遠くあの空のむこうに

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恋のから騒ぎ



 本業盗賊の気ままな男は、ほぼ不眠不休でレド州を抜け、センシア州に入っていた。途中何度か馬を替えての強行軍は、疲労となって身体に溜まっている。気を抜くとすぐにでも眠りこけてしまいそうだった。

 アストはセンシア州候の湖に浮かぶ城に入り込んでいる。湖上には魔法の光が漂っていて、城内はうす明るい。床に張られた細かなタイルが、見事な花模様を描き出しているのが分かる。

(キハンの城とは全然違うな…。槍城は地味だが、この城は派手だ…セトのじいさんにゃ、槍城が似合うが。だとしたらここの州候は…女?じゃねえよな、確か。男でこの趣味はすげえな)

 城主の顔を見てみてえ、とアストは呟く。

(でもまあ、窓が多くて助かる。兵士もあまり見かけねえし…っと!油断はいけねえ)

 アストは暗がりを見つけては、素早く移動した。夜の空気と、時折響く見回り兵らしい足音が、アストを不安にさせる。

「…畜生!ここでジリオンはひとりぼっちになるっていうのか!早過ぎる」

 数時間前の事だ。ようやく一息つこうとした酒場で、アストはジリオンの噂を聞いた。可哀そうな『先王の相談役の娘』は、この先ひとりで王の元に行くらしい。居てもたっても居られず、極限まで疲れた身体を奮い立たせるように強い酒を一杯ひっかけて、アストはジリオンを探している。闇雲にみえて、彼には頼るものがある。盗賊としての経験と勘だ。

 人の気配を避け、アストは湖に面した回廊を歩き、やがて一つの部屋に見当をつけた。部屋の前には一人の兵士が立っている。今はもう捨てたキハンの根城で、一戦交えた連中に違いなかった。ひとりくらいなら難なく倒す自信があったが、気付かれるまでの時間は長いほどいい。

 アストは近くの開いた窓から注意深く外を見た。目指す部屋は近く、小さなベランダが付いていた。ごつごつした石壁をアストは慎重につたい、そっとベランダに降り立った。

「あ、あんまりではございませんか!私は…ここで姫様をおひとりになど、できません」

 揺れるカーテンの奥から、年老いた女の涙声がする。その女は、どうやらアストと同じ気持ちのようだった。やっと言い終えた後、さめざめと泣く。

「エイナ、そう泣くな。私は大丈夫だ、心配することはない」

 年老いた女にかけられる労りに満ちた声に、アストは思わずカーテンに手を掛けそうになる。別れたのは遠い過去ではないのに、もうずっと会っていないようだ。アストは衝動を何とか抑え、耳をそばだてる。

「私は…はばかりながら、姫様のお祖母様と仲良くさせていただきました。まだお若いころ、不慮の事故で…その時に私は決めたのでございます。セト様とご家族にずっとお仕えしようと。姫様のお側を離れるなんて!どうせ老い先は短いのです、罰を受けても構いません。どうぞ、私だけでもお連れ下さい」

「エイナには本当に世話になった。どうか無理をしないで、キハンに戻りじじさまの傍に居てやって欲しい。じじさまは頑固で困る、うまくなだめられるのはエイナくらいだ」

 少しの間があって、気配が動いた。年老いた女の嗚咽おえつは大きくなったのに、くぐもって聞こえる。

「姫様、お召し物が私の涙で汚れてしまいます…」

「よいのだ、エイナ、じじさまをよろしく頼む。そしてどうか、元気で」

 ジリオンの声は優しく澄んでいた。アストは揺れるカーテンの奥を覗く。ジリオンの細い影に、エイナと呼ばれた侍女の影が重なっている。しばらく嗚咽が続いた。アストはじれったくなって、唇を噛んだ。誰かに抱きしめてもらうべきは、ジリオンの方なのに!

「さあ、もう遅い。ゆっくり休んで、気を付けて帰るのだぞ。エイナはそそっかしいのだから」

 ジリオンの精一杯の軽口に、エイナは身を起こした。

「…姫様のお幸せを、願っております」

 エイナが深々と頭を下げて、ゆっくりと部屋を出ていく。扉がきしむまでも、寂しいと訴えるようだった。

 ジリオンは長い溜息をついて、それから窓を振り返る。夜空色の目は、真っ直ぐにアストを見ていた。

「そこに隠れているのが誰だかは知らないが、おとなしく姿を現せ…覗きとは、よい趣味ではないな」

 こんな状況で迷わず剣を抜くはずの手が、近くの燭台をつかんだ。いつも近くにいる、小憎らしい鴉の気配もない。

 本当に全て、取り上げられてしまったのだ。

 アストは迷わずカーテンを引いた。賊だと思って身構えていたジリオンの表情が、思わぬ人物の登場に驚き、そして緩む。

「…誰かと思えば盗賊ではないか。衛兵を呼ばれても仕方が無いのだぞ」

 安堵の声が嬉しかった。アストは口元をきりりと引き締め、ジリオンの前に立つ。

「ジリオン、迎えに来た。俺と行こう」

 短い言葉に、ありったけの気持ちを込めて、アストは手を広げた。手の向こうにはカーテンが翻り、晴れ渡った夜空が、どこまでも広く続いている。ジリオンは眉を顰め、ゆっくりと首を振る。

「…アストにも分かっているはずだ。私にはやるべきことがある」

 拒絶ははじめから予想していたことだ。アストはめげることなく、ジリオンに近づく。同じ分だけジリオンも足を動かし、後ろに下がる。

「なあ、ジリオン…供も外されちまって、周りは王の手下ばかりだ。ここから逃げても、責めを負うのはあの威張りくさったイズンとかいう将軍じゃねえか。セトのじいさんにも、王都の家族も、責められるのは筋違いだ」

「たとえそうであったとしても、私は王に言うべきことがある。身勝手な贅沢の為に、苦しむものがいるということを」

 ジリオンの言葉は、更に前に出るアストの気迫に消された。

「なんでジリオンがやらなきゃいけねえんだ?王の傍にはたくさんの家来がいるだろう、女だってだ。そいつらが言ってやりゃいいことだ。それによ、周りが何も言わねえのは、王が余程怖いか、周りもうまい具合に甘い汁を吸ってるか…どの道、王宮にゃロクな奴はいねえ」

 即興で言ったことだが、核心ではないのか。ロクでもない王がいる国は、一見穏やかに見えるだけだ。傷のない林檎が、割ってみると虫に食い荒らされているときがある。この国も同じだ。王という虫に荒らされ始めている。

「この国は腐ってやがる…国なんか、滅びても構わねえじゃねえか!あんたが嫌な思いすることに、何の意味がある。なんのために、そこまでするんだ」

 好きだの愛だの、直接的で陳腐な言葉を使っても、ジリオンは離れていくに違いない。俺の好きな女は、真面目で奥手で、面倒な女だ。

 …だからこそ、好きなんだ。
 
「ジリオンがしょいこむことはねえんだよ」

「…………」

 ジリオンは何も言わずに俯いた。アストはゆっくりと頬に手をのばす。

 もう少しだ、もう少しでこの腕の中に…と思ったとき、ジリオンが顔を上げた。その表情を見ただけで、膨らみかけたアストの気持ちが急速に萎む。

「でも、私は行く。行かないと後悔する」

 ジリオンは真っ直ぐにアストを見上げた。

「アスト、王とはなんだ?国を守り、民の暮らしを守るものだと私は思う。自分の欲を優先していいはずがない。王のお側で誰も言うものが居ないなら、私が言う。不興を買おうが、そんなことはどうでもいい。私は、民の…みんなの幸せのために行きたい」

 曇りのない目が、アストには痛いようだった。

「どうしても、か」

「どうしてもだ」

 ダメだ、俺じゃ動かせねえ。この頑固な女の気持ちは。いままで何度も声をかけ、手練手管を尽くして愛を囁いたのに、ジリオンは一度もなびくことはなかった。

 アストの心を支配するのは、焼けつくような焦燥だった。頭には何も浮かばないのに、身体が勝手に動いて、ジリオンを無理に抱く。黒髪の向こうで、いままで目に入らなかった寝台が急に生々しく存在を主張する。

 腕の中でジリオンがもがいた。足を踏まれそうになるが、アストは簡単に避ける。剣を持てば一流だが、こうなっては普通の女と同じだった。どうあがいても、腕力では男に勝てない。

「そうそう踏まれねえよ。…なあ、ジリオン、嫁ぐっていうことがどういうことか、本当に分かっているのか?」

 暴れ続けるジリオンを難なくいましめ、アストが声を落とす。

「分かっている!それ以上言うな!」

 乱暴に扱うつもりはない。アストは欲望に忠実な男だ。ジリオンの心ごと、欲しいのだ。だから自分を抑えている。

「王にこうされてもいいのか」

「そんなこと、分からない!とにかく離せ!」

 乱れる息の中で、ジリオンは聞こえるか聞こえないかの声である男の名を呟く。

 その男の名を、アストは知っている。

「…ジリオン」

 アストはそっと身体を離す。その男は、ほんの短い時間でジリオンの心に住み着いてしまった。俺こそが、そこに相応ふさわしいはずなのに。

 湖を渡る風が吹き込んでくる。カーテンがはためき、小机の水差しを倒した。丸みのある水差しは、床に落ちて派手な音をたてる。

 見張りの気配が動いた。慌ただしく扉が叩かれる。

「姫、どうされました?」

 ジリオンは答えない。アストに時間を与えない気だ。

「アスト、早く逃げろ。じきに兵が来る」

「なあ…大将なら…ゴドーなら…一緒に行くのか?」

 言葉を発したアストも驚いたが、ジリオンはもっと驚いたようだった。無言のためらいのあと、目の前の男から目を逸らす。

「ジリオン、俺が大将を連れてきてやる」

 アストは低い声で言って、ベランダに向かう。行動しているのは確かに自分なのに、まるで別人の中に入り込んでしまったように、自分を理解できない。馬鹿じゃねえのか、なんだって恋敵の為に動かなきゃなんねえんだ。面倒なことはやめて、無理に連れ出せ…心がいくらそう訴えても、身体はカーテンを乱暴に払い除け、手すりに手をかける。

「駄目だ、そんなことはしてはいけない。私なら大丈夫だ」

 ジリオンがアストの腕をひいた。

「ジリオン…そんなに無理していい子になることはないんだぜ。それに、俺は気ままに生きてるんだ、好きなようにやるさ。必ず、大将と会わせてやる。俺自身に誓ってだ」

 さらに言い募ろうとするジリオンを抱き寄せたアストは、やや迷ってから頬に軽く口づけた。唇に伝わる体温は冷たい。

「…俺がなにをしても、ちっとも反応しないんだな。少しは熱くなってくれよ」

 苦笑して、愛しい女に触れた手を滑らせる。黒絹の髪に手を差し入れ、形のよい頭をなぞり、白い首筋を辿り、華奢な肩に留まり…しなやかな腕を降りて、珍しく逆らわない手を軽く握り、そして離れた。

「いいか、戻っては来ては駄目だ。盗賊は良くないし、沢山の女の人と付き合うのも…どうかと思う。真面目に働いて、長生きしろ」

「…そんなつまんねえ人生じゃ、それこそ死んじまうよ、ジリオン」

 このまま湖に飛び込んでしまいたいような自暴自棄な気持ちを押し込めて、アストは手すりをひらりと飛び越える。ちょうどそのとき、ジリオンの部屋に兵が遠慮がちに入ってきた。カーテンは相変わらずひらひらと舞っていて、部屋から外への視界を遮っている。

「ジリオン姫、何事ですか!」

「なんでもない、夜風に当たっていたら、水差しが風で倒れてしまっただけだ」

 アストは舌打ちして素早く元の回廊に戻り、ベランダを振り返る。

 ジリオンが手すりから身を乗り出していた。夜空に向かってたなびく黒髪は、明るい星空そのものの色だ。

(なんて綺麗な女だ…どうして攫って行かねえんだよ、俺は)

 こうして目を奪われるのは、いったい何度目だろうか。

 その場から動けないでいるアストに向かって、ジリオンの口が動く。

 声は、ない。ただ「元気で」と言ったのが分かる。…さっきのエイナとかいう侍女にかけた言葉だ。もう会うことはないと、そう言っているのだ。それは口下手な彼女の気遣いだった。

「前は触れば睨まれるだけだったのに、大した進歩じゃねえか」

 ここがどこかも忘れて、アストはジリオンに言う。

「待ってろよジリオン、絶対にあのデカいのを連れてきてやるからな、必ずだ!」

 その声は思ったより辺りに響いた。回廊の奥がにわかに騒がしくなり、気配がこちらに向かってくる。打ちひしがれた心を抱えて、アストは素早く闇の中に消えた。



***



 リンシュルの街は夜になっても人通りが多く賑やかで、特に劇場街はごったがえしている。一番人気の劇場で、今日から公演の劇があるからだ。ヒロインの名は、王に嫁ぐ途中のキハンの姫と同じ名で、そのことも相まってか、すでに評判となっている。

 丁度終わりの時間だったようだ。劇場から沢山の人が出てくる。劇場前の道には辻馬車が競うように停まっており、真っ直ぐ歩けないほどであった。

「なんていいお話なんでしょう、ねえ、あなた。主人公はあの傭兵将軍と同じ名前で。…ゴドー将軍はキハンに姫君を迎えに行って、そのまま出奔したというから…このお話、神話と言うけれど、実は本当のお話かもしれないわ。王様は、ゴドー将軍の想い人を無理やりさらっていくのね…本当に、なんてひどい」

 劇場から出てきた一組の夫婦が居る。夫が帰りの馬車を拾うために苦労する横で、妻はふくよかな指で目元を抑えた。

「これ、滅多なことをいうものじゃない。ハウレギ王はこの頃逆らうものに容赦がないと聞いたぞ…それにこの話…もしも真実ならば、あの恐ろしい邪神が蘇るかもしれない」

 夫の無粋な感想に、妻はもともと丸い頬をさらに膨らませ、何か反論しようとしたときだった。後ろから軽い衝撃を感じて、妻はふくれっ面のまま振り返る。

「…これは、すみませんでした、ご婦人。少し考え事をしていたもので。お怪我はありませんか?」

 丁寧に詫びる青年の紅茶色の瞳が、申し訳なさそうに翳る。思いもしなかった美しい青年の登場に呆ける夫人の手に、青年は気障ったらしく口づけた。

「本当に、お怪我がなくてよかった」

「ええ、いえ、そんな…」

 頬を赤らめる夫人ににこやかに笑いかけて人ごみに消え去る青年は、片手にもった財布をそっと懐にしまう。

「身なりがいいから、もっと持ってるかと思ったが」

 上品な笑みが仏頂面に戻る。

「つか、こんなとこでもゴドーかよ。…ちっ、これが飲まずにいられるか」

 深い傷を負った心を癒すには、酒が一番だった。アストは得たばかりの収入で適当な酒場に入る。わざわざ選んだわけではないが、偶然にもそこは女たちが酌をするような店だった。客はまばらである。

 アストには身勝手な持論があって、厚かましいことに自分では誠実な男だと思っている。惚れた女さえそばにいれば、全身全霊で大事にする自信がある。だが今は、その惚れた女に振られたばかりだ。どうせ癒されるなら、楽しい方がいい。女に付けられた傷は、女で癒すのが一番だ。

 アストはまずカウンターに座った。強い酒をどんどん飲み干す。…全く酔わない。だから更に強い酒を頼む。それでも酔わない。

「…参ったな、これじゃ…」

 立ち直れねえ。というより、なぜ女が寄ってこない。

 アストは飲みながら周りを見渡す。近くにいるのは男ばかりで、やはりつまらなそうに酒を飲んでいる。恨めしそうな視線が、一か所に集中している。いつもならその視線はアストのものであるはずだ。

 女を侍らせているのは、長い黒髪の男だった。真っ直ぐな髪は、長椅子にゆったりと組まれた足まで届いている。女たちはその髪の端を持ち、羨ましそうに梳いている。丸い石を連ねた耳飾りが、時折きらりと光る。

 男は長身で線がほそく、誰もが振り返るような綺麗な顔をしていた。何より印象的なのは、目だ。明け方の太陽のような金色の目が、女たちを見渡す。集まった女たちが、ほうっと息をつく。

 アストは他の男たちよりずっと恨めしそうにその様子をみて舌打ちした。それに気づいた黒髪の男が、余裕の笑みをアストに向ける。悔しいことに一瞬目を奪われそうになったアストは、また舌打ちしてカウンターに向き直った。

 周囲の無遠慮な視線を受け止めて、黒髪の男が立ち上がり、アストの脇に座る。

「皆、不景気な顔をしておるのう。酒がまずくなる」

「あんたのせいだろ」

「おぬしが不景気の筆頭じゃ」

 男は古めかしいマントと宝石をちりばめた剣を、大事そうに隣の椅子に置いた。女たちの中に戻るつもりはないらしい…あの剣を売れば幾らぐらいだろうと、アストは面白くない顔で考える。

「人を探しておっての、この街を通ったようなのじゃ」

「知るかよ、俺は一人で飲みてえんだ」

「強がりじゃのう。顔に『構ってくれ』と書いてあるぞ…それにしても人と話すというのは楽しいものじゃ。たとえ酔っ払いの相手であってもの。心のひろい私と会えて、おぬしは幸運じゃな。どれ、ひとつ繰り言を聞いてやろうではないか。代わりに、あとで私の話を聞いてくれればよい」

「何を訳の分からないことを言ってんだ」

「おぬし、女にでも振られたか」

 冗談のつもりだったようだが、黒髪の男の言葉がぐさりと刺さる。

「うるせえな」

 アストはそっぽを向いた。

「女は大事に扱わねばダメじゃ。やさしく宝石を愛でるようにの」

 黒髪の男の声は、鈴のようだ。年寄り臭い話し方と相まって、心地よい余韻を耳に残す。うっとりとする女たちに、男が笑いかける。女たちはため息をつく。

「若い娘は可愛いのう。こちらまで若返るようじゃ」

「…面白くねえ冗談だな。つか、あんた一体幾つだよ」

「ふふふ、幾つに見えるかの」

 からかい口調を無視して、アストは酒を煽った。嫌でも目に入る黒髪は、ジリオンを思い出させる。完全に失恋したつもりはない。ジリオンがアストに「元気で」と言ったのは、優しい気遣いだ。関係はやや前進したはずで、まだ諦める必要はない。

 だが、ジリオンはアストの腕の中で、ゴドーの名を呼んだ。…やはりそれがショックだった。

 アストは頭を抱えた。急に酔いがまわり、不覚にも涙が出そうになる。

「おぬし、飲み過ぎじゃな」

 黒髪の男の声が頭で響く。どんどん自棄になっていく気持ちをどうすることもできない。

「あーもう面倒だ…」

 アストは意識を手放しかけて、気が付いたときは黒髪の男にもたれていた。…いい匂いがした。

「こんなところで寝ては店に迷惑じゃ。おぬし、宿はあるのか」

「ほんとにうるせえな、ほっといてくれよ」

 アストは代金を置き、立ち上がる。途端に視界がぐらりと揺れた。床に倒れそうなアストを、黒髪の男が「やれやれ、とんだ荷物を拾ってしまった」と言って支える。

 こんな思いをするのは全部ゴドーのせいだ。だがゴドーの事を嫌いではない。自分を助けてくれたし、何事にも真摯なところは羨ましいくらいだ。だから尚更頭に来るのだ。ゴドーは自分と正反対の男だ。

「畜生、ゴドー…」

 かすれた声で呟くが、うまく恨み辛みを込めることが出来ない。

「おぬし、今、なんと言った?」

 黒髪の男が、妙に真剣に尋ねたが、アストは何も言えずに意識を手放した。



 …どれくらい時が経ったのか分からない。アストは見知らぬ部屋に寝ていた。どうやらどこかの宿らしかった。まだ目がまわり、意識が朦朧としている。

「ここは何処だ」

「起きたか。馬鹿な飲み方をしたものじゃ」

 不意に近くで声がする。かすむ視界にいるのは、先ほどの酒場で会ったばかりの男だった。

「…なんで俺に優しくするんだ。俺に気があるのか?」

「馬鹿を言うな、痴れ者め。おぬし、酔ってひっくり返る前に、誰かの名を呼んだであろう…その名をもう一度」

 男は最後まで話せなかった。なぜならアストに抱き寄せられたからだ。黒髪が耳元で掻き上げられ、耳飾りを付けた耳に熱い息がかかる。

「何をするのじゃ!」

 急なことに驚いて男はアストの胸を押した。その手はアストの手に敢え無く捉えられる。男の手は女のように華奢だ。

「何だか知らねえが、夜中に俺みたいな男と二人きりになったあんたが悪い」

「ど、どういう理屈じゃ!これ、離さぬか!」

「宝石を愛でるように、だろ?あんたそう言ったよな」

 アストはまるで宝石の鑑定士が上等な石を扱うように丁寧で、そして強引だ。男がもがけばもがくほど、アストに優しく絡め捕られていく。強い力で押さえられているのに、身体のどこかに痛みを感じることはなかった。

 アストの指が、首元まできっちりと閉じられた男の襟元を辿る。

「なあ、あんた男のなりをしているが、女だろ?」

 いつのまにか上になったアストが、艶のある声で囁いた。

「な、何を急に!」

 どうやら図星だったらしい。黒髪の男…もとい女は、中性的な雰囲気を持っていた。男物を着ていれば、確かに男に見えた。だが、アストは元々女だと見抜いていた。女好きを自認するのは伊達ではない。

 アストは寝台の上でうねる黒髪を掬い、唇を付けた。酔いは冷めるどころか、どんどん深くなっていく。今の状況が、更に酔いを深めているのかも知れなかった。

「どうしてだ、どうして俺を見てくれないんだ…俺は確かに、行いはよくねえし、ふらふらしているかもしれねえ」

 アストが苦しげにうめく。

「その通りじゃな、というか退かぬか!いい加減にせぬと」

「俺を拒まないでくれ……ジリオン」

 その名が。

 その名が、女の身体を強張らせた。金色の目が見ひらかれ、アストではなくどこか遠くを見ている。

 その名を贈ってくれた人の顔を、もう思い出せない。だが、とても愛しいと思っていたことは憶えている。愛しい人の体温も、憶えている。そして、長く耐えてきた孤独を思い知らされる。

 アストは動きを止めた女の片方の手をとり、自分の頬に添わせる。二人は真正面から見つめ合う。

 出会ったばかりの名も知らぬ二人は、向き合う瞳の中にこれから起こる事への言い訳を探している。お互いに違う人を心に描き、耐え難い寂しさを抱えて。

「きれいな目だ」

「私は好きではない」

 この色は魔の証し。人だったころは違う色をしていた。何色だったかはもう思い出せない。あまりにも遠い昔のことだ。

「俺は好きだ」

 アストの言葉に逆らうように女の目がゆっくりと閉じられ、長い睫が震える。こぼれた涙はアストの舌に掬い取られた。いちど躊躇ってから重ねられた唇は、微かな塩気を帯びている。

 二人の息遣いは合わさり、夜に溶けていく。

 もう声が言葉を生むことはなかった。



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