリアムは窓を背にしている。薄いカーテンから射す昼過ぎの明かりが、ギリアムの黒髪を優しい光で包んでいた。

 上座の無い円卓に集うのは、ギリアム、イヴァート、リンジー、セト…そしてゴドーの五人である。ひとつ、席が空いている。そこはアストの席であった。アストは盗賊の砦の後始末にかかっていて、終わり次第こちらに合流するはずだった。

「それでは皆様、少し長くなりますが昔話をひとつ、聞いてください。そのうえで、私の考えを聞いていただきたいのです…妹とこの国の危機を乗り切るために」

 ギリアムの言葉は皆に向けて発せられた。が、本当はゴドーに向いている。ゴドーはいつの間にかしていた腕組みを解き、ギリアムに向かって頷いた。

「では、はじめましょう。私が聞いていただきたいのは、ある昔話です。女神シンラと人が力を合わせてこの世を救い、邪神ワードワープの身体が千千に分かたれ封印されて、少し経った頃のことです。本当にあったことなのに、知っている者は代々の王だけ。長い時間をかけて、真実は闇に葬られ、薄っぺらな伝承に置き換えられました。そういう、曰くのある話です」

 ギリアムがそこで言葉を切って、もう一度全員を見渡した。この話から逃げる時間を作っているようにも見える。が、誰も席を立つものは居ない。イヴァートが頬杖を付いただけだ。まるで幼子が昔話を聞くように。青い目には好奇心が宿っている。

「歴史書にも載らないほど、昔のことです。この国はとても広かった。今も東西に細長い国ですが…さらに『嘆きの砂漠』を入れて一つの国でした」

 ゴドーは砂漠の風景を脳裏に描く。歩くたびに足にまとわりつく砂と、暑さのために揺れて見える太陽の輪郭。そして夜になると現れる、異形の者たち。

「…あれが、国だと?あんな恐ろしいところに、人など住めるものか」

 思わずゴドーが言うと、ギリアムは首を振った。

「いいえ、昔はこのリュートと同じように緑にあふれた土地だったのですよ。伝承にもあるでしょう、コーデリアという国が、女神の怒りを買って一夜で砂に変わったと。この伝承は真実を隠すための虚構ですが、全てが嘘という訳ではない。コーデリアというのは国の名ではなく、この国の州名です。この国は、東にリュート、西にコーデリア。二つの広い州をもって統治されていた。仲の良い兄弟がそれぞれを治めていたのです。兄がコーデリアを、弟がリュートを。二人はよい統治者であり、問題ごとが起これば必ず二つの州の境にて、話し合いを持って解決の道を図ってきました。そうやって持たれた席で、弟がある時言ったのです…妻を迎えるつもりだと」

 ギリアムはそこで話を区切って、目の前のグラスを取り、喉を湿した。リンジーが立ち上がり、水差しから水を注ぎ足す。ここには侍従は居ない。セトが人払いをしてある。州候セトが会っている人物たちは、将軍イズンに刃向った者たちである。おおっぴらに会うわけにはいかなかった。

「聞けば、弟の恋人はとても身分の低い、場末の酒場で働く歌うたいでした。…兄は驚きましたが、結婚を祝福しました。ですがその祝福には侮蔑が混じっていた。兄は元々、尊大で弱者を認めない質がありました。弟はその逆です。分け隔てなく、人に接することのできる人でした。お互いの本質を、兄弟は認めているようで、心の奥底では認めていなかった。ですから兄は結婚式に出る気もなかった。弟は、兄の祝福に混じったさげすみに気付いていましたが、ただ黙って謝意を述べた。こうして、弟は愛する女性を妻に迎えました。…この女性のために、兄と仲たがいすることも知らずに」

 ギリアムの語りは澱みなく、落ち着いた声と相まって周囲をうまく惹きつける。ゴドーは物語の女に、自然に想う人を重ねていて、急に気恥ずかしくなり顎を掻いた。だから、次にギリアムの口から出た言葉に、とても驚くことになる。

「兄と弟の名前は、今にまで残っていませんが、女性の名は残っています。彼女の名はジリオン」

 その場の全員の背筋が伸びたのを、ギリアムは感じる。

「ジリオン・シア。生まれてすぐに死の淵をさまよった妹が、その不死にあやかれと名をいただいた、今は砂漠の女王と言われる女性です」



***



 ギリアムがゴドーたちに語って聞かせている『隠された真実の話』は、急速に外に向かって流れ出そうとしている。それはセンシア州候・ミルレットの俳優としての手腕によるものだ。ギリアムが旅の途中で渡した物語を、ミルレットはものすごい勢いで上演に漕ぎ着ける気だ。この物語が何かまで、ミルレットは知らない。ただ、面白い、ということは分かっていた。ギリアムがやることには意味があるということも。

 最後の通し稽古の始まるときだった。部外者は居ないはずの客席に、女たちが数人、ちんまりと所在無げに腰かけているのをフアナは見つけた。中央の若い女は、遠目に見ても大層美しい。誰かに似ている。フアナは舞台のそでから身を乗り出す。

「小娘、はしたないわよ!もうすぐ出番よ、これは本番と同じなのだから、真剣にやりなさいな!」

 主役はギリアムの語るところの弟だが、劇中では名が付いている。それは勿論ミルレットの役である。後ろに立った座長を、フアナは振り返る。

「ミルレット様、あそこにいらっしゃるのは、どなたですか?」

 舞台用に厚化粧したミルレットは「ああ」と言って微笑む。

「私のお客様よ。ギリアムの妹の、ジリオン姫。王都に向かう途中なのだけれど、護衛のイズン将軍の怪我が思わしくないとかで、ついさっきここに寄ったの。ギリアムに似て、綺麗な子でしょう…小さいころにちょっと見かけたことがあるけれど、ここまで綺麗になるとは思ってなかったわー」

 フアナはもう一度客席を見る。客席は暗く、ジリオンの表情までは分からない。

「ゴドー様は?いらっしゃっているのですか?あの方をお迎えに行ったのでしょう?」

「…アナタ、やっぱりしつこいわねー。ゴドー様はね、色々あってキハンに留まっているのよ。本っ当に残念!お会いしたかったのに」

 ミルレットは頬に手を添えてため息をつくが、会いたい気持ちはフアナのほうが上だった。ではせめて、あの姫にゴドーの近況を聞きたい。

 まだ女優の卵にもなっていないフアナの出番は一幕目のほんの少しだ。出番が終わったら、あの姫に声を掛けようとフアナは思い立つ。

「今日の通し稽古はどうしてもやっておきたいの。イズン将軍の手当は城の者に任せて、折角だからジリオン姫には観客になっていただいたわ。さあ、お客様がお待ちよ、行くわよ、小娘!これは本番と同じよ、気合を入れなさいな!」

 いつまでも動かないフアナの襟首を、ミルレットはぐいっと引っ張った。フアナはきゃっと小さな声をあげて、舞台のそでから引っ込む。金色の巻き毛が揺れた。

 フアナが見ていたように、ジリオンもフアナの様子を見ていた。ジリオンが声を出して軽やかに笑い、口元を押さえた。

「どうしました?ジリオン様」

 故郷からついてきた古参の侍女・エイナが気遣わしげにジリオンを覗き込む。彼女は祖母のようにジリオンに接してきた。ジリオンが笑うことはとても嬉しいが、あまりにも唐突だったので心配になる。

「いや、なんだか可愛らしい人形のような娘がいるな、と思って」

 エイナは目を凝らすが、舞台には誰も居ない。

「そうでございますか?私には見えませんが」

「もう舞台からは立ち去ったようだ。…ひらひらとした服を着ていた。どんな役なのだろうな、楽しみだ」

 故郷を出たことが無いジリオンにとって初めての長旅、しかも不躾ぶしつけ極まりないイズンの監視は昼夜に及んでいる。…疲れていないわけがない。エイナはジリオンがいたわしい。ジリオンは無理して明るく振る舞っているようにしか見えなかった。何か言葉を掛けたかったが、それが慰めになるとは思えず、エイナはゆっくりと前に向き直る。

 舞台のそでがざわめき、緞帳がするすると下ろされた。上演が迫っている。ジリオンは努めて舞台を楽しむべく、やや身を乗り出した。



***



 短い休憩を入れながら、ギリアムの話は続いている。ここに居る誰も知らないことだが、ギリアムは長い時間をかけて物語の疑問を独自に調べ、補完している。その語りは淀みなく流れるようで、時間が進むごとに、吟遊詩人の語りを聞くような雰囲気を呈している。

 物語は進む。弟とジリオン・シアの蜜月は、兄の突然の来訪によって幕を下ろされることになる。二人を驚かせようと突然に弟の城に現れた兄を迎えたのは、新妻だけであった。弟は不在であった。…運悪く。

 王族でもない限り、この世界の者は名を一つしか持たないのが普通だ。ジリオン・シアのように二つの名を持つ者は珍しい。彼女の元々の名には、よくない意味があった。それを指摘したのは弟だ。だから、弟はいとしい人に名を贈った。彼女は受け入れた。その名は『ジリオン』…つまり義兄に会った時、彼女はジリオンという名の女だった。古代の夜空にひときわ輝く星の名であったという。
 
 物語は急展開を迎える。弟の不在の城から、兄は慌ただしく逃げるように辞した。しばらくして帰城した弟を、麗しい笑顔で迎えるはずのジリオンの姿は無い。城の者が、悲嘆に暮れて弟にひざまづく。

 弟は愛する妻が、兄によって連れ去られたことを知った。

「弟の怒りと嘆きは、如何いかほどだったでしょう」

 美しい吟遊詩人は、微かに表情を曇らせた。ゴドーは再び腕を組んでいて、気付かぬうちに指先に力が入っている。セトはそのことに気付いたが、何も言わなかった。

 ここにいる男たち誰もが、物語のジリオンを、今を懸命に生きているジリオンで頭に描いているはずだった。

 ゴドーの中で、ジリオンが泣きそうになる。しかし彼女は泣かない。泣かないと決めたからだ。ジリオンは零れそうになる涙をなんとか収めて、決然と前を向く。きっとこれからも泣かないだろう。そんなところを愛しいと思っているのに、胸が痛む。…話を聴くことが、辛かった。

「なあ、ギリアム。その名前だが、シアでやってくれねえか?ジリオンは…どうも混同するんだ」

 ゴドーの願いに、ギリアムは頷いた。

「分かりました。丁度いま、そうしようと思っていたところです。ジリオンは無理矢理に兄に連れ去られ、兄からも名を賜りました。それがシア…コーデリアだけで採れる、暗闇で発光する鉱石の名だったようです。彼女は、美しいだけではなかったのでしょうね。男を惹きつけ狂わせる妖しい何かを持っていたのでしょう、本人の意思の及ばぬ魅力を。とにかく、兄弟はシアを巡って争うことになったのです」

 ギリアムの口から妖しい女の美しさと聞くと、変にこそばゆくなるような感じだが、当人は真剣である。イヴァートはちょっとした冗談を思いついたが、言う前にギリアムに目で制された。

「…女性が戦の発端になることは、往々にしてあるものです。兄弟の争いも、ついには戦になりそうな気配でした。シア本人の意思はもう及びません。シアは儚く弱い人でした。兄に無理矢理に奪われたのに、泣くことしかできない。そういう女性だったのです。このことが、余計に状況を悪くしました。兄はシアの全てが欲しかった。醜い妄執の塊となった兄は、次第に狂って行ったのでしょう。…シアの心を慰めるため、そして弟との戦に勝つために、民に重い税と兵役を課したのです。対する弟のほうが、幾分ましでした。彼は民への優しさを失っていなかった。州の均衡が崩れていくのは、あまりにも当然の流れでした。コーデリアからリュートへ、沢山の民が逃げ出したのです。兄は焦りました。…そんな兄弟を、地の奥深くで見ているものがいました。神と人との戦いで、身体を引き裂かれた邪神です。」

「ワードワープ…」

 リンジーが思わず呟き、身震いした。

「何故、コーデリアだったのでしょう。ワードワープが選んだ地は。それは地理的な理由であったと、私は思っています。私はこの大陸の地図を、随分苦労して集めましたが…『嘆きの砂漠』はその向こうが海です。土地は平らかで低く、何より大河フェニテの最下流です。フェニテは生物を潤す命の川。そして裏では、散らばった邪神の身体を砂漠の下に流してきたのです」

 言いながら、ギリアムは傍らから大きな地図を取り出した。円卓いっぱいに広げるのを、皆で立ち上がって手伝う。その地図は歪んでいて、お世辞にも上手いとはいえないが、其処此処に書かれている文字は丁寧で美しい。ゴドーとイヴァートはその文字に見覚えがある。

「この地図はギリアムが書いたのか?」

「はい」

「絵、下手だねえ」

「天は二物を与えずというでしょう。…要は分かればいいのです。…フェニテの流れを見てください」

 自慢なのか謙遜なのか分からないことを言って、ギリアムは指でフェニテの流れを辿りはじめる。

「…まるで植物の根っこのようじゃな。全て、砂漠に通じておるというわけか。それにしても、よう調べたものだ。大陸全土の地図自体なかなか目にできるものではないが…河を描ききった地図はおそらくあるまい。…下手だが」

 セトが感心したように髭を撫でる。ギリアムは最後の言葉を無視して微笑んだ。

「女神と人が護り通したこの地には、安寧が満ちることはありません。それが封印された邪神の瘴気なのか、人の業なのか…。とにかく、外との交わりを全くしない国などもありますから、地図を作るのは大変でした。私は父の商いを手伝いはじめたころから、方々手を尽くして、地図を集めました」

 ギリアムの指は幾度も支流を下流に向かってなぞる。

「中には、その川がフェニテに繋がっていることを知らないで作られた地図もありましょう…ですが、地図が正確ならば、大陸の多くの川が、砂漠を終点としているのです。私は思うのです、これは邪神の意志ではないかと。邪神はずっと、復活の機会を地中で黙ってうかがっていたのです…そして一度目は、この兄弟の争いを利用するつもりだったのです。当然、全ての身体の部位が集まったわけではなかったでしょう。川の流れはとてもゆっくりと、邪神を苛立たせるほどの速さでしか、邪神の分かたれた身体を運んで来なかったでしょうから。元々少年神トリスの分身である邪神は、我儘な子供のように気短なのかもしれません。不完全な邪神は、愛する女の心を得られず、民にも見放された、孤独な兄に取りついたのです。…不幸とは重なるもので、シアは死病にかかっていました」

 ギリアムは地図から目を上げた。それまで立っていた聴き手たちは、それを合図に再び腰を下ろす。この場にいる誰もが疲れていたが、流れを止めるものは居なかった。

『愛する女を助けたくば、我を受け入れろ。そうだ、女とお前を不老にしてやろうか?さすればお前は長い時間をかけて、女を口説くことが出来よう。お前が気に入っているらしいその女の外見も、美しいままだ。我ならできる』

 ギリアムは突然、今までと口調を変えた。誰もが驚いてギリアムを見るが、ギリアムが見ているのはただ一人だ。

『さあ、どうする?そうしている間にも女は死んでしまうかもしれない。さあ!』

 まるでギリアム自身が邪神に取りつかれたようだ。かたちのよい唇が歪み、口角が意地悪そうにつり上がる。ゴドーに向けて放たれる言葉は、低く、歌うようだ。

「…俺は!」

 ゴドーは言葉を切った。薄い緑の目に静かな怒りが灯り、ギリアムを射る。ギリアムは動じない。

 ここに居る誰もが、ギリアムの作り出した雰囲気に呑まれていた。ゴドーは真剣に考える。

「……俺が兄王であったとしても、女を救いたい。それ程に好きな女なら。だが、邪神に取り入られたりしない。そんなことをしても、女は喜ばない」

 普段の彼ならば、人目のある場でこんなことは言わないはずだった。

 ゴドーの答えに、ギリアムは満足したように表情を戻した。いつもの穏やかな口調で、ギリアムは更に問う。

「では、ゴドー様。貴方は目の前で愛する人が死んでいこうとするその時に、平静でいられますか?」

 ゴドーは固く手を握る。…答えられない。もし目の前で、ジリオンがこの世から消えていこうとしていたら…。

 ジリオンは今、確かに同じ空の下にいる。だからこそ、迷いつつも見送ることができた。いつか再会できると信じられた。だが、命の危険があるなら、どんなことをしても行かせなかった。

 …いや、本当は後悔している。綺麗ごとばかりの自分に反吐がでそうだ。

「……ギリアム、お前…ジリオンが死ぬって言うのか?」

 ゴドーは憤りをギリアムにぶつけそうになる。だが、殴りたいのは自分自身だ。ジリオンが他の男のものになることに、俺は耐えられるのか?…それは、あえて避けてきた問いだった。一度出てきてしまった自問が、ゴドーの中で暴れだそうとしている。理性と本能は別物だということを、ゴドーは思い知る。

「いいえ、いいえ、そんなことにはさせません。あの子が仮にも嫁いだことには意味がある…彼女にしかできない。ですが、長い間会っていなかったからといって、妹をわざわざ死なせに行く兄が、どこにおりましょうか。私は長い時間をかけて、全てを調べ、出来得る限りのことはしました。勿論、全てうまくいくとは思っていません。未知数の部分は、ここにいるあなた方にかかっている。…もし、ジリオンが万が一にも、死ぬ結果となった時には……私も命を絶ちましょう」

「そういう問題じゃねえ…!」

 ギリアムと出会ってから、ゴドーの心の壁は徐々に取り払われている。気付かないあいだに。

「分かっています、ゴドー様。私は自信があるからこそ、命を賭けるのです…それに、妹は王のものにはさせません。これだけは、お約束しましょう」

 まるでゴドーの心を読んだかのように、ギリアムはきっぱりと言った。



***



「…大丈夫でございますか?ジリオン様」

 遠慮がちに肩に添えられた手に、ジリオンは我に返る。

「すまない、エイナ。…素晴らしい劇だな。つい、見入ってしまった」

 物語は一幕目を終えて、すでに緞帳は降りている。いったん明るくなった客席で、ジリオンはしばらく動かなかった。

(お辛いだろうに…主人公の役にあのような名が付いていては)

 そう思ってもエイナは口には出さない。出せるわけもなかった。ジリオンの母が亡くなってから、セトの次に近くにいたのはエイナだ。ジリオンが何を好むか、よく知っている。

 食べ物なら葡萄、林檎。キハンの冬によく食べられる、野菜がたっぷり入った少し辛いスープ。野山を愛し、剣を振り回すのも好きだ。読書はそれ程好きではない…が、ひとつの物語は繰り返し読んでいた。自分の部屋の出窓に足を縮こめて座り、兄の手紙の束を綴ったものを楽しそうにめくる姿は、容易に思い出せる。

 ジリオンはなにも打ち明けないが、エイナだけは気づいている。ジリオンが誰に想いを寄せているかを。

(舞台の物語は、ギリアム様が書いたとか…亡くなられたかたを悪く言いたくはないけれど、罪なことをなさるものだわ…主人公にゴドーなどと)

 エイナがそこまで思った時だった。重苦しい雰囲気を突然破るものがいる。

「はじめまして、ジリオン様!私、フアナと言います!」

 舞台衣装のままのフアナが、足早にジリオンに近づき、上品な礼をする。ピンクの衣装が動きに合わせてふわふわと揺れる。

「…フアナ殿、とても可愛らしかったぞ。全く動かないのは、骨が折れるだろう。大したものだ」

 ジリオンは立ち上がり、フアナを立たせた。フアナは人形の役である。それは最大の賛辞だった。

「ありがとうございます!あの…それで、お聞きしたいことがあるのですが…その、ゴドー様はお元気でしょうか?」

 ジリオンはまさか目の前の可愛い娘から、ゴドーの名が出るなんて露ほども思っていなかった。動揺しないわけがない。胸のあたりから、否応なく熱いものがこみ上げてくるのを感じて、ジリオンは頬を押さえた。

 柔らかそうな黒髪が、フアナの前で流れる。

 フアナは恋する者の直感で理解した。目の前の美しい姫もまた、自分が想う男に恋をしていることに。

 フアナが何も言えないでいるほんの少しの間に、舞台の方がざわめいた。第二幕が始まろうとしている。…そういえば、この物語のヒロインは、二つ名のうち一つはジリオンだった。そのことに、意味などないと思っていた。物語の主軸は、ゴドーとジリオン。兄王の役名は、ハーギ。…兄の名は、あからさまなほど誰かに似ていないか。

 ただ、素敵な悲恋話だと、素直にそう思っていた。呑気な娘は、劇作家ギリアムの思惑にようやく気付く。ここで上演される劇は間違いなく評判になり、芝居好きの間で広まっていく。いつも満員の劇場には、溢れるほどの人が来るだろう。そして人々の胸に残るのは、想いあうゴドーとジリオンの名前。それを引き裂く男の名前。ギリアムはこれを『真実の物語』と言わなかったか。

 これは、今ここにある現実ではないか。
 
「フアナ殿、次の出番がないなら、一緒に観ていかないか?」

 既に動揺から立ち直ったジリオンは、フアナを自分の隣の席に誘う。

「はい、喜んで」

 フアナは即座に頷いた。ゴドーに迫ったあの夜、彼は自分に手を出さなかった。フアナは自分がそれなりに可愛いという自覚はある。色恋に疎いゴドーが、この姫に恋をしたというのか。それとも…姫の片想いなのか。

 見極めてやろう、とフアナは身構えた。顔を舞台に向けても、意識はジリオンに集中しつつ。

 二幕目が始まる。邪神と契約してしまった兄王ハーギ。迫りくる魔の軍勢、逃げ惑う人々。そして、弟ゴドーの前には、女神が舞い降りる…。



***



 ゴドーは話中に出てくる弟に、自分を重ねている。無理もない。彼の立場は非常に『弟』に似ている。ゴドーの想う人は、見栄と虚勢の塊だがこの国で一番権力を持った男に奪われていく。

「…兄は邪神の甘言に負けました。シアの命を助け、さらに永遠を生きるために、邪神に身を渡してしまったのです。醜く面変おもがわりした兄の元には、何処からともなく魔物が集まり、コーデリアの地は焦土と化しました。緑豊かな土地は、見る影もなく砂に変わっていきました。愛する女と国のため弟は善戦しましたが、相手は魔物。敵うはずがありません。リュートの地まで魔物に飲み込まれるしかない、誰もがそう思った時です、女神が弟の前に現れたのは。女神はまだ先の戦いの傷が癒えておらず、不十分な力しか持っていませんでした」

 さすがに疲れたのか、ギリアムが深い息をつく。リンジーがグラスに水を注ぐのは何度目だろうか。

「大丈夫ですか?」

「ありがとう、リンジー。もう少しですから」

 古い伝承の合間に、時折それを補うために自分の見解を入れ、ギリアムは語り続ける。話し始めた時には明るかった窓の外が、今は紫色になっている。疲れて当然だった。ギリアムはもう一度長い息を吐くと、最後のくだりを話しはじめた。

「女神はまず、弟と兄をとがめました。当然です、これは醜い愛憎が招いたこと。深く反省する弟でしたが、それでも戦いを止めるつもりはありませんでした。命の限り戦い、兄を…邪神を倒すべく傷ついた身体で立ち上がる弟に、女神は一振りの剣を授けました。破魔の剣です。弟はそれを押し戴き、兄をリュートとコーデリアの境にて待ったのです。まだ、仲の良い兄弟だったころ、親しく語り合った、思い出の地で…」

 ギリアムは少し咳をした。疲労の色は、彼のうつくしさに凄みを加えている。

「それは、すこし規模を小さくした神話の戦いの再現でした。邪神に操られる兄と、女神に希望を託された弟と。長い一騎打ちは、死の床からようやく這い出して、残りの命すべてを使って二人を止めに現れたシアをきっかけに、終わりに向かいました。兄弟はシアに意識を取られましたが、立ち直りは弟の方がわずかに早かった。兄は神剣に貫かれました…兄に憑いていた邪神は、神剣のせいで兄の身体から抜け出すことが出来ない。苦しみの中、邪神は兄に言いました。女を救いたくば、この剣を抜けと。そうすれば、すぐにあの女に不死をやろうと」

 ギリアムが言葉を切ったとき、イヴァートが何事か言い、指先を振った。燭台の蝋燭に次々と火が灯る。魔に魅入られたようになっていた人々は、その明りに目をしばたたかせる。

「暗い所で邪神の話をしちゃだめだよ、魔が入り込む。気持ちが沈むのは、良くないからね」

 イヴァートはどこまでも呑気である。

「すみませんね、イヴァート」

「いえいえ、どういたしまして」

「さて、話に戻りますが…兄は邪神の言葉に従い、最後の力で己に刺さった剣を引き抜きました。弟も満身創痍で、兄を止める力は残っていない。まして、いとしい女の死期を目の当たりにして、止められるはずもなかった。兄弟はシアの死を避けようとすることで、また罪を重ねようとしていました。力を失った邪神は、再び地に潜るしかない。そして自分勝手な怒りは、ここにいる三人に向いていたのです。せめて絶望を与えてやろうと」

 ゴドーが息をのむ。セトが足を組みかえた。二人とも無意識な動きだ。話の中といえども、いとしい人の名をもつ女に、救いがあってほしかった。



***



『おまえの言う永遠とは、どんなものだ?私には分からぬなあ』

 邪神は可愛らしい少年が演じている。黒い服を纏って、にやにやと笑っている。
 
 ジリオンは座席の柔らかい肘掛けに爪を食い込ませていることに気付いていない。夜空色の目は瞬きすら忘れたように、舞台を見つめている。

 私なら…ジリオンは考える。同じ名を持つ女に、ジリオンは同調する。私なら、死を選ぶ。

(いや…)

 ジリオンは即座に否定した。目の前にやっと逢えたゴドーがいるのだ。せめてほんの一刻、長く生きられたなら。いとしい人の腕の中で死ねるなら。

 ジリオンは肘掛けから手を離し、微かに痺れた指先で無意識のうちに唇をなぞる。旅立ちの時に、必ず迎えに来るとゴドーは言った。あのとき重ねた唇は、かさかさと渇いていた。あのとき背にまわされた腕には、消えかけた無数の傷跡があった。

 すべてが、すべてが恋しい。あの腕の中には不安など何もなかった。…では、自分の選んだ道は間違いだったのか。連れて逃げてと言えばよかったと。

(いや、ちがう)

 ジリオンは政道を正しく導くために、この道を選んだのだ。それが、キハン州候セトの孫であり養女たる自分の役目だ。それなりの身分に生まれ、衣食の不自由なく暮らした自分のやるべきことだ。愛する者と結ばれないものは、なにも自分だけではない。世の中に掃いて捨てるほどある話だ。

 唇から手を離し、ジリオンは口を引き結ぶ。全ては、甘い夢だったのだ。夢は日々重なる記憶に押し流せる。時間が過ぎれば、諦め、懐かしいと…そう、思えるはずだ。

 舞台では、兄が邪神の幼い戯言ざれごとに惑わされ、足元の砂をかき集める。そして、言い放つ。勝ち誇ったように弟を見て。

『この砂粒ほどの!この砂粒の数だけの命と若さを、我と女に与えよ!』

 邪神は笑った。大声で笑った。

『いいだろう、おまえには世話になった…だが、おまえは救わない。おまえは我の願いを叶えたわけではないからなあ。我は傷ついて、再び眠りにつくしかない…だれがおまえなど、救うものか。おまえは死にゆきながら、愛する女が蘇るのを見ているがいい!』

 邪神の嘲笑と、兄の叫びが混じり、響き渡った。そうして、シアは蘇り、断末魔をあげる兄の目の前で、弟の腕にいだかれる。

(私は、違う)

 ジリオンは思う。こんな結末は迎えない。私なら…きっと共に戦い…。

 そのあとの言葉は生まれなかった。幾ら考えても、答えは生まれなかった。そもそも諦めると決めたばかりではないか。

 考えに憑かれているジリオンは、そんな自分を見ているものがいることに気付かない。

 フアナは真剣な目で、ジリオンをじっと見ていた。ある決意とともに。



***



「…邪神は息絶える兄に嘲笑を残しながら、その姿を消しました。魔物の姿もともに消えました。西に荒野、東に緑地…コーデリアとリュートの境にて、弟はついに、愛する女を取り戻すことが出来たのです。ですが、代償が大き過ぎました」

「そりゃーそうだよね。国半分と民の命。それでめでたしめでたしはないよ」

 イヴァートの落ち着きがなくなってきている。後頭部で両手を組みながら、気だるそうに言った。ギリアムは旧友が愛だの恋だのに興味が無いことを知っている。

「イヴァート、もう少しで終わります…結論から言えば、二人に幸せは訪れませんでした」

 ゴドーが身体を動かしたのを目端に確認しながら、ギリアムは続ける。

「女神が現れたのです。二人に罰を下すために。邪神によって無数の砂粒と同じだけの不老不死を得たシアは、もう魔の眷属です。女神は紅玉をひとつ、シアに授けました。その玉が光り放つのは、絶望と怨嗟えんさと…それは、邪神の片目です。女神は兄弟たちの争いに邪神が気を取られている間に、フェニテの下流にて、この目を手に入れたのです。そして、神託はおごそかに下されました」

 いよいよ最後のくだりである。ギリアムは息を吸い込んだ。

「シアは、荒れ地と化し、もうこのまま砂漠と成り果てていくのが明白な地にて、その邪神の目をもって、持ち主を監視すること。また、その目を邪神から隠しとおし、出来得るかぎり、流れ着く邪神の身体の部分をあつめ、完全な復活を阻止すること。そして、弟には…この戦争の事実を封印し、この地に王都を置き、神剣をもって、砂と魔物の流出を阻止すること。邪神の復活の時は、神剣を携え立ち向かうこと。…これは神託ですから、否応は在りませんでした」

 ずっと黙っていたセトが、目頭を揉んだ。誤魔化しだろうと、ギリアムは思う。老人はすっかりシアに愛孫を重ねてしまっていて、その結末にまなじりが緩んだのだ。

「こうして、弟は今の王都を築き、シアは砂漠にひっそりと生きることになったのです。弟はすべてを忘れるように、国事に専念しました。国は狭くなりましたが、元通りの豊かな地になりました。事実を封印するのは、そう面倒なことではありませんでした。なぜなら、兄弟の戦いの場に居たのは、兄弟とシアのみだったからです。弟は、別れ際のシアの勧めにしたがい、全てはシアの罪と…そう、砂漠の伝説をつくりかえたのです」

「でもあながち嘘じゃないでしょ?その女のせいなんだから」

 イヴァートは余程シアが嫌いなようだ。

「確かにそうですね…ですがシアは性根の悪い女ではなかったのでしょうから、恐らくずっと罪の意識に苛まれて、砂漠で孤独に邪神と戦っているのではないでしょうか。……さて、これは私が先王の話をもとに、長い間研究し、補完した物語。大筋は変わっていませんが、私の見解も入っております。そしてここからは、私の推測のみですが」

 ギリアムが言いかけた時、慌ただしく扉が叩かれた。それは盗賊の谷からの使いだった。セトが立ち、動揺する使いの報告を受ける。聞いていたセトはやがて苦笑した。

「まったく、盗っ人め…落ち着きのないことだ。残ったものの面倒を押し付けおって」

 一同は、アストが旅立ったことを知った。ゴドーが立ち上がるのを、ギリアムは静かな眼差しで見ていた。


***



 深く率直に王を恨んでいる男は、普段の生活に戻ることなく、生まれてから一番いとしいと思った姫を追う。馬を駆って山道を下るその目には、思いつめた危険な光があった。

(絶対に王にはやらねえ!)

 アストは気ままにしがらみなく生きているが、王が妃を迎えるときのしきたりくらい知っている。妃となる女の供は、すべて引き返さなくてはならない。里心をつかせないためだと聞いたのは、何処の寝物語でだったろう。

 くだらねえ、可哀そうじゃねえか、そんなことをするのは王に自信が無い為だと、他人事ながら憤ったのを今でも覚えている。ジリオンの為なら、尚更だった。

 ジリオンは大事なものに王の怒りが及ぶことを懸念して、妃となることを受け入れたはずだ。大事なものとは、キハンの人々、そして王都の血縁…ならば、とアストは考える。

(キハンからの供が外れたときこそ、ジリオンを攫う時だ)

 アストは浅慮で軽薄だが、そんな欠点に自覚がある。今回は彼なりに考えた。護衛が王の関係ばかりなら、ジリオンを攫われてもそれは王の責任だ。アストにはうまくやる自信がある。

(問題は、ジリオンが俺と来てくれるかだ…お堅いジリオンには、俺の気持ちは遊びだと思われているからな)

 もうすぐ終わる山道を走りながら、アストは自嘲する。だが、心からの気持ちを込めれば、或いは。

「待ってろよ、ジリオン。俺が自由にしてやる!」

 考えが口をついて出ていることが分からないほど、アストの気持ちは急いていた。




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