遠くあの空のむこうに

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黒き王のめざめ



 微かな気配を感じて、女は身体を起こしかけ、自分の上にある逞しい腕の存在に気づいた。朦朧もうろうとした頭に、つい先ほどのことが一気に蘇り、否応なく喉のあたりが熱くなる。間近にある男の顔…そういえば、名を知らなかった。自分は何も身に着けてないことを知り、脱ぎ捨ててあった服を羽織った。乱雑に放られていた服には、消えない皺が残っている。それは唐突で慌ただしい交歓の名残だった。

「短慮なことをしたものじゃ…」

 女は乱れて顔にまとわりついた髪を耳にかけ、窓から差し込む明かりに照らされた男の顔を見る。起きてふてくされていた時も幼く感じたが、枕に半分沈んだ寝顔は無防備で、ほんとうに幼く見えた。まつ毛は長く、目の下に濃い影を落としている。疲労の色は、長く時間をかけてつくられたものなのか…それとも、先ほどの。

「本当に私は、何をしておるのかの」

 女は喉の奥で笑って、眠りから覚めそうもない男の頬にそっと触れた。自分の体温よりも冷たい。手の感触に男の寝息が一瞬乱れた。

 うすい光は徐々に室内を明るくしていく。外から扉の開く音が聞こえ、続いた足音はすぐに水音に変わる。リンシュルの小さな宿屋の主人は、勤労なようだ。

 女は眠る男から離れ、窓を開け放った。井戸の水のように冷えた早朝の空気が心地よかった。

「ジリオン、か」

 男が言ったのは自分の事ではない、それくらいは分かる。だがその名を聞くのは久しぶりで、随分と動揺してしまった。

「ジリオン」

 もう一度呟いてみる。心は静かで、さざなみすら起こらない。昨夜のことは短慮としか言いようが無かったが、そのあとに訪れた眠りは思いのほか安らかで、女の心から焦りを取り除いた。砂漠を出てから…いや出る前から、自分はいったいどれだけ焦っていたのだろう。女神との約束を守らねば、と。遠い過去の罪を償うために。

「私の名は、シア…そうじゃろう?」

 女は自問し、即座に頷いた。

 女は二つ持つ名のうち『ジリオン』を、胸の奥に封印した。それは愛されることだけを望んだ弱い女の名だ。女は今、過去の罪を償うだけの『シア』となった。

 シアは若い美しい顔に似合わない年寄りくさいしぐさで腕を組み、未だ起きる気配のまるでない男を見た。本当は起きる前に出ていきたいところだが、シアの目的にたどり着く手段はこの男しか持っていない。街で聞いた限りでは、会いたいと思う男は居所不明なのだから。

「まさか砂漠を出た後、将軍になって…出奔したとはのう。そんなに目まぐるしい人生を送っているとは思わなかったわ、ゴドー。いったいどこで何をしているやら」

 シアはため息をつく。彼女からは艶めかしさはすっかり抜け落ちていた。



***



 リンシュルの隅にあるこの宿は家族経営の小さな宿だが、客の満足度は高い。経営者夫婦は早朝から厨房に入り、客たちに振る舞う料理を作る。食堂には食欲を刺激する香りが漂い、洗い立ての麻布がかけられたテーブルはすぐに満席になる。常連客もそうでない客も、出された料理に満足しながら談笑する。いつもと変わらぬ光景…のはずなのだが。

 給仕をするこの宿の娘には、親に内緒の趣味がある。昨夜はつい夢中になり過ぎて寝坊をしてしまい、母親に軽く注意された。舌をだしてから前掛けをつけ食堂に出た娘は、ひとつのテーブルに目を奪われた。

 綺麗な顔をした若い男がふたり、向かい合っている。それだけでも十分に惹きつけられるのに、雰囲気がおかしい。片方の男は不機嫌さを隠そうともせずに黙々と食べ、対面の男は水を入ったコップを前に頭を抱えていた。喧嘩でもしているのか漂う空気は険悪で、それは近くのテーブルまで流れ出し、周りの空気も暗くしている有り様だ。

 娘はちらちらと二人の様子をうかがいながら給仕に忙しく立ち働く。美しい男が二人、これは彼女の密かな趣味に彩りを加えるに違いない。よく観察しておかなければ。

 なんとか近くに寄ろうと水差しを持ったとき、丁度よく片方の男がコップの水を一息に飲み干した。娘は髪を撫でつけ、二人のテーブルにさり気なく寄った。

「お水はいかがですか?それとも温かい紅茶をお持ちしましょうか?」

 娘は無意識に余所行きの高い声を出し、水を飲んで突っ伏している男に問いかける。男は気だるげに顔を上げた。

「ああ、わりいな」

 空のコップを差し出す男の目は紅茶の色に似ている。褐色の肌には精彩がない。具合でも悪いのだろうか、と娘は思いながら水を注ぎ足す。

「ああ頭がいてえ」

 再び水を飲み干す男の様子に、対面の男が金色の目を向けた。

「飲みすぎじゃ、馬鹿者め」

 金色の目の男は、食事をする手を休めずに言う。並べられた皿の数は多い。金色の目の男は優雅に食べ、空になった皿をひとまとめにすると娘に笑いかける。とろけそうな笑みに、娘は水差しを落としかけて慌てる。

「すまぬが、お代わりをいただこうかの。ここの料理は美味じゃ」

「どんだけ食うんだよ」

 紅茶色の目の男が呆れ顔をつくるが、目の前の男は答えない。紅茶色の目の男は「へっ」とつまらなそうに息を吐き出した。

「運動した後は飯が美味いってな」

「何を言っておるのじゃ」

 娘はすっかり給仕を忘れてテーブルの横に立っている。水差しを落とさないのは奇跡に近い。二人の男の声はよく通る。今やこの食堂中の視線が自分たちに注がれていることに全く気付いていないほど、二人は見つめ合って…いや、睨み合っていた。

 注文を受けても動かない娘に気付いた母親が、出来たての料理を運んでくる。湯気のたった料理をテーブルに置きながら、娘の脇腹を小突こうとしたその時だった。

「察しがわりいな。俺との夜はなかなかだったろう、って言ってるんだよ」

 娘の手の中の水差しがとうとう床に落ち、母親の手の中の皿から料理がこぼれ、食堂は静まり返り、金色の目の男が立ち上がった。顔は真っ赤である。

「何を言っておるのじゃ、そんなことは忘れたわ!おぬしも早く忘れよ!」

「何言ってんだよ、俺は結構…」

 紅茶色の目の男が言い終わる前に、金色の目の男は腰の剣を鞘ごとつかみ、力いっぱい振り回した。避ける間もなく紅茶色の目の男がひっくり返る。皿が盛大に割れた。

「悪いが、食事はもうよい。すまぬことをした」

 金色の目の男はテーブルの上に多めの硬貨を置き娘と母親に謝ると、倒れた男の襟首を掴んで足早に食堂を出ていく。

 人騒がせな二人が去ると、食堂は徐々にいつもの雰囲気に戻っていく。娘はまだ動かない。今度こそ母親に脇腹を小突かれ、慌てて動き出す。

 娘は落とした水差しを片付けながら、絶対にあの二人を密かな趣味に生かそうと考えていた。そしてこの娘、暫くしてこの演劇の都・リンシュルで女流劇作家として活躍することになるのだった。

「こんな忌々しい男に道案内を頼まねばならぬとは…私の運も尽きたかもしれぬの」

 シアは忌々しげに金色の目を細めて、アストを強引に馬に括り付けた。馬の背にうつぶせた姿勢は、酔いの収まっていない身には少々辛い。獣の匂いに、アストは吐きそうになる。

「いってえな!これが人にものを頼む態度かよ!ジリオン!」

「私の名はジリオンではない。おぬしごときに教えてやることもないが、不便ゆえ仕方がない…私の名はシアじゃ。シア様と呼ぶがよい」

「何がシア様だよ、なら俺はアスト様だ!」

 二人は存分に睨み合い、同時にそっぽを向いた。シアは馬の背で暴れる質の悪い荷を一瞥し、馬に飛び乗った。急がねばならない。シアの目に狂いが無ければ、ゴドーは戦ってくれるはずだ。もちろん、助力は惜しまない。

 走り出す馬の背で揺られながら、アストは二日酔いと戦っている。

(全く、とんでもねえ女だ。ジリオンって名に反応したが、似ても似つかねえ)

 シアが『ジリオン』の名に何かしらの思い入れがあるのは確かなことだ。アストは馬を巧みに操るこの女が好きではないが、興味はある。ゴドーの所に行きたいらしいが、道行きで何か分かるだろう。

 アストは無理に馬の背から顔を上げて、朝もやの中で黒髪を揺らめかせるシアを見た。金色の瞳は真っ直ぐに前を向いている。きゅっと引き締めた口元は、思い人に重なった。

「けっ、似ても似つかねえじゃねえか。俺のジリオンはただ一人だ」

「何か言うたかのう、気のせいかもしれんが」

「ああ、気のせいだよ」

 二人はそれきり話さなかった。奇妙な関係の二人は、そのままキハンを目指して朝もやの中に消えていった。



***



 砂漠からの風が、王都の上にひろがる青空に黄味を溶かしている。嘆きの砂漠から魔物が出てこないなら、砂もそうであったらいいのに…王都の人々は空を見上げた。細かな砂は干したばかりの洗濯物に纏わりつき、市場では色とりどりの野菜や果物から艶を消した。王都は砂色にけむり、精彩を欠いていた。だがそれは、砂のせいばかりではなかった。

 細かな砂は白亜の王宮にも侵入し、磨かれた床を這う。じゃりじゃりと鳴る靴底を不快に思いながら、壮年の男がひとり、王の間へと急いでいる。先王の相談役であり商人、その人柄から民に慕われるゼオルであった。彼はどうしても、王と会わねばならない。

 娘を王の傍にあげると決めたのは春のはじめのことだ。この頃すっかり夏の気配がするとはいえ、まだ季節は変わっていない。それほど短い間に王は変わった、悪い方に。我儘ぶりに拍車がかかり、気分で臣を遠ざけるようになった。

(それだけなら、まだしも…)

 王は何の罪もない女官を斬り捨てた。つい先日の夜の事だ。王は記憶にないと言い、悪びれる様子は全くない。肉の薄い頬を引きらせて、女が勝手に死んだのだと笑う。…女の傷は、背からうけた刀傷ひとつだった。恐らくは叫ぶ間もないほどに、一太刀で命を取られていた。

 その話を聞いたとき、ゼオルは幼いころの娘を思い出した。少々お転婆で、愛らしい娘。自分に良く懐いていた。

(ギリアムが奪われ、さらに娘まで…。ギリアムは出立の前に手紙を残した。考えがあってのことだろう。生きていると信じたいが)

 ギリアムが王軍の手にかかって死んだという知らせは、ゼオルを深く傷つけていた。年齢の割には艶やかだった黒髪に、急に白いものが混じりはじめている。

(そのうえ、娘が…ジリオンまでそのようなことになったら)

死んだ女官が、娘に重なって仕方がない。ゼオルは父親として、王と対峙しなければならない。王の間の前でゼオルは一度立ち止まり、急ぎ足で中へと歩を進めた。

 リュートの若き王ハウレギ=カナトア=リュートは、玉座にて民から慕われる臣を待っていた。すぐ隣には最近お気に入りのドルトーネとかいう男が立ち、少し離れて重臣が幾人か控えている。王の暴虐ぶりにも何も言わない、日和見ひよりみの臣ばかりであった。かつて先王の時代に、ゼオルと国政について議論を交わした臣はこの場にはいない。老いて退いた臣も勿論いるが、大半は遠ざけられたのだ。

 味方の居ないゼオルは玉座から数歩離れた場所でとまり、膝をついた。ハウレギは面白そうにその様子を見ている。娘を寄越せと呼びつけられた時と、あまり変わりない光景であった。変わったとすれば、ハウレギの様子だ。

「我が忠実なる臣、ゼオルよ。顔を上げよ」

 外は快晴だというのに、この王の間には光すら射さないのではないか。そう思えるような暗い笑顔が、ゼオルの前にある。ハウレギは少し痩せた。豪奢な白い服から伸びる腕は棒のようだ。これでよく、女官を一太刀で絶命させたものだ。

 ゼオルはふと視線を感じ、そちらを向く。ドルトーネの氷色の目が、こちらを見ている。彼は武人であり、王の傍での帯刀を許されている。当然その腰には剣があったが、ゼオルの目はなぜかそこから離れない。

「して、ゼオルよ。余に何の用だ。お主の娘の話なら要らぬ。もうすぐこちらに着くと使いがきた…大層美しいそうだな」

 嫌らしい笑い声に、ゼオルの視線は強引に引き戻された。ゼオルは口をひらく。

「王、いま少し政情に目を向けてくださいませぬか」

 ゼオルの口調は優しいが、それははっきりとした諫言かんげんに他ならない。ハウレギの笑みが消え、重臣たちが微かにざわめいた。ドルトーネだけが表情を変えずにゼオルを見ている。
 
「リュートは近隣に類を見ないほど、長く安寧を保つ国です。安らかな日々は女神シンラの恩恵でしょうか?いいえ違います、王のお血筋が、この国を永く守ってこられたのです」

 ゼオルはあえて創造神たる女神よりもうえ、と王家をたたえた。ゼオルの諫言は一度目ではない。この王に真っ直ぐな諫めは通じない、と分かっている。

「ゼオルよ、余はその血筋に外れたと言いたいのか」

「いいえ、そうではありません。王は続いた王家のすべてを受け継がれてここにおわすお方。ほんの少し、そのお力を外に向けていただくだけで、この国はもっと良くなってゆきましょう。ですからどうか」

 この王に言葉が届くことがあるかどうかは、ゼオルには分からない。だがゼオルはやらねばならなかった。先王の血を継いでいるなら、或いはと…一縷の望みを賭けた。娘の人生を、少しでも幸せなものにしたい。

 だが、その望みは叶いそうもなかった。ハウレギは鬱陶しそうにゼオルの言葉を遮ると、顔を強張らせた重臣たちを見た。

「お前たち、この不届き者を牢に繋げ。夜には首を刎ねよ」

 これには日和見の重臣たちも息を呑んだ。今までのハウレギであったら、癇癪を起こして後宮に籠ってしまうだけだった筈だ。それをまさか、諫言ひとつで、首を…。

「何をまごついている。そなた達も首を出すか?」

 ある程度覚悟を決めてここに居るゼオルは、身動みじろぎひとつしない。王の間は広く、少し大きな声を出すと意外なほど響く。ハウレギの声は反響して、耳に残る。いつものハウレギの声よりも低い。体調がすぐれないのだろうか。

 重臣たちは慌てて動き、控えている衛兵にゼオルを捕縛するように命じた。ゼオルは両腕を背で拘束される。見た目には痛々しかったが、拘束された箇所には痛みは感じない。衛兵たちもまた、逆らえないながらも王の決定に不満を持っていた。

 ゼオルは考える。なんとか王の濁った眼を正したかった。だが、いったい何を言えばいいのか。

「早う連れていけ、顔も見たくないわ」

「王、しばしお待ちいただけませんか」

 ハウレギの無慈悲な声に、重なる声があった。今まで黙っていたドルトーネである。ドルトーネはハウレギとゼオルの間に立った。

「…ドルトーネ、貴様、我の側ではなかったか」

 ハウレギが低くうなる。ドルトーネに視界を遮られたゼオルから、ハウレギの顔は見えない。が、発せられた声は、もはやいつもと少し違うどころではない。重く低く這うような声なのに、子供じみた苛立ちをさらけ出す。

 これではあまりに違う、…別人だ。いったい、何が起こっているというのだ。ゼオルの背を、冷たい汗が流れていく。

 ドルトーネはハウレギの変化に戸惑うことなく、拘束されたゼオルを一瞥した。冷たい目からは感情はいっさい読み取れない。

「王、この場はお気持ちをお収め下さい。ゼオル殿は王の近くに娘御を置くことになった幸運に、少し動転しておられるのです。娘と連れ添う人物ががたとえどんなにすぐれた人物であれ、それに嫉妬するのが父親というもの…。ゼオル殿、お察しします」

 言葉こそ温情にあふれているが、ドルトーネの視線は氷の矢のようにゼオルに放たれる。ゼオルはそれを真っ向から受け止めた。

「ドルトーネ殿、貴殿は私の言葉を世迷言と片付けるか」

「そうは言いません、だが言うまでもなく王はこの国の礎、たとえ先王に重用された功臣とはいえ、つまらない言葉で気安く王のお立場を揺るがしていいとお思いか」
 
 ドルトーネは鋭く言い放ち、王にうやうやしく膝をついた。ゼオルに反論の余地を与えることなく、言葉を紡ぐ。

「我が王よ、ゼオル殿は花嫁の父、不敬を働いたとはいえ、キハン州候の孫姫・ジリオン殿を迎え、王の御手まで導く役目がございます。ここはお気持ちを静められて」

 ハウレギはしばし黙る。ドルトーネが膝をついたせいで、ゼオルは王の様子を見ることが出来た。怒りに赤くなっていた肌が、いつもの青白さを取り戻す。それにしてもハウレギの瞳…声のするほうをしっかりと見ているようで、視点が僅かに合っていない。まるで、見えていないような素振りだった。

 ハウレギは玉座から立ち上がる。

「いいだろう、ドルトーネ。お前に免じてゼオルを許そうではないか。余は寛大な王だからな…ただし、不敬は不敬、これでは示しがつかぬ」

 ならば、とドルトーネが言う。

「王の寛大な処置をお示しになればよろしいかと」

 ドルトーネは一度も顔に出さないが、ハウレギの変化に歯噛みしたい気分だ。彼が崇める邪神はいまや、この不出来な異母兄弟にすっかり取りついている。まだ力が弱く、夜しか出てこられない筈の邪神ワードワープは、ハウレギの脆弱な精神に強い影響を与えていた。いずれすっかりその身体を乗っ取られるにしても、狂王になるには早過ぎる。完全な邪神の復活まで、この国の安定は保つべきだ。ハウレギのひ弱な身体は、仮のものでしかない。ドルトーネが目指すのは、ワードワープの完全なる復活である。

(馬鹿な弟よ、すっかり邪神に毒されて…ゼオルを殺すということは、人心を離れさせることになる。今はまだ早いのだ…今はまだ、ゼオルを生かさねばならない)

 ドルトーネの思惑など知らず、ハウレギは唐突に笑った。

「寛大か、それはいい考えだ。ゼオル、我への不敬を働いた罪により罰を与えよう」

 ここに居るものすべてが固唾をのむ中、ハウレギはゆっくりとゼオルを指差した。

「先王の相談役ゼオル、鞭打ちに処す。速やかに刑に服し、娘の到着まで謹慎せよ」

 ハウレギの声が弾んで聞こえるのは、気のせいではない。ゼオルは深々と腰を折るしかなかった。ふがいない自分を責めながら。

 ハウレギは可笑しそうに短く笑ったあと、急に力が抜けたように玉座に腰を下ろした。幾度か咳き込んだあとの顔には血の気がのぼると同時に、目に光が戻った。

「どうだ、ドルトーネ。余の裁量はなかなかであろう。そうだ、打つのは背だけにしておけ、姫を迎える父の顔が傷ついていては良くないからな」

「賢明な判断かと」

 その静かな声のあとに、内心でドルトーネは「愚かな真似をしてくれた」と続けた。水牛の皮で作られた丈夫な鞭で何十と打ち据えらる拷問は、屈強な罪人でも恐れおののく。ゼオルは外見こそ若いが、年齢を考えると下手をすれば命を落とすだろう。

 ハウレギは上機嫌で王の間を出ていく。行く先はお定まりの後宮だ。ゼオルのことなど忘れたような足取りだった。女官たちに導かれるハウレギから離れたドルトーネは、刑吏のもとへと向かう。ゼオルを死なせてはならないと、きつく言い渡さなければならない。

(ゼオルの娘など、呼ぶのではなかった。忌まわしい名をもつ姫よ)

 砂漠の女王・ジリオン=シア、そしてキハンの姫・ジリオン。顔を見たこともない二人の女が、ドルトーネを邪魔している。



***



 王宮の上には月がのぼり、雲がたなびいている。女たちと遊び疲れたハウレギが、ようやく眠りについた。殺された女官の話は当然後宮にひろまっている。普段はハウレギの寵を競っている女たちも、こわごわと若い王の傍を離れていく。庭園からの薔薇の香りだけが、ハウレギの身体を包んでいる。

 仰向いて眠るハウレギの白い夜着に、灰色の影が映る。

「この薔薇は、魔の好む香りだと知っているか?イズン」

 ドルトーネはハウレギの寝姿を見下ろして、控える敗戦の将軍に言った。

 疼痛と屈辱に塗れた男が、腕を無くした傷の治療をおえてドルトーネの前に佇んでいる。…イズンである。イズンは姫の到着の先触れとして帰還した。腕の傷は悪化するばかりで、王宮の医師が診てもいっこうに痛みは治まらない。脳天まで届くような痛みに顔を歪めるたびに、腕を奪った男のにくい顔を思い出した。

 イズンはドルトーネ密命のうち、ひとつを遂行し、ひとつを失敗した。奪うべき命は二つだった筈…だがイズンの報告に、ドルトーネは眉をひそめることは無かった。腕の痛みに耐えきれず、姫より先にここに戻ったことについても、何も言わない。

 イズンは自己顕示欲の塊だが、今はただ目の前の男が恐ろしく、この場から早く立ち去りたいと思っていた。男子禁制である筈の後宮に入ったのは初めてのことだ。薔薇のせいか、女たちの気配せいか…この場所の香りは妖しく華やいでいたが、イズンには何の慰めにもならなかった。

「薔薇には二種類あることはあまり知られていない。魔をはらう薔薇、魔を呼ぶ薔薇…。先王の時代、この庭には白い薔薇が溢れていた。退魔の薔薇だ」

 ドルトーネは近くの茂みから、薔薇を一輪摘み取った。その薔薇は血のように紅く、月明かりだけの中では黒く見えた。

「これほど紅い花は他にないだろう…俺が全て植え替えさせた。魔を呼ぶように、彼の御方の好きな…血の色の」

 ドルトーネの視線は、イズンのうしろを見ている。イズンは怖気を感じて急いで振り返る。

「王…!」

 眠ったはずのハウレギが、ゆらゆらと立っている。項垂れて、白い夜着を夜風に揺らす姿は、幽鬼のようだ。イズンは急いで跪いて、この場にいる非礼を詫び、頭をたれた。

「薔薇は、赤に限る…女神が厭い、我をたぎらせる、人の血の」

 ハウレギの声がおかしい。奇妙に震える声に、イズンは顔を上げる。

 恐ろしく歪んだハウレギの顔が、間近にあった。焦点の合わない洞のような目が、イズンを捉える。

「我が君、どうかこの野心に溢れた男に、再起の力をお与えください」

「いいだろう。我の僕となる幸運を与えようぞ」

 ハウレギがだらりと垂れた腕を振り上げた。虚空をさす指の先には赤い月がある。イズンはこの場から逃げたかったが、声すら出ない。

 ハウレギの指先が、白い布の巻かれた肩に触れた。…触れる瞬間まで、イズンは痛みすら忘れていた。

「ぐうっ!」

 イズンは肩に途方もない熱さを感じ、うずくまる。それは熱さではない、痛みだ。あまりにも鋭い痛みが、イズンに熱さと勘違いさせたのだ。

「イズン将軍、貴方にはあらためて頼みたいことがある」

 ドルトーネの声は、果たしてイズンの耳に聞こえていたろうか。

 濡れた地面から何かが湧きだすような音が続けざまに薔薇の庭園にひろがり、合間に獣の声にも似た叫びが聴こえるのを女たちは聴いた。

 


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